20話 ゼニス歴1073年 香織(テオ)視点
深夜、図書塔にあるワタシの執務室。
私は、全領地に配布される「新・徴税および兵站管理運用マニュアル」の最終原稿に、最後の「仕掛け」を施していた。
(脱走したっていう『1名』……。あんたが誰なのか、男なのか女なのか、生きてるのか死んでるのかも知らないけれど)
ペンを握る指に力が入る。
もしその脱走者が、建築士や軍人、料理人といった、これまでに使い捨てられた人たちと同じ末路を辿っていないとしたら。今もどこかで、エルバート王国の目を盗んで生き延びているとしたら。
(もし私と同じ『現代人』なら、これを見れば、絶対に理解できるはずよ)
私はマニュアルの第8章「非常事態における報告手順」のページを開いた。 そこには、一見するとこの世界の宗教的な「祈りの言葉」や「聖句」が並んでいる。だが、その文字の配置には、意図的なバグを仕込んだ。
私は、現代社会で誰しもが一度は目にしたことがある、小さな、本当に小さな記号を描き加えた。
丸の中に、一本の縦線。 ――PC『電源ボタンのアイコン』だ。
「よし。これが『システムの起動』を意味するマークだってことは、理系文系問わず、現代人なら誰でも知ってる共通言語だわ」
さらに、私は「緊急時の連絡コード」として、意味不明な数字の羅列を書き込んでいく。 それは、私の前世の会社の電話番号でも、誕生日でもない。
『127.0.0.1』
ネットワークエンジニアやSEなら嫌でも知っている、「自分自身」を指すIPアドレス。
(あんたがPCオタクやエンジニアなら、これが『私はここにいる』というメッセージだって気づくはず。……でも、もしPCが苦手だったら?)
私は少し考え、別の「呪文」をマニュアルの隅、装飾模様のように描き込んだ。
『←←→→↑↓↑↓BA』
「……ふふ。もしあんたが日本人なら、これが『最強の裏技』だって気づいて笑ってくれるでしょ」
電源マーク、IPアドレス、そして裏技のコマンド。 中世の住人が見れば、ただの「奇妙な魔除けの紋章」にしか見えない。 王妃マルグリットが私の頭を覗いたとしても、これらは私の記憶の底にある「意味を持たない記号の断片」として処理されるはずだ。
(誰でもいい。……いえ、お願い、誰か気づいて。この国は、私たちを搾取して、飽きたらガベージコレクション(廃棄処分)するだけの地獄よ。……私と一緒に、このクソみたいなシステムを『強制終了』させましょう)
その時。 カツン、と廊下に靴音が響いた。
(――っ!?)
私は反射的に原稿を伏せ、白紙の紙を重ねる。 心臓の鼓動が跳ね上がる。10歳の子供の体は、恐怖で冷たくなる。
「テオ様、まだ起きておいでですか?」
扉が開いた。入ってきたのは、文官の長を名乗るセドリックだ。
この男が来る時は、いつも決まって深夜だ。
昼間は他の文官に混じって書類を処理し、 さりげなく、しかし確実にワタシの仕事ぶりを 観察している。
最初は単なる管理職だと思っていた。
だが違う。
この男の目は、書類ではなくワタシを見ている。
有能な部下を育てる目ではない。
品定めする目だ。
(……気をつけなければ)
彼は私の手元に視線を落とす。
「……あ、セドリック。ええ、明日の朝までにこの『集計ロジック』の検算を終わらせておこうと思って」
「感服いたします。ですが、あまり根を詰めませぬよう」
セドリックが歩み寄り、伏せられた原稿に手を伸ばそうとする。
(見られたら終わりだ。この羅列の異常性、鋭い奴なら気づくかもしれない……!)
「セドリック」
私は、努めて「無邪気な子供」の声を作り、彼を見上げた。
「これ、見て。新しい『おまじない』を考えたの。この記号を書類の隅に入れると、神様が計算ミスを防いでくれる……っていうおまじない」
私は、電源ボタンのアイコンを指差した。
「ほう、これはまた……奇妙な形ですが、どこか神聖さを感じますな」
「そうでしょう? だってこれ、全ての力を『ON』にする聖なる印なんだから」
セドリックは「ほほぅ」と満足げに頷き、下がっていった。
扉が閉まる音を聞いて、私は椅子に崩れ落ちた。
背中には冷や汗がびっしょりだ。
「……あぶな。心臓止まるかと思った……」
私は震える手で、再びペンを握る。
「……見つけなさいよ、脱走者さん。私はここにいるんだから」
私は最後の1文字を書き込み、全領地へ配布されるシステムを「コミット(確定)」した。




