25話 【ゼニス歴1071年 ニール視点】
カインが来てから、十日が経った。
治療院の日常は変わらない。患者が来て、診て、薬を渡す。ピノが走り回って、イルルが包帯を巻いて、ミラとミアが薬草の在庫を管理する。
ただ——空気が少し変わった。
カインの部下たちが、治療院の周辺に自然に散らばるようになった。屋台で飯を食う者、路地で酒を飲む者、荷物を運び込む手伝いをする者——全員、さりげなく治療院の周囲を見ている。
「警護か?」と俺は聞いた。
「情報収集だ」とカインは答えた。
「同じことだ」
「違う。警護は受動的だ。情報収集は能動的だ」
議論しても仕方ないので黙った。
しばらくして、ミラが駆け込んできた。
「先生、市場がやばい」
「何があった」
「エルバート王国兵だ。徴税の名目で店を潰してる。逆らった商人が殴られた」
俺は上着を取った。
「何人いる?」
「十人くらい。隊長らしい奴が一人、あとは雑魚」
「カインに伝えろ」
「もう伝えた!」
ミラは既に走り出していた。
市場は治療院から徒歩で五分ほどの距離にある。
着いた時、広場の中央で男が地面に倒れていた。額から血が出ている。周りで商人たちが固まって見ている。誰も動けない。
エルバート王国兵が十二人。中央に隊長格の男が一人。体格が良く、革鎧を着ている。
「この区画の先月分の滞納だ。払えないなら荷物で払え」
隊長が言っている。
倒れている男の屋台——干し肉と香辛料を並べた小さな店だ。
俺は怪我をしている男に近づいた。
「近づくな!」
兵士の一人が槍の柄で俺を通せんぼしようとした。
俺はそれをかわして、男に近寄り、額の傷を確認した。深くはない。でも出血が多い。
「貴様、治療院の奴か」
隊長が俺を見た。
「そうだ」
「退け。邪魔をするな」
「傷の手当をする。それが終わったら退く」
「今すぐ退けと言っている」
隊長は俺の目の前に来た。
俺は立ち上がって、隊長を見た。
20歳の男が、完全武装の兵士を前に立っている。
普通なら無謀だと思われる。でも——俺の手の中には、革袋がある。
「ひとつ聞いていいか」
俺は静かに言った。
「この区画の先月分の正規の税率を、あんたは正確に把握しているか?」
隊長が眉をひそめた。
「何?」
「リオネッサ辺境領の徴税規定、第三条——辺境指定地域における商業税は通常税率の六割を上限とする。この市場は辺境指定区域だ。お前たちが請求している額は、規定の一・四倍になっている」
広場が静まった。
隊長の顔が変わった。
「……どこでそれを」
「エルバート王国の公式文書だ。読めるなら確認しろ」
これはカインの情報網から得たものだ。リオネッサ辺境領の徴税記録——正確な数字と、エルバート王国兵がどこで誤魔化しているかを、カインの部下が十日かけて調べてきた。
「貴様——」
隊長が剣に手をかけた瞬間。
「待て」
低い声が広場に響いた。
カインだ。
いつの間にか、市場の入り口に立っている。その背後に、部下が七人。全員、武装している。
隊長はカインを見た。カインを見て、その後ろを見た。
「……傭兵か」
「そうだ」
「エルバート王国の徴税に逆らうつもりか」
「逆らっていない」
カインは静かに言った。
「不正な徴税に対して、規定通りの対応を求めているだけだ。それともエルバート王国は、自分たちの法律を守る気がないのか」
沈黙が広場を満たした。
商人たちが、兵士たちが、全員動きを止めている。
隊長は俺を見た。カインを見た。部下を見た。
計算しているのがわかる。十二対八。戦えば勝てるかもしれない。でも——問題はその後だ。「不正徴税」という事実が広まれば、自分たちの立場が悪くなる。
「……今日のところはこちらが退く」
隊長は言った。
「だが、覚えておけ」
「ああ」とカインは言った。「俺たちも覚えておく」
