【閑話】帳簿
【ゼニス歴1069年 クロノ視点】
最初の異変に気づいたのは父だった。
「クロノ、この数字を見てくれ」
夕食の後、父が帳簿を広げた。
父の名前はレオン。王都エルドラッドの商業区で15年間、薬草と香辛料の卸売りを営んでいた。取引先は城下の薬師、料理人、治癒師の補助をする者たち——地味だが、確かな需要がある商売だった。
帳簿は父の誇りだった。
一日も欠かさず、一銅貨も誤魔化さず、15年間つけ続けた記録。
「先月の徴税額が、去年と違う」
父は帳簿の二ページを並べて開いた。
「去年はこの額だった。でも今月の請求はこれだ」
私は数字を見た。
確かに違う。去年より二割以上高い。
「申告のミスじゃないの?」
「私が間違えるわけがない」
父は静かに言った。
「では徴税局の計算が間違っているか、あるいは——」
父は続きを言わなかった。
でも私にはわかった。
「確認しに行ってくる」
「クロノ!」
父は私を止めた。
「私が行く。お父さんは店番をして。私が行ってくる」
父は少し黙った。
「……気をつけるんだぞ」
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王都の徴税局は、商業区の中心にある石造りの建物だ。
窓口に並んで、担当者に帳簿を見せた。
「先月の請求額が昨年と異なります。確認していただけますか」
担当者は帳簿をちらりと見た。
「区画の税率が変更になりました」
「いつですか」
「三ヶ月前です」
「通知は受けていません」
「通知は掲示板に出してあります」
「掲示板を毎日確認しています。そのような掲示はありませんでした」
担当者は少し面倒そうな顔をした。
「記録上は変更されています。以上です」
「記録を見せてもらえますか」
「開示できません」
「なぜですか」
「内部規定です」
私は少し考えた。
「では、変更の根拠となった法令の番号を教えてください。自分で確認します」
担当者は侮蔑の目で私を見る。若い娘が、一人で窓口に来て生意気にも記録の開示を求めている。彼にはそう映るのだろう。
「お嬢さん、少々難しい言葉も書いてございます。親御さんに来ていただいた方がよろしいかと思いますよ」
彼の嫌味を含んだ笑みに対して、私は微笑んだ。
「父が来ると、また明日仕事が止まります。この程度、私で十分です」
担当者には響かず、番号をサッと伝えられると、直ぐに次の人を呼んだ。
それから半年で、父の店は限界に近づいた。
税額は上がり続けた。去年より二割、三割——最終的には五割近く増えた。
父は毎月、正確に払い続けた。
帳簿に、全部記録した。
その間、私は三度、徴税局に行った。
一度目:担当者に「規定通りです」と言われた。
二度目:上の窓口に行ったが「調査中です」と言われた。
三度目:「すでに回答済みです」と言われた。
三度目の帰り道、私は初めて、今起きている事実の本質を理解した。
これは間違いではない。
故意だ。
誰かが意図して、父の店の税額を上げ、父を潰そうとしている。
でも——訴えても動かない仕組みが、すでにできあがっている。
決定的な出来事は、その年の秋に起きた。
「…クロノ」
父が私を呼んだ。顔色が悪い。
「免税期間の記録が——」
父は帳簿と、届いた書類を並べた。
「この店は、開業から10年間、一部免税が認められていた。まだ3年残っているはずだ。でもこの書類には——免税期間終了、と書いてある」
私は書類を見た。
日付は2ヶ月前。
「これは——」
「偽造だ」
父は静かに言った。
その一言に、15年分の重さがあった。
父は怒鳴らなかった。泣かなかった。ただ——その手が、少し震えていた。
「お父さん」
「私が間違えるわけがない。数字は裏切らない。」
父はもう一度、同じ言葉を言った。
今度は——自分に言い聞かせるように。
翌日、私は帳簿と書類を持って、徴税局ではなく、王都の裁定機関に行った。
「不服申し立てをしたい」
窓口の男は書類を受け取った。
「調査に時間がかかります。その間、納税義務は継続されます」
「わかっています」
「結果が出るまでの期間、異議申し立て中の税額についても、現行の請求額をお支払いいただく必要があります」
「……それは」
「規定です」
私は少し黙った。
払えない、とは言わなかった。
でも——計算はできた。
調査が終わるまで半年から一年。その間、増額された税を払い続ければ——父の店の資金は底をつく。
