第六十六章『銀猫、家にて日常を噛みしめる』※挿絵有り
カリカリカリカリ──バリバリバリ。
「ちょ、ちょっとファニャンっ!? やめ、やめてっ、そこ柱だよぉ……!」
翌朝。
新しい日常は、たいへん分かりやすい音で始まった。
玄関脇の柱には、昨日よりも明らかに深い爪痕。
その前で、ファニャンはご満悦そうに喉を鳴らしている。
ファナは小走りに駆け寄ると、慌てて猫を抱き上げる。
だが、抱き上げられたファニャンはといえば、されるがままに“ふにゃぁ”と伸びて、しっぽを揺らすだけ。
「もう……この家、借り物なんだから。傷つけたら、退去させられちゃうかもしれないんだよ……?」
眉をひそめて言うが、ファニャンはおかまいなしに腕の中でくるんと丸くなる。
そして、ふと横からのんびりとした声が投げられた。
「もはやあれは──神の聖爪の儀式跡では?」
「そんなわけあるかーっ!」
メルの芝居がかった呟きに、即座にツッコミが飛ぶ。
そのやりとりに、ファニャンは“にゃっ”と短く鳴いた。
──どうやら、自覚はないらしい。
***
「え……な、にこれ?」
午前の光が差し込む玄関口。外に出ようと扉を開けたファナが思わず立ち止まる。
門柱のそばに設けられていたのは、簡素な木箱。
そしてその上には──干し魚が三匹、牛乳入りの小皿、そして……花まで添えられていた。
「お供え……だよね、これ……?」
「どうやら、銀猫様信仰の者たちが“奉納”に来ているようだな。……悪意は、ない」
メルが指先で干し魚を少し持ち上げて確認し、すぐにそっと戻した。
やわらかく風に揺れる花は、夜明けに摘まれたばかりなのだろう。水滴が瑞々しく光っていた。
「悪意がないのはわかるけど……うちの前にこんなことされちゃったら、困るよぉ……!」
ファナは両手で顔を覆って、うずくまるように項垂れた。
──銀猫様と、その御使いへの供物。
そう書かれた札が、木箱にひっそりと添えられていた。
***
「いやあ、これは見事な爪痕でございますなあ!」
昼過ぎ。管理人でもある大家のおじいさんがやってきて、柱の傷を見て感嘆の声を上げた。
「見たまえ、この鋭くして規則的な弧を描く痕跡。まさに神のご威光……!」
「あ、あの、それは……うちの猫がちょっと爪とぎを……」
「神の猫、じゃな!」
「ちが……じゃなくて、えっと……っ」
うろたえるファナを背に、メルが腕を組み、「ふむ」と頷く。
「つまりこれは、神聖なる爪の加護……」
「そう! 加護でございますな!」
「うむ、それでは──この柱は記念として残すということで!」
「だめぇぇぇぇぇぇえええっ!!」
ファナが頭を抱えて叫んだ。
おじいさんは「遠慮は無用じゃ」とにこやかに言ったが、ファナは正座してぴしっと抗議を始める。
「ダメですっ! 修繕費はちゃんと払います! これはただの……その……迷惑行為……」
「おやおや、聖なる迷惑とは風流な──」
「そもそも神じゃないです!!」
そう言い切った瞬間。
間に入っていたファニャンが、“にゃっ”と一声発した。
不思議と、場の空気がすっと静まる。
「……む、これはもしや──黙して語る“神託”……」
「ただの猫の鳴き声だからぁぁあ!」
***
夕刻。扉が開く音。
「ふにゃ〜」
と、柔らかな声をあげて戻ってきたファニャンの口には、なにやら……ぶら下がっていた。
「ね、ネズミィィィィィィィィィ!?!? お、おっきいぃぃぃっ!」
ファナの絶叫が家中に響き渡る。
ずるっ、と落とされた大きめのネズミ(明らかに野生育ち)は、ファナの目の前でピクリとも動かず。
「はわ……だ、誰か……メルぅぅ……」
床にへたり込むファナを横目に、ファニャンは当然のようにその横を通過して、玄関前の“供物台”へとぽとりとネズミを捧げ、悠然と干し魚を食べ始める。
「……食物連鎖的には、正しいな」
メルがぽつりと呟いた。
「でもやっぱり、わたしには刺激が強いよぉ……!」
「これが、日常というものだな。……意外と、案外こんなものかもしれない」
苦笑するメルに、ファナは涙目でふるふると首を振った。
***
夜。
ベッドの上で、ファナはぼんやり天井を見つめていた。隣には丸くなったファニャンが、規則正しく喉を鳴らしている。
「ねえ、ファニャン……」
小さく呟くと、猫のしっぽがふいにファナの鼻先に触れた。
「わたしより人気出ちゃってるじゃん……なんか悔しい……。でも……」
そっと、毛並みに手を添える。
あたたかい。生きている。
「ありがとう、来てくれて」
──ファニャンが、ふにゃあと短く鳴いて、ファナの指先に顔を押しつけた。
小さな命の重さが、ふと心を和らげる。
静かな夜だった。波の音も、祈りの声も、届かない。
ただ、眠りと、日常と、あたたかな鼓動。
***
──日常は、確かにここにある。
そして、明日もまた来る。
ファニャンと、メルと、そして──ファナ自身と共に。
神の爪は戸を護り、神の牙は悪しき鼠を退ける。
だが銀の巫はただ微笑み、掌を差し伸べる。
信仰は彼女に宿らず──猫の足音に滲む。
──記録『雷来々抄・外典』より