兵士たちが引いていった。
広場に残った商人たちが、ざわめき始めた。
俺は倒れていた男の傷を手当しながら、カインに言った。
「次が来る」
「三日以内だ」カインは答えた。「今度は増員してくる」
「何人くらいだ」
「三十から五十。リオネッサに駐留しているエルバート王国兵の数からすると、それが限界だ」
「それまでに準備できるか」
「できる」
カインは短く答えた。
その目に、迷いはなかった。
三日後の夜明け前、ミラが治療院の扉を叩いた。
「来る!四十二人。夜明けと同時に市場を包囲するみたいだ!」
「方向は!?」
「東門から半分、南の路地から半分。挟み撃ちにするつもりだ」
「よく調べた」
「当然でしょ」
ミラはニヤッと笑って、ミアと一緒に屋根に上っていった。
カインが地図を広げた。
「ここに誘い込む」
指したのは市場の東側、石畳が続く細い路地だ。
「幅が狭い。大人数で押してきても、一度に動けるのは三人が限界だ」
「そこに毒を仕込む」
「ああ。皮膚接触型の麻痺薬——お前が得意なやつだ」
俺は頷いた。
蛇毒ベースの麻痺毒。昨日から仕込んでいた。路地に深めの水たまりを作り、そこに蒔いておく。
踏んだ者は数分で足の感覚がなくなり動かせなくなる。四、五時間で抜けるが——それだけあれば十分だ。
「俺とお前が正面に立つ」とカインは言った。「部下が両脇を固める。ミラとミアが屋根から動きを把握する。イルルとピノは治療院から出るな」
「わかった」
「ひとつだけ確認しておく」
カインは俺を見た。
「お前は今日、人を殺す気があるか」
俺は少し考えた。
「なるべく殺さない。でも——向こうがそうしてくるなら話は別だ」
「それでいい」
カインは地図を畳んだ。
「では始める前に、もうひとつだけ」
「何だ」
「怖いか」
俺は少し驚いた。
カインがそういう問いをしてくるとは思っていなかった。
「……少しな」
「それでいい」カインは言った。「怖くない人間は判断を誤る」
「お前は怖くないのか」
「俺は自衛官だ。専守防衛は魂に刻まれている。」
それだけ言って、カインは外に出た。
俺はしばらく地図を見ていた。
デイル。
親父はこういう時、何を考えていたんだろうか。
夜明けと同時に、エルバート王国兵が来た。
カインの読み通り、四十二人だった。
新しい隊長は騎士の装備を身につけている。今度は本気で潰しに来た、ということだ。
「治療院を中心に活動する不審な集団がいると報告があった。エルバート王国の命令に逆らう反乱分子として処断する」
隊長が市場の広場で言った。
商人たちは全員、昨夜のうちに避難している。
広場に残っているのは——俺とカインと、部下が六人。それだけだ。
四十二対八。
数字だけ見れば話にならない。
「……随分と少ないな」
隊長が言った。余裕の声だ。
「この人数で我々に逆らうつもりか」
「逆らっていない」
カインは静かに言った。
「エルバート王国の法律に従って、不正を正しているだけだ」
「詭弁を言うな」
「詭弁ではない。三日前の徴税額の不正は、書類に残っている。それを市民が訴えれば、王都の裁定機関が動く。——エルバート王国は、自分たちの法律を信用していないのか」
隊長の顔が歪んだ。
「前置きはいい。かかれ!」
四十二人が動いた。
東の路地に向かった半分が——俺の仕込んだ水たまりを踏んだ。
当然、足回りは革靴。現代日本とちがい、防水性はほとんどない。
麻痺毒が靴に染み込み、直足に触れる。
しばらくすると「足が——」「なんだこれ」「足が動かねえ!」
二十人が次々と崩れ落ちる。
残る二十二人が正面から来る。
「今だ」
カインの声。
部下たちが動いた。
カインの部下は全員、長年傭兵として戦い続けた人間だ。一人一人の戦闘力が違う。エルバート王国兵三人を相手に一人で対応できる。
