第六十四章『銀猫、森にて出会う』※挿絵有り
木々が風に揺れ、葉擦れの音が優しく耳を撫でる午後。
ファナとメルは、山道へ続く緩やかな坂を登っていた。
海辺の街で巻き起こった、あまりにも恥ずかしく、あまりにも騒々しい神格化の騒動から逃れるよう。
ファナは、海から遠ざかる道を選んだ。
海辺の街を出る時、ファナは露店で買ったつば広の帽子を深くかぶっていた。
銀髪も猫耳も、できるだけ隠すためだった。
昨日の今日で、また誰かに「銀猫様」と呼ばれたら、今度こそ心が折れる気がしたからだ。
山道なら、もう誰も“銀猫様”などと叫ばない。
そう信じて。
「ふう……」
小さなため息がこぼれる。
ファナは帽子のつばをぎゅっと押さえ、辺りの景色に目を向けた。
山裾には深い森が広がっている。
木漏れ日が柔らかな光の筋を落とし、風に揺れた葉が、きらきらと小さな光を散らしていた。
「ねえ、メル。ちょっと……寄り道してもいいかな」
ファナが遠慮がちに尋ねると、メルはすぐに頷いた。
「構わない。山道を急ぐ理由もないしな」
「ほんと?」
「ああ。神様扱いから逃げるには、森の方が向いているかもしれない」
「……その言い方やめてよぅ……」
帽子の下で、ファナはむくれた顔をした。
けれど、その頬は少しだけ緩んでいる。
潮の匂いはもう遠い。
代わりに、土と草と木の匂いがした。
懐かしい匂いだった。
語り部として森を歩いていた頃。
誰かを探して、誰かを慰めて、誰かの帰り道を願っていた頃。
ファナは胸の奥に残っていた騒がしさが、少しずつ静まっていくのを感じた。
森の奥へ入ると、小さな小川のせせらぎが聞こえてきた。
水は澄んでいて、浅い流れの底には丸い石が並んでいる。
風に揺れた枝葉が水面に影を落とし、光と影がゆっくりと揺れていた。
その時だった。
「……あれ?」
ファナの目に、ちらりと動く影が映った。
茂みの下。
倒木の影に、黒い何かがうずくまっている。
ファナは足を止めた。
近づいてみると、それは小さな猫だった。
黒い毛並みは泥と落ち葉で汚れている。
体は痩せていて、片目は閉じられたまま。
息は浅く、今にも消えてしまいそうなほど弱々しかった。
「……猫ちゃん……?」
ファナはそっとしゃがみ込んだ。
いきなり触れようとはしない。
怖がらせないように、できるだけゆっくりと手を差し出す。
「大丈夫。怖くないよ……ね?」
黒猫は一瞬、警戒するように身を引いた。
けれど、ファナの声に。
その気配に。
何かを感じ取ったように、閉じた片目をわずかに震わせた。
ふらり、と前足が動く。
一歩。
二歩。
そして黒猫は、力尽きるようにファナの膝へ身を預けた。
「……っ、よかった……」
ファナの瞳が揺れる。
そっと、壊れものに触れるように黒猫を抱き上げた。
軽い。
あまりにも軽かった。
「大丈夫。もう大丈夫だよ」
ファナは小川のそばへ移動し、布を濡らして黒猫の体を拭き始めた。
冷たくなりすぎないように。
痛がらせないように。
泥と落ち葉を少しずつ落とし、絡まった毛を指先で丁寧にほぐしていく。
「いっぱい泥がついてるね……どこから来たの?」
黒猫は小さく喉を鳴らした。
答えではない。
けれど、ファナにはそれだけで十分だった。
メルはその様子をそばで見守っていたが、やがてわずかに目を細めた。
「……この猫、ただの野良ではないな」
「え?」
「魔力の層が妙に複雑だ。薄いが、古い。まるで何かをずっと抱えたまま歩いてきたような気配がある」
ファナは腕の中の黒猫を見下ろした。
「この子、片目が開かないの……。治してあげられるかな?」
「見せてみろ」
メルは黒猫の前に膝をつき、閉じられた片目の上にそっと手をかざした。
金色の魔力が柔らかく灯る。
攻撃の雷ではない。
傷を焼くものでも、力でこじ開けるものでもない。
ただ、細く、優しく。
絡まった糸をほどくように、魔力が黒猫の体へ流れ込んだ。
その瞬間だった。
黒猫の毛並みが、ほんの一瞬だけ銀色に輝いた。
