【閑話】双花 ②
【ゼニス歴1067年 ミラ視点】
孤児院から逃げて三日で、あたし達は盗みを覚えた。
市場の屋台から果物をかっぱらう。財布から小銭を抜く。腕は悪かったが、あたし達は足が速いので逃げ切れた。
夜は路地の隅で丸まって寝た。雨の日は軒下で寄り添った。
孤児院が恋しいとは思わなかった。
一度も思わなかった。
そうやって一ヶ月ほど生きていた頃、声をかけてきた女がいた。
「やめときな。下手くそすぎる」
三十になるかならないかくらいの女だった。赤みがかった茶色い髪を後ろで束ねて、行商人風の格好をしている。顔は普通だが、目が笑っていない。
「うるさい」
「さっきの財布、気付かれてたよ。男が追いかけてこなかったのは、私が一声かけたからだよ」
あたしは女を見た。
嘘をついている顔ではなかった。
「…なんで助けた」
「面白かったから。双子の子供がスリをやってるなんて珍しいでしょ」
「馬鹿にしてるのか」
「してないさ」
女は少し間を置いてから言う。
「…私も孤児院出身だから」
あたしの警戒が緩むことはなかったが、この女はほかの大人とは少し違う気がした。。
女の名前はセルナといった。
セルナはあたし達に盗みの手業を教えた。
金持ちの見分け方、田舎者の見分け方、財布の紐の解き方、雑踏での歩き方、視線の外し方、声で相手の注意を引く方法。逃げ道を先に確認しておくこと。仕事の前日は必ず下見をすること。
「まず見ること」とセルナは言った。「動くのはその後さ」
あたしはセルナの仕事を盗み見て覚えた。
実際に手を動かして覚えた。
ミアはあたしが覚えたことを聞いて覚えた。
毎晩二人で反省した。
何が良くて何が悪かったかを話し合った。
半年で、あたし達はそこそこ動けるようになった。
一年で、セルナに「使える」と言われた。
「褒めてるの?」とミアが聞く。
「当たり前だろ」とセルナは言った。
照れ隠しが下手な人間だった。
でも、分かる人間には分かる。
この人は本当に褒めている時と、嘘で褒めている時の目が全然違う。前者は稀だけど、確かに存在する。あたし達にそれを向けてくれる時、あたしはセルナのことが少しだけ好きだと思った。
少しだけ。
人を好きになるのにはもう慎重になっていた。
2年が経った時、セルナが仕事に失敗した。
「ミラ、今夜は帰れないかもしれない」
前の晩、セルナはそう言っていた。
あたしは「気をつけてね、師匠」と言った。ミアは「絶対帰ってきてね、師匠~」と言った。
朝になってもセルナは帰ってこなかった。
昼になっても帰ってこなかった。
夕方、王都の処刑台に人だかりができていた。
あたしは近づかなかった。ミアに「見るな」と言った。ミアは頷いた。
でもミアは分かっていた。あたしも分かっていた。
二人でその場所から離れた。
「逃げよう」
ミアが言う。
「…どこへ」
「南。王都から一番遠いところ」
考える時間はなかった。
セルナを雇っていた連中が今頃あたし達を探しているはずだった。
王都にいたら捕まる。
「…行くか」
「行こう」
あたし達は王都を出た。
持っているのは小さな荷物と、二年分の手業と、それだけだった。
振り返らなかった。今度も振り返らなかった。
振り返っても、待っていてくれる人間がいないのはもう慣れている。
ミアだけがいた。ミアだけでいい。
あたしはそう思うことにした。
南へ向かう道は長かった。
街から街へ渡り歩きながら、あたし達は小銭を稼いだ。宿には泊まれないから馬小屋や納屋で寝た。
ミアは文句を言わなかった。
「寒いね」と言う時も笑っていた。
「お腹すいたね」と言う時も笑っていた。
あたしはその笑い方が嫌いだった。無理しているのが分かるから。