狭い広場での乱戦——数の優位が意味をなさない状況に持ち込むのが、カインの作戦だった。
俺は残っていた粉の入った瓶を、まとめて人込みの中に投じた。
視界を塞ぐ緑の煙が広がる。
混乱。
怒鳴り声。
「見えない!」
「毒だ!退け!」
煙の中でカインが動いている気配がした。音もなく、正確に——相手の戦意を削ぐ動きで。殺さない。でも戦えなくさせる。
数分後、煙が晴れた時——広場に立っていたのは、俺たちだけだった。
エルバート王国兵は全員、地面に倒れているか、壁に寄りかかっているか、あるいはすでに逃げ出していた。
隊長だけが、まだ立っていた。
剣を抜いたまま、動けずにいる。
俺が目の前に立った。
「今日は退け」
俺は静かに言った。
「貴様——」
「次に来る時は、正規の手続きを踏んで来い。でなければ——今日と同じことが起きる」
隊長は俺を睨みつけた。
「……覚えておけ」
隊長はそれだけ言って、部下を連れて引いていった。
それとは別に貴族風の若い男が、ずっとこの状況を眺めていた。
広場が静かになった。
倒れているエルバート王国兵たちが、うめき声を上げながらゆっくりと動き始めている。
毒は抜けつつある。数時間後には全員動けるようになるだろう。
「終わったよ~」
屋根の上からミアが声を上げた。
「怪我人は」とカインが言った。
「こっちはいないよ~」とミアが返した。「向こうは十数人、足が動かない以外は軽傷」
「よし」
カインは短く言って、部下たちを確認した。全員無事だ。
俺はカインの隣に立った。
「うまくいった」
「今回は」とカインは言った。「次は変えてくる」
「わかってる」
「エルバート王国は馬鹿じゃない。同じ手は通じなくなる」
「だから毎回、違う手を使う」
カインは俺を見た。
少しだけ、表情が動いた。
「……お前、本当に20歳か?」
「この世界では、な」
「そうか」
それだけ言って、カインは視線を広場に戻した。
何が言いたかったのかはわからない。でも——悪い顔ではなかった。
しばらくして、商人たちが広場に戻ってきた。
最初は恐る恐る、それが次第に増えていって、気づいたら三十人以上になっていた。
誰も何も言わなかった。
でも——一人の老婆が、俺の前に来た。
治療院の常連だ。足の悪い婆さんで、毎週薬を取りに来る。
「先生」
「ああ」
「ありがとね」
それだけ言って、深く頭を下げた。
ありがとう、という言葉が——自分の中の何かに刺さった。
デイルを失った時から、ずっと怒りで動いてきた。エルバート王国を腐らせる、根っこを崩す——そのことしか考えていなかった。
でも今日、この婆さんに頭を下げられて、初めて思った。
俺がやっていることは——復讐だけじゃないのかもしれない、と。
カインが隣に来た。
「これが民心というやつか」
「……ああ」
「俺には作れないものだ」
「あんたの部下たちが動いてくれたから今日がある。俺一人じゃ何もできなかった」
カインは少し黙った。
「補い合っている、ということか」
「そういうことだ」
「先生!」
ピノが治療院から飛び出してきた。
「商人のおじさんたちが、お礼したいって言ってる! 食い物とか持ってきてる!」
「受け取れ」
「やった!!」
ピノが走っていった。
カインはその背中を見ながら言った。
「あの子供は何者だ」
「患者だった。なぜか居着いた」
「そういうのが増えるぞ」
「わかってる」
「それでいいのか」
俺は少し考えた。
「それがいい」
カインは続ける。
「賑やかになるぞ」
「元からそうだ」
「もっと、という意味だ」
俺は広場を見渡した。
商人たちの顔が、朝より少し違う。少し希望が見えた。そんな顔をしている。
「これが——始まりだ」
俺は小さく言った。
カインは何も言わなかった。
でも隣に立ったまま、同じ景色を見ていた。
リオネッサの空は高く、青かった。