「えっ……?」
ファナが息を呑む。
黒かった毛が、月光を浴びたように淡く銀へ変わり、すぐにまた元の黒へ戻る。
メルは静かに呟いた。
「……やはりな。君、不思議な子だ」
黒猫は小さく瞬きをした。
閉じられていた片目が、ゆっくりと開く。
その瞳は、深い夜の底に小さな星を沈めたような色をしていた。
黒猫は、まるで長い眠りから覚めたようにファナを見上げる。
「よかった……見える?」
「にゃ」
小さな声が返ってくる。
ファナはほっとして笑った。
「ねえ、メル。この子……名前、あるのかな」
「少なくとも、首輪はないな」
「そっか……」
ファナは黒猫を胸に抱いたまま、少し考える。
「ねえ、どんな名前がいい?」
問いかけられた黒猫は、少しだけあくびをした。
それから、喉を鳴らすように鳴く。
「ふぁ……にゃん」
人の言葉ではない。
けれど、ファナにはそう聞こえた。
思わず、笑みがこぼれる。
「……ふふっ。じゃあ、ファニャンね」
「にゃぁ」
黒猫は小さく鳴いた。
まるで、それこそが最初から自分の名前だったかのように。
ファナはファニャンを抱きしめた。
「よろしくね、ファニャン」
黒猫は、彼女の腕の中で目を細めた。
その姿を見て、メルが小さく笑う。
「拾われた、というよりは」
「うん?」
「ようやく見つけた、という顔だな」
ファナは不思議そうにファニャンを見る。
黒猫は何も答えない。
ただ、喉を鳴らしながら、ファナの胸元へ頬を寄せていた。
***
日が傾き始めた頃、二人と一匹は山の街へ辿り着いた。
石造りの小さな家々が斜面に寄り添うように並び、煙突からは細い煙が上がっている。
港町のような賑やかさはない。
けれど、街全体に古い木と石の匂いが染み込んでいて、落ち着いた温かさがあった。
「ここなら、静かに休めそうだね」
ファナは少し安心したように言った。
その腕の中では、ファニャンが丸くなっている。
だが、街の入口近くに差しかかった時、ファニャンの耳がぴくりと動いた。
「にゃ」
「どうしたの?」
ファニャンはファナの腕からするりと降りると、迷いのない足取りで歩き出した。
「ファニャン? 待って」
ファナとメルは、その後を追った。
ファニャンが向かった先には、古びた小さな供物台があった。
石で作られた台。
風雨に晒され、角は丸くなっている。
けれど丁寧に掃除されているらしく、苔の間には小さな花が供えられていた。
その上には、干し魚や木の実が並べられている。
「これ……なに?」
ファナが首を傾げた、その時だった。
「猫だ……」
「黒い猫か?」
「供物台に……」
「にゃ」
ファニャンは当然のように供物台の前へ進み、干し魚を一つくわえた。
そして、その場でもぐもぐと食べ始める。
「ファニャン!? それ、食べていいものなの!?」
慌てるファナの声に、近くを歩いていた老人が振り向いた。
老人は最初、供物台の前の黒猫を見た。
次に、銀髪の猫耳を持つファナを見た。
そして、目を大きく見開いた。
「……供物を、受け取った」
「え?」
老人の声に、周囲の空気が変わった。
「どうしたんだ?」
「供物台に猫が……」
「猫?」
「黒い猫か?」
「いや、あの子……」
その視線が、ファニャンを追ってきたファナへ移る。
ファニャンを追って慌てたせいで、深くかぶっていた帽子が少し後ろへずれていた。
銀髪の間から、隠していた猫耳がはっきりとのぞいている。
「銀の髪……」
「猫の耳……」
「まさか」
老人が息を呑む。
ファナは嫌な予感に耳を伏せた。
「……あの、もしかして」
その場にいた者たちがざわめいた。
「まさか、あの言い伝えの……」
「銀の猫……?」
「でも猫は黒いぞ」
「いや、あの方の髪が銀だ」
「猫耳もある……」
「供物を受け取った猫に導かれて来たようにも見えるぞ」
ファナは慌てて両手を振った。
「ち、違います! 私はそういうのじゃなくて……! えっと、もしかして、港町の噂がもうここまで来ちゃったんですか……?」
