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26話 【ゼニス歴1071年 ニール視点】

エルバート王国兵が退いてから二日が経った。

市場は普段通りに戻っていた。屋台が並び、商人が声を上げ、子供が走り回っている。


でも——何かが変わった。


治療院の前を通る人間の目が、前と少し違う。

怯えではなく、何か別のものが混じっている。


「先生~、お客さんだよ~」

ミアが顔を出した。

「患者か」

「違う感じ~。きちんとした服着てる~」

治療院の表に出ると、一人の若い女が立っていた。

年齢は俺と同じくらいか、少し上か。きちんとした商人風の服を着ているが、よく見ると袖の端が擦り切れている。靴も補修した跡がある。かつては良いものを身につけていた——でも今は違う。

「治療院の先生ですか」

「そうだ」

「少しお話できますか」

穏やかな声だった。でもその目は、笑っていない。計算している目だ。

「中へ」


彼女は名前をクロノと名乗った。

「父が商売をしていました。王都で十五年」

「今は」

「二年前に取り潰されました」

俺は黙って続きを待った。

「徴税の滞納を理由に。でも父は払っていました。正規の額を、きちんと」

「証拠は?」

「あります。帳簿が全部残っています」クロノは静かに言った。

「エルバート王国に訴えたか」

「三度。全部、門前払いでした。誰も話を聞いてくれなかった」

それがエルバート王国のやり方だ。正しいことを言っても、力がなければ届かない。

「それで俺のところに来た理由は?」

「二日前の件を見ていました」クロノは言った。

「あなたは正規の徴税額を数字で示した。エルバート王国の法律で、エルバート王国兵を退けた」


「それで?」

「あなたを信頼できる人と見越してお願いがあります。あなたが作っている薬を、私に売らせてほしいんです」

俺は少し考えた。


「商売の話か」

「そうです」

クロノは姿勢を正した。

「この街にはアステリズム神聖国の治癒師は来ない。それなのにあなたの治療院は患者を無償で診ている。ここではあなたの価値が正当に評価されていない。でも、それは今後あなたがやろうとしている事の一部なのでしょう。だから理解できる。だけど——他の都市では違う。エルバート王国の他の都市では、あなたの価値は計り知れないものとなるでしょう。それこそ大量のお金を払ってでも欲しいと思うほどに。」


「なるほど」

「私には父の代から続く商業ネットワークがあります。王都、南の交易都市、港湾の卸業者——繋がりはまだ生きています。あなたの薬を商品として流通させれば、資金が作れる」

「俺に何のメリットがある」


「資金です」

クロノは言った。


「戦うにはお金がかかる。武器、食料、人員——全部、金で動く。私はそれを調達できる」

俺はクロノを見た。


計算が速い。商人の娘として育ってきた人間の頭の回転だ。


「ひとつ聞いていいか」

「どうぞ」

「お前の本当の目的は何だ」

クロノの表情が、一瞬だけ崩れた。

ほんの一瞬だ。だが、すぐに商人の顔に戻り、こう言う。

「商売の再興です」

「それだけか」

「……それだけです」


嘘ではないだろう。でも——全部でもない。


「わかった」

俺は言った。

「条件がある」

「聞かせてください」

「薬は俺が作る。品質の管理は俺がする。売り先はお前が決めていい。

ただし——エルバート王国の軍に売るな。治癒師のいない地域の民衆に届けることを優先しろ」

クロノはしばらく黙った。

商人として計算しているのがわかる。軍への販売を除外すれば、利益は下がる。

「……わかりました」

「それと」


俺は続けた。

「お前の父親の帳簿、見せてくれ」

クロノの目が変わった。

今度は計算ではない。別の何かだ。

「……なぜですか」

「使えるかもしれない。エルバート王国の不正の証拠として」

クロノはしばらく俺を見ていた。

それから、初めて笑った。

作った笑顔ではない。少しだけ、崩れた笑顔だ。

「わかりました」


カインに話すと、一言だけ言った。

「資金調達か。必要だった」

「異論はないか」

「彼女の目的を確認したか」

「表向きは家業の再興だ」

「裏は」

「まだわからない」

カインは少し考えた。

「使えるうちは使え。ただし——全部は渡すな」

「わかってる」


ミラとミアがクロノをじろじろ見ている。

「きちんとした人じゃん」とミラが言った。

「でも~、なんか計算してる感じがする~」とミアが言った。

「お前らも計算してるだろ」

「あたしたちは愛嬌があるから許されるんだ~」

「なんだそれは」


呆れていると、ピノが奥からクロノを覗いて呟いた。

「また増えた・・・」

「ああ」

「布団が足りない・・・」

「それを考えるのが——」

「わかってるよ!俺の仕事なんでしょーー!」

ピノはぷんすか怒りながら去って走っていった。


クロノはその様子を見て、また少し笑った。

今度は作っていない顔だった。

「賑やかですね」

「そうだな」

「……父の店も、こんな感じでした」

小さく言った。


俺は何も言わなかった。

でも——その一言で、クロノという人間の輪郭が少し見えた気がした。

「明日、帳簿を持ってきます」

「ああ。待ってる」

クロノは立ち上がって、頭を下げた。

「よろしくお願いします、先生」

「ニールでいい」

「……ニールさん」


クロノが出ていった後、カインが言った。

「あの娘、復讐がしたいんだろうな」

「たぶんな」

「お前と同じだ」

俺は少し考えた。

「似てるが、違う」

「どこが」

「俺は感情で動いている。あいつは計算で動いている。でも——計算の奥に、感情がある」

カインは短く頷いた。

「使いやすい人間だ」

「そうだな」

リオネッサの夕暮れが、治療院の窓から差し込んでいた。

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