第六十三章『銀猫、神となる(不本意)』※挿絵有り
封印島から脱出して、翌日。
海を裂いた金雷も、霧の向こうに消えた島も、ファナにとってはまだ遠い夢のようだった。
けれど港町の人々は、その夢を、すでに別の形で語り始めていた。
海辺の市場には焼き貝、魚串、貝殻細工、甘い菓子などが並び、先日見た砂浜とはまた違う、港町らしい明るさがあった。
ファナは露店を楽しそうに覗いていた。
「メル、これ見て。貝の形のクッキーだって」
メルは少し笑いながら、それに付き合っていた。
「味覚の冒険か。……まあ、お前が食べるなら俺も付き合う」
ファナは封印島の緊張から少し解放され、久しぶりに穏やかな顔をしていた。
その時、近くの漁師や旅人たちの会話が耳に入る。
「聞いたか? 海の上を雷が走ったって話」
「金色の雷だったらしいぞ。波の上を裂くみたいに走ったんだと」
「しかも、その雷に抱かれていたのが、銀髪の猫耳の女神様だったってよ」
「白い羽衣をまとって、霧の中から現れたんだとさ」
「銀猫様って呼ばれ始めてるらしいぞ」
「じゃあ、あの雷は銀猫様の守り手か?」
「金色の雷……金雷様、ってやつか?」
ファナの耳がぴんと立つ。
尻尾がびくりと揺れる。
ファナは固まり、メルを見る。
メルは少しだけ視線を逸らす。
「……心当たりはあるな」
「あるの!? いや、あるけど! あるけど違うよね!?」
メルは小さく息を吐く。
「魔導院の記録名と同じ呼び方が、港町の噂から出てくるとはな」
「え、なに? メルまで変な呼ばれ方になってるの?」
「どうやら、銀猫様の守り手らしい」
「守り手は合ってるけど、銀猫様じゃないのぉ……!」
「羽衣をまとった銀猫様が……」
ファナは反射的に叫んでしまう。
「羽衣じゃないもん! あれは上着だったもん!」
その一言で、周囲の人々が一斉に振り向く。
銀髪。
猫耳。
黒い尻尾。
隣には、金髪で赤いマントの魔術師。
人々の目が徐々に見開かれていく。
「……銀髪」
「猫耳」
「黒い尻尾」
「隣に金色の髪の魔術師」
「赤いマント……」
「まさか……」
誰かが震える声で呟く。
「銀猫様……?」
さらに別の誰かがメルを見て言う。
「じゃあ、あの方が……金雷様……?」
ファナは慌てて両手を振る。
「違うの! 違わないけど違うの!」
この曖昧な否定が、さらに誤解を深める。
港町の人々が少しずつ集まり始める。
「本物だ……!」
「海を渡った銀猫様だ!」
「白い羽衣の女神様!」
「ご加護を!」
「握手だけでも!」
「うちの子に一言だけ祝福を!」
「金雷様もいらっしゃるぞ!」
「銀猫様の守り手だ!」
ファナは完全に混乱した。
「しゅ、祝福ってなに!? 私、祝福とかできないよ!?」
メルは最初、少し面白そうに見ていた。
「なかなか壮大な誤解だな」
「感心してないで助けて、メル!」
メルは小さく笑った。
だが、ファナが本気で困っているのを見ると、すぐに半歩、彼女の前へ出られる位置に移った。
逃げようとした先の露店で、ファナは見てしまう。
白い布をまとった銀色の猫のぬいぐるみ。
背中には金色の稲妻模様。
黒い尻尾はやたらふわふわ。
目は妙に神々しく、額にはなぜか小さな星の刺繍まである。
露店商が声を張り上げる。
「銀猫様ぬいぐるみ、入荷しましたー! 白い羽衣つき、金雷模様入りだよー!」
ファナが完全に停止した。
「…………」
ゆっくりとぬいぐるみを見て、ゆっくりとメルを見る。
「……なんで」
一拍。
「なんで……もう、ぬいぐるみ……!?」
