17話 ゼニス歴1066年 香織(テオ)視点
あれから3か月近くが経った。
ワタシ——テオこと、稲見香織は、だいぶ状況がつかめてきている。
まず、ここがどこなのか。
王様がいて、玉座があって、貴族がいて、騎士がいる。言葉は違うが、構造はわかりやすい。典型的な中世ヨーロッパ風のファンタジーエルバート王国だ。
転生モノの小説を読み漁っていたことが、まさかこんな形で役に立つとは思わなかった。
ありがとう、なろう。
本当にありがとう。
とはいえ、現実はラノベより過酷だ。
主人公補正もなければ、チート能力の覚醒もない。あるのは三歳児の体と、前世の記憶と、SEとして10年以上叩き込まれた「問題を整理する癖」だけだ。
まずは現状を把握するところから始めよう。それがワタシの流儀だ。
この城に連れてこられてから最初の一週間は、正直なところ、何も考えられなかった。
泣いた。声を上げて泣いた。
三歳児の体は感情の制御が利かない。悲しくもないのに涙が出るし、怖いと思った瞬間には体が勝手に震えている。ホルモンバランスなのか、脳の発達段階の問題なのか——とにかく、この体は正直すぎて困る。
刀祢のことを考えると、特にダメだった。
刀祢というのは、ワタシが前世で付き合っていた男だ。
売れないホスト。毎月の売上は底辺で、ワタシの部屋に転がり込んでからはワタシの給料で飯を食い、酒を飲み、ゲームをして過ごしていた。
友人には呆れられた。「香織、いい加減目を覚ましなよ」と何度言われたかわからない。
でも——友人たちにはわかっていないのだ。
刀祢はああ見えて、放っておけない男なのだ。
幼い頃に親に捨てられて、施設を転々として、「誰かのそばにいたい」という気持ちだけで生きてきた。ホストという仕事を選んだのも、誰かに必要とされたかったからだと、酔った夜に一度だけ話してくれた。
売れないのは、本気で人と向き合えないからだ。傷つくのが怖いから、ホストなのに距離を作る。そのくせ誰かに傍にいてほしくて、結局ワタシの部屋に居着いた。
まったく、手のかかる男だ。
でも、だからこそワタシには刀祢の扱い方がわかる。
どんな言葉をかければ機嫌が直るか。何を褒めれば素直になるか。どのタイミングで距離を置けば追いかけてくるか。長く付き合えば、人間はシステムと同じだ。入力と出力のパターンさえ把握すれば、動かし方が見えてくる。
ある夜、些細なことで口論になって、刀祢に殴られた。
唇が切れた。壁に叩きつけられた。次の日、顔に青痣ができた。
会社には「転んだ」と言った。
翌朝、刀祢は「ごめん」と言った。
子供みたいな顔で、ワタシの顔の痣を見て、本当に申し訳なさそうに目を伏せた。
ワタシはその顔を見て——ああ、またか、と思った。
怒りはない。驚きもない。ただ「やっぱりこの男はこういう男だ」という、静かな確認だ。
「大丈夫だよ」とワタシは言った。
この男の扱い方は、ワタシが一番よくわかっている。
ここで怒ったら面倒なことになる。
謝らせて、少し甘やかして、機嫌を直させる。
それがワタシのやり方だ。
友人たちは「なんで離れないの」と言う。
答えは簡単だ。
刀祢はワタシなしでは生きていけない。
それはこの関係における、動かしようのない事実だ。
その夜、頭を冷やそうと外に出て、谷を歩いていて、足を滑らせて——気づいたら、別の世界にいた。
刀祢は今頃どうしているだろう。
ワタシがいなくなって、一人でちゃんとやっていけているだろうか。あの男のことだ、きっとすぐに誰かに騙されているか、また余計なトラブルを起こしているか——どちらかだ。
管理する人間がいなければ、あの男は本当にどうしようもない。
早く帰らなければならない。
それだけは、何があっても、譲れない。
二週間目に、ワタシはひとつ決めた。
泣くのは一日一回、夜、寝る前だけにする。それ以外の時間は、考える。動く。管理する。
帰るために。刀祢をちゃんと管理できる場所に戻るために。
SEというのは、感情でシステムを動かすことはできない。動くのはロジックだけだ。
だから、ワタシも——ロジックで動く。
言語の習得は、思ったより早かった。
子供の脳というのは恐ろしい。前世では英語のヒアリングひとつに何年もかかったのに、この体は三か月で日常会話レベルまで吸収してしまった。
神経の可塑性というやつか。ハードウェアが古くなった大人の脳では出せないスペックだ。
唯一この体に感謝できる点がそこだった。
とはいえ、リーディングとライティングは全然だめだ。
もともとこの世界の識字率は高くないらしく、字が読めなくても生きていけるらしい。
ふーん。小説読めないじゃん。
……と、どこまでも現代人なワタシ。
ヒアリングが実用レベルに達した頃、王様の側近らしい文官が毎月やってきて、ワタシに質問を投げかけるようになった。
「前の世界で何をしていたか」「どんな知識があるか」「何が作れるか」——つまるところ、品定めだ。
