19話 ゼニス歴1073年 香織(テオ)視点
それから2年が経ち、ワタシは10歳になった。
執務室を与えられた日のことを、今でもよく覚えている。
城の東棟、図書塔の三階。石造りの小部屋で、窓からは中庭が見える。机と椅子と、書類を積む棚がある。それだけの部屋だ。
文官のセドリックに案内されて中に入った時、ワタシは「ここがワタシの城だ」と思った。大げさかもしれないけど、本当にそう感じた。3歳で連れてこられて、7年かけてここまで来た。
「テオ様、ご不明な点があればなんなりと」
セドリックが下がっていく背中を見送って、ワタシはひとつ深呼吸をした。
よほどのヘマをしない限り、命の危機は去った——たぶん。
「たぶん」というのが気に入らないけど、この世界では確実なことなど何もない。それはもう慣れた。
でも、命の危機が去ったということは、次の段階に進めるということだ。
帰るための、次の段階に。
最近、妙な噂が流れている。
ワタシがどこかの貴族家に養子に入る、という話だ。それどころか、婚姻の話までチラホラ出てきているらしい。
「テオ様、お慶び申し上げます。ご縁談のお話が——」
廊下でそれを聞いた時、ワタシは三秒間だけ固まった。
まったく。
10歳の子供に何が結婚だ。この世界の貴族社会では普通のことらしいけど、帰ったら管理しなければならない男がいるワタシからすれば、冗談としか思えない。
興味はゼロだ。欠片もない。
婚姻話が出てきたということは「城から出す」流れを作ろうとしている可能性がある。処分ではなく、体裁のいい追い出し方。あの王様らしい、抜け目のないやり方だ。
ワタシはセドリックを呼んで、穏やかに——しかし明確に——伝えた。
「全領地へのマニュアル展開が完了するまで、私はここを離れられません。移動は完了後でお願いします」
セドリックは一瞬だけ眉を上げ、「……承知しました」と言った。
完成させない作戦は、今も有効だ。
この頃になってようやく、ワタシの仕事の範囲が城の外まで広がり始めた。
きっかけは暗算だ。
前世でワタシには「上州の即算姫」という、死ぬほど恥ずかしいあだ名があった。
群馬県出身で、暗算が異常に速いというだけの話なのに、なぜそんな大仰な名前がついたのか今でも謎だ。
この世界にも計算道具はある。大きなそろばんのようなものだ。ただし、扱いが難しく、使える人間が限られていた。
最初の日、山積みにされた書類を前にして、ワタシはざっと30分で全部の検算を終わらせた。
部屋が静まり返った。
「……本当に終わったのですか」とセドリックが聞いた。
「3か所、数字が違っています。2ページ目の右上、7ページ目の合計欄、あと14ページ目の税率の掛け算が間違っています」
そこから、ワタシの仕事の範囲は急速に広がった。
経理と総務の総責任者——ただし「完全な責任者」ではない。決定権は渡さない。あの王様の抜け目のないところがそこだ。
でも、おかげで裏の情報が入ってくるようになった。
地方の税収状況、各地の兵力配置、貴族同士の力関係——ワタシの運営マニュアルがエルバート王国全土に広がるにつれて、反対にエルバート王国全土の情報がワタシのもとに集まってくるようになった。
情報は、集まるところにさらに集まる。
ワタシはその集積点に、自分を据えた。
全部が、ワタシの手の中に入ってくる。
これが好きだ。
この感覚——全てが見渡せて、全てが把握できて、全てを動かせる感覚が。
刀祢を管理するのと、エルバート王国全土の情報を管理するのは——スケールが違うだけで、根っこは同じだ。
そして、転生者に関する決定的な情報を手に入れた。
ある日、地方から上がってきた古い台帳を整理していた時のことだ。
50年分以上にわたる財務記録の中に、奇妙な項目が繰り返し現れる。「異邦の知人への謝礼」という名目の支出が、約12年おきに計上されている。そして必ずその数年後に、城の何かが大きく変わっている。
建築の改修、軍の組織改編、食文化の変化——。
ワタシは台帳を全部引っ張り出して、並べた。
転生術の発動は、12年に一度。
これまでワタシを含めて、転生させられた人間は8名。
建築士がいた。軍事の専門家がいた。音楽家がいた。料理人がいた。
そして、ワタシ。管理のプロ。
全員、使い捨てられた。
その事実が、紙の上に並んだ数字を通して、静かにワタシの中に落ちてきた。
許せない、と思う。
この人たちの知識も、技術も、時間も——全部、エルバート王国という組織に吸い取られた。
管理される側として、消耗品として扱われた。
それは——ワタシが絶対に許せないことだ。
台帳の中に、もう一つ気になる記述があった。
ある時期の記録だけ、「謝礼」の支出が突然途切れている。
代わりに「捜索費用」という項目が増え、それが数年にわたって計上された後、ぷつりと消えている。
「……逃げた?」
ワタシは思わずつぶやいた。
さらに別の書類を探した。当時の内部報告書の断片が残っていた。「転生者1名、行方不明。捜索継続中」。
そしてその数年後、「転生者1名、死亡確認」。
2つの記録。行方不明と死亡——それは別々の人間のことだ。
つまり、1名は逃げた。そして今も行方がわからない。
もう1名は、逃げようとして、死んだ?
ワタシはしばらく、その2行を見つめた。
逃げた人間がいる。
エルバート王国の管理網から抜け出した転生者が、今もこの世界のどこかにいるかもしれない。
わからないことだらけだ。性別も、技術も、生死さえも。
でも——使えるかもしれない。
ワタシと同じ現代人なら、ワタシのシステムを読める。ワタシのメッセージを理解できる。
この人物をこちら側に引き込めれば、脱出の確率が上がる。
ただの「希望」ではない。これは——駒だ。
「……見つけなさいよ、脱走者さん」
誰もいない執務室で、ワタシはひとりごとを言った。
「あなたが誰なのか知らない。でも、もしまだ生きていて、現代人なら——必ず気づくメッセージを送ります。見つけて、ワタシのところに来なさい」
そのためにこの7年間があった。
城のシステムを作ったのも、マニュアルを全土に広げたのも——全部、この瞬間のためだ。
エルバート王国中に配布される文書の中に、現代人にしか読めない暗号を仕込む。どこに出すかも、いつ出すかも、ワタシが決められる。
すでにその権限は、手の中にある。
机の引き出しから、まだ白紙のマニュアルの草稿を取り出す。
ペンを握る。
脱走者さん——あなたも、ワタシに管理される側になりなさい。
それが、あなたにとっても一番いい選択のはずだから。
始めよう。
しがないSEによる——国家転覆を。