「わかりました」
私は笑顔で言った。
「よろしくお願いします」
結果が出たのは、8ヶ月後だった。
「申し立てを棄却します。現行の徴税額は適正と判断されました」
一行の文書だった。
理由も、根拠も、何も書いていない。
「…たった一行だと」
父は文書を見ながら、小さく言った。
「私の血のにじむような15年に答えるには、一行で十分だいうのか」
「お父さん…」
「……クロノ、数字は、数字は裏切らない…」
「わかってる。お父さんは正しい」
父は何も言わなかった。
ただ——その手が、少し震えていた。
その夜、父が倒れた。
それから一週間、父は起き上がれなかった。
その日から、母は父の看病に明け暮れた。私は店を守ろうとした。
でも資金が尽きた。
8ヶ月間、増額された税を払い続けた。
申し立ての費用も使った。
在庫を全部売り払っても、足りなかった。
店を畳む日、私は帳簿を最後にもう一度開いた。
15年分の数字が並んでいる。
父が一銅貨も誤魔化さずにつけ続けた、15年分の仕事の記録。これは父の日記であり、生きた証だ。
どこに出しても恥ずかしくない父の生き様だ。
正しい。どこにも嘘がない。
でも——それが、この世界では何の意味も持たなかった。
「クロノ」
ある夜、父が目を開けた。
「お父さん」
「……店は」
「大丈夫」
嘘をついた。
父は少し黙って、それから言った。
「帳簿を持っていけ」
「え?」
「どこに行っても——あれだけは持っていけ。私が間違えていないという証拠だから」
私は頷いた。
「わかってる」
「クロノ」
父はまた目を閉じた。
「お前は正しい。そのままでいい」
王都を離れたのは、初雪が降った夜だった。
荷物はほとんどない。持てるものだけを持って、三人で夜の王都を歩いた。
母が父を支えていた。父の足取りは重く、時々止まった。
「もう少しだよ」
母が言うたびに、父は頷いた。
私は荷物を持った。
一番重いのは帳簿だった。三冊分——15年分の記録を、革の袋に入れて背負った。
「捨てればいいのに」
母が一度だけ言った。
「捨てない」
私は言った。
「なんで」
「証拠だから」
母は黙った。
父が立ち止まった。
振り返ると、商業区の通りの奥に、店の看板がまだ立っていた。
「レオン商会」
父が15年前に自分で彫った文字だ。少し不格好な字で、でも深く、丁寧に刻まれていた。
「……看板、置いていくのか」
父が言った。
「重いから」と私は言った。
本当は——持って行けるなら持って行きたかった。でも、持てるものには限りがある。帳簿と、父と、母と——それだけで、今の私には限界だった。
父は看板を見ていた。
雪が降り始めていた。
「クロノ」
父が言った。
「帳簿を——」
「持ってる」
「大事に」
「わかってる」
「あれだけが——」
「わかってるよ、お父さん」
私は少し声が揺れたかもしれない。でも——そこで泣くつもりはなかった。
泣いている場合じゃない。
今夜この街を出て、どこかにたどり着かなければならない。
父を休ませる場所を見つけなければならない。
母が倒れないようにしなければならない。
計算することはいくらでもある。
感情は後でいい。
「行こう」
私は言った。
三人で歩き始めた。
看板が遠くなった。
雪の中で、「レオン商会」の文字が白くなっていく。
父が一度だけ振り返った。
私は振り返らなかった。
振り返ったら——計算が崩れる気がしたから。
リオネッサに着いた時、父はもう歩けなかった。
宿を借りて、父を寝かせた。母が隣に座った。
私は部屋の隅で、帳簿を膝に抱えた。
「なんとかする」
誰にも聞こえない声で言った。
証拠はある。
ただ——それを使う力が、今の私にはない。
力を持っている誰かを見つけるか。
力を自分で作るか。
どちらかだ。
リオネッサの夜は、王都より暗かった。
街灯も少なく、石畳も粗く、どこかで誰かが怒鳴っている声がした。
「こんなところまで来てしまった」
母が小さく言った。
「大丈夫」
私は答えた。
「戻れる」
「……本当に?」
「本当に」
根拠はなかった。
でも——帳簿の重さが、膝の上にあった。
父が15年間、一銅貨も誤魔化さずに積み上げてきたもの。
これがある限り——負けていない。
父はまだ、息をしている。
それだけで、今夜は十分だ。
明日のことは、明日考える。
リオネッサの夜風が、窓の隙間から入ってきた。