ワタシは機転を利かせた。
「神官であり、教会の管理運営に関する設計者」——そう答えた。
SEの概念は、PCのないこの世界では到底理解できない。パソコンを知らない人間に「クラウドサーバーの設計をしていました」と言っても、雲の上に家を建てる変な人にしか見えない。だからこそ、この曖昧な肩書きが有効だった。「神官」は宗教的な権威を連想させ、「設計者」は実務的な有能さを匂わせる。どちらの意味でも好意的に解釈できる言葉だ。
それが幸いして、言語習熟にじっくり時間をかけることができた。
訊かれるより先に「まだ言葉が不自由で」と言い訳できる間は、こちらの手の内を明かさなくていい。情報の非対称性を最大限に活かす——これはシステム開発でも人間関係でも、基本中の基本だ。
さて。
言葉が通じるようになってきたということは、いよいよ本格的に考えなければならない段階に入ってきたということでもある。
ワタシは城の中の小部屋——子供部屋と呼ぶには殺風景すぎる石造りの部屋——で、壁に背をつけて膝を抱えた。
帰るための、現状整理だ。
ハードウェアは三歳児。脆弱にもほどがある。走れない、戦えない、高いところに届かない。物理的な選択肢がほぼゼロだ。
言語と文化のインストールは途中。日常会話はできる。でも書類は読めないし、貴族社会の暗黙のルールも、この国の地理も、まだ断片的にしかわかっていない。
頼れる協力者はゼロ。同じ境遇のはずの転生者仲間がいるとは聞いたが、顔も知らない。そもそも生きているかどうかも怪しい。
うん。詰んでる。
——と、ここで思考停止するのは、SEとして失格だ。
詰んでいるのは「今の状態」であって、「永遠に詰んでいる」わけではない。制約条件を並べた後にやるべきことは、突破口を探すことだ。
ワタシはもう一度、状況を眺め直した。
王様も王妃様も、ワタシの頭の中身が欲しくてたまらない。それは明らかだ。品定めのヒアリングが、何よりの証拠だ。
しかし、彼らはワタシの知識を「読めない」。
王妃のスキルで頭の中を覗かれた時のことを思い出す。あの人は「黒いものを見ながら指を打ち付けている」とワタシの前世の記憶を評した。PCの画面でコードを書いている光景が、彼女の目にはそう映ったのだろう。楽器を弾いているとか、ヴォイドと交信しているとか、まったく的外れな解釈で大騒ぎしていた。そもそも『ヴォイド』ってなんなんだろ?
つまり——PCのないこの世界において、SEの知識は「解読不能な暗号」だ。
それはワタシにとって、唯一にして最強のセキュリティになる。
だとしたら、答えは一つしかない。
逃げるには体が小さすぎる。言葉もまだ怪しい。協力者もいない。今すぐ動くのは自殺行為だ。
——成長するまで、潜伏する。
彼らが聞き出したい情報を多方面に散らしてかく乱しながら、「有能だが難解」という立ち位置を維持して、処分を先送りにし続ける。10年、いやせめて5年。その間に体を育て、言語を完全に習得し、城の構造を把握して、脱出ルートを見つける。
5年。
刀祢を、5年間放置することになる。
ワタシの管理が届かない場所で、5年間。
胸の奥がざわりとした。あの男は本当に、ワタシがいなければどうしようもない。誰かに騙されるか、トラブルに巻き込まれるか、最悪の場合は——。
いや、考えても仕方ない。今のワタシには、どうすることもできない。
ただし、リスクはある。
ワタシのROI——投資対効果——が低いと判断された瞬間、ガベージコレクションされる。つまり、処分だ。
その証拠に、一緒に確保されたはずの転生者が2名いたと聞いたのに、もう情報がまったく聞こえてこない。
聞いてみたこともある。「元気ですよ、町で幸せに暮らしています」と文官は言った。
笑顔で。淀みなく。まるで用意していた答えのように。
——殺されたんだろうね。テンプレだわ。
だから、ワタシは「価値があり続ける」存在でいなければならない。飽きられても、見捨てられても、処分が惜しいと思わせるだけの何かを、常に手元に持っておく。
それが今のワタシの、唯一の生存戦略だ。
なんとしても生き延びてやる。
こんなとこで死んでたまるか!!
帰るんだ。絶対に帰るんだ。
放っておけないから。あの手のかかる男を、ちゃんと管理できる場所に戻らなければならないから。
ふう、と一つ息を吐いて、ワタシは立ち上がる。
三歳の脚でよたよたと窓まで歩き、城の中庭を見下ろす。騎士が訓練をしている。文官が書類を抱えて歩いている。誰もワタシを見ていない。
——今は「無害で無知な子供」を演じながら、この城のデータベースから情報をかき集めてやる。
使えるものは全部使う。弱さも、幼さも、「かわいそうな転生者の子供」という立場も、全部ワタシのツールだ。
人間も、組織も、システムも——使いこなしてこそ価値がある。
ふふ。ワタシ、今ちょっとやり手のSEっぽい。
刀祢、ちゃんとしてなさいよ。
ワタシが帰るまで——ちゃんと、そこにいなさい。