ファナの声は、半分泣きそうだった。
昨日の今日だ。
海辺の街で起きた騒動が、もう山の街まで届いたのだとしたら、あまりにも早すぎる。
しかし、老人はゆっくりと首を横に振った。
「港の噂のことは知らぬ。だが、この山には昔から伝わる言い伝えがある」
「別なの!? 別の神様扱いなの!?」
ファナの声が裏返った。
メルが横で小さく呟く。
「逃げた先で、別系統の伝承に当たるとはな」
「言わないでぇ……!」
老人は厳かな声で続けた。
「“銀の猫に導かれし光の者、街に福音をもたらさん”
――この山に古くから残る言葉じゃ。供物台も、その言い伝えに従って代々守ってきたもの」
「こ、これはたまたまで……!」
「黒き猫は、供物を受け取った。そして、その猫に導かれるように現れたのは、銀の髪と猫の耳を持つ娘。古き言い伝えと、重なりすぎておる」
「重ならないでほしかったです……!」
ファナは頭を抱えた。
その間にも、ファニャンは二つ目の干し魚をもぐもぐ食べている。
「ファニャン、食べすぎだよぉ……!」
「にゃ」
ファニャンは悪びれもなく鳴いた。
街の人々は、その様子をなぜか感動したように見守っていた。
「供物を喜んでおられる……」
「よかった。今年の干し魚は出来がいいからな」
「猫様のお口に合ったようだ」
「猫様って言わないでぇ……!」
港町では、噂が商品になった。
山の街では、古い言い伝えがファナたちを迎え撃った。
どちらも、ファナには逃げ場がない。
メルは少しだけ肩をすくめる。
「まあ、港の騒ぎよりは静かだな」
「そういう問題じゃないよぉ……!」
「少なくとも、ぬいぐるみは売っていない」
「それはちょっと安心したけど!」
その時、誰かがぽつりと言った。
「作るか……銀猫様と黒猫様の木彫りを」
「作らないでぇ!」
ファナの悲鳴が、山の街に響いた。
***
その日の夜。
小さな宿の一室で、ファナは布団に顔を埋めていた。
「……私、神様なんかじゃないのに」
声は小さい。
けれど、少しだけ震えていた。
港町では、海を渡った銀猫様。
山の街では、古い伝承の光の者。
逃げた先でまで、別の形の“意味”が追いかけてくる。
ただ助けられただけなのに。
ただ、黒猫を拾っただけなのに。
ファナは、自分が知らないところで、自分ではない何かに変わっていくような心細さを覚えていた。
メルは窓辺に立ち、静かに外を見ていた。
街の供物台には、まだ小さな灯りがともっている。
「お前が神ではないことは、俺が知っている」
メルは振り返らずに言った。
「……うん」
「それで足りないなら、何度でも言う。お前は神ではない。俺の妻で、ファナだ」
布団の中で、ファナの耳が少しだけ動く。
「……うん」
その時、布団の端がもぞもぞと動いた。
「にゃ」
音もなくファニャンが潜り込んでくる。
「あ……ファニャン」
ファニャンはファナの懐に入り込み、そっと顔をうずめた。
小さな体は温かかった。
ファナは目を細め、黒猫を抱きしめる。
「……あったかいね」
「にゃ」
ファニャンは喉を鳴らした。
その音は小さい。
けれど、不思議と胸の奥まで響いてくる。
あたたかい。
そう感じたのは、ファナ自身だったのか。
それとも、腕の中の小さな黒猫だったのか。
分からない。
ただ、ファニャンは喉を鳴らしながら、まるでずっと昔からそこにいたかのように、ファナの胸元へ丸くなった。
ファナはそっと目を閉じる。
遠くで、山の風が鳴っていた。
海辺の噂も、山の伝承も、今だけは少し遠い。
腕の中にある小さな温もりだけが、確かだった。
──そうして、黒き猫は再び、光のそばに寄り添った。
それが、幾度目の出会いであっても。
──記録『雷来々抄』断章より
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これからもファナたちを見守っていただけたら嬉しいです。