「泣いていいぞ」と言ったら、「泣いてないし」と返ってきた。
「…お前の笑い方は泣く前の顔だ」
ミアは少し黙った。それからちゃんと泣いた。
泣き終わったら「すっきりした」と言っていた。
そういう妹だ。あたしは何も言わなかった。
気が付けば2年経ち、ゼニス歴で1071年になっていた。
リオネッサという地名を聞いたのは、ある宿場町の居酒屋だった。
「南の辺境の、ならず者が集まる場所だ」と酔った男が言っていた。「エルバート王国も半分見捨てた土地で、どこへも行けなくなった奴が流れていく」
どこへも行けなくなった奴が流れていく場所。
あたしは隣のミアを見た。ミアもあたしを見た。
何も言わなくても分かった。双子だから。
リオネッサに向かうことにした。
道中、仕事はそれなりにあった。
宿場町の市場では手業が鈍らないよう動いていた。
セルナに仕込まれたものは確かで、2年経っても錆びていない。
それだけが誇りだった。
ミアの体調が崩れ始めたのは、リオネッサまであと数日というところだった。
最初は「なんか身体が重いね」と言っていた。
「疲れてるだけだろ」とあたしは言った。
次の日、「ちょっと頭が痛いかも」と言っていた。
「少し休もう」とあたしは言った。
でも休む場所がなかった。金もなかった。動き続けるしかなかった。
干し肉を食わせた。しっかり食べて腹が膨れれば問題ない。
だけど、ミアの体調は良くならなかった。
三日目の朝、ミアが起き上がれなかった。
「大丈夫だよ」とミアは言う。
起き上がれていない。
どこが大丈夫なんだよ。
腕を見た。
昨日どこかで引っ掛けた小さな傷がある。
治っていない。滲んでいる。唇の色がおかしかった。
紫がかっている。
「…ミア」
「ほんとに大丈夫だって。もうちょっと休んだら歩けるよ」
声が弱い。
あたしはミアを背負った。
ミアは軽かった。
セルナと一緒にいた頃より、ずっと軽かった。ちゃんと食えていなかったからだ。
あたしも同じだった。でも、あたしが姉だから。
歩いた。ひたすら歩いた。
「ミラ、重いでしょ、降ろしてよ」
「黙ってろ」
「ほんとに大丈夫だって」
「黙ってろって言ってんだ」
声が荒くなった。怖かったからだ。ミアの体温が背中を通して分かる。熱い。明らかに熱い。
途中から、ミアが黙った。
問いかけても返事が遅くなった。
走った。
リオネッサの市街に入ったのは夜だった。
石畳の道、雑然と並ぶ建物、遠くで怒鳴り声がしている。昼間なら騒がしそうな場所が、夜中だから静かだった。
「治療院を探してる」と道端の男に聞いた。
「妹が動けない」
「ニールさんのとこに行け。あそこなら夜中でも診てくれる、真っ直ぐ行って右だ」
走った。
ミアが背中でぐったりしている。声をかけても返事が薄い。呼吸は聞こえる。でも薄い。
石畳を蹴って、角を曲がって、灯りの漏れている建物を見つけた。
「治療院」と板に書いてある。
戸を叩いた。
出てきたのは若い男だった。薬師の格好をしている。
あいつはあたし達を見ても驚きもしなかった。
意外だった。
息が荒かった。走ってきたからだ。目も血走っているだろう。服も汚れている。水も浴びれていない。
でもそんなことは関係なかった。
「妹を助けろ!」
あたしはその男に叫んでいた。
自分でも分からないうちに叫んでいた。
「金なら時間かかってでも払う!慰み者だっていい。なんだってする!だから診ろ!」
夜中のリオネッサに、あたしの声が響いた。
男は言う。
「降ろせ」
その言葉が神の言葉に聞こえた。
ひょっとしたら妹は助かるかもしれない。
生まれて初めてあたしは神に感謝した。
閑話ミア・ミラでした。次回以降、本編に戻ります