メルはぬいぐるみを見て、少しだけ感心する。
「商魂が早いな」
「感心するところじゃないよぉ!」
露店商は悪気なく言う。
「既製の猫ぬいぐるみに、白い布と金糸を足しただけだからね。今朝からよく売れてるよ」
ファナは頭を抱える。
「もう売れてるの!?」
メルは金雷模様を見て、少しだけ眉を上げる。
「……金雷模様まで入っているのか」
「メルもそこ気にするの!?」
「いや、意匠としては悪くない」
「褒めないでぇ!」
ファナは人混みから逃げようとする。
猫耳がぴこぴこ動き、尻尾が泣きそうに震える。
だが、どこへ行っても銀猫様と金雷の噂が聞こえる。
「あっちに銀猫様が!」
「お姿を一目だけでも!」
「握手を!」
「羽衣、本当に白い!」
「金雷様も一緒だ!」
「やっぱり銀猫様の守護者なんだ!」
ファナは涙目になる。
「羽衣じゃなくて上着なのぉ……!」
メルは少しだけ肩をすくめる。
「俺は守護者らしいぞ」
「そこ受け入れないで!」
最終的に、メルが人々を落ち着かせるために提案する。
「一人ずつだ。押すな。騒ぐな。握手だけだ。それ以上は許さん」
ファナがぎょっとする。
「メル!? なんで列を作ってるの!?」
「このまま囲まれるよりは安全だ」
「正論だけど納得したくない!」
結果、ファナは不本意ながら短い握手対応をすることになる。
町の人々が順番に手を差し出す。
「銀猫様、ご加護を」
「ち、違うけど……えっと、元気でいてね……?」
「ありがたや……!」
「今、元気でいてねとおっしゃったぞ!」
「銀猫様の祝福だ!」
ファナは涙目で否定する。
「普通に言っただけなのぉ!」
隣でメルにも声がかかる。
「金雷様、銀猫様を守ってくださってありがとうございます!」
メルは一瞬だけ黙り、それから穏やかに返す。
「それは、礼を言われるまでもない」
周囲がどよめく。
「金雷様……!」
「やはり守護者だ……!」
ファナは耳まで赤くなる。
「メルまでかっこよく返さないでぇ……!」
小さな子どもがぬいぐるみを抱えてやってくる。
「銀猫様、これ、本物に似てる?」
ファナはぬいぐるみを見る。
銀色の猫。白い羽衣。金の稲妻。妙に神々しい顔。
「……似てない、と思いたい……」
子どもは無邪気に笑う。
「でも、かわいいよ?」
ファナは少しだけ言葉に詰まる。
「……それは、ありがとう……」
子どもの無邪気な笑顔に、ファナの肩から少しだけ力が抜けた。
騒動の中心にいるはずなのに、その瞬間だけは、ただ小さな子にぬいぐるみを見せられているだけのような気がした。
握手列が増え始め、収拾がつかなくなりそうになる。
「次はうちの商会の看板に一筆を!」
「銀猫様の足跡を商品札に!」
「金雷様の稲妻印もぜひ!」
「ぬいぐるみに名前を!」
ファナは限界になる。
「もう無理ぃ……!」
メルがファナの手を取る。
「そこまでだ。銀猫様ではない。俺の妻だ」
周囲がどよめく。
「金雷が銀猫様を連れていくぞ!」
「やはり金雷は銀猫様の守護者……!」
「妻……?」
「尊い……!」
ファナは顔を真っ赤にする。
「メルぅ! 助けてくれてるのに、なんか悪化してる!」
「事実を言っただけだ」
「事実だけど言い方ぁ!」
メルはファナを連れて、人混みから離脱する。
町外れまで逃げたファナは、息を切らして石壁にもたれた。
「……私、神様じゃないのに……」
メルは少し笑い、けれど優しく言う。
「そうだな。お前は神ではない」
ファナがほっとする。
「うん……」
メルは続ける。
「ただ、誰かにとっては、海の上を渡る奇跡に見えたんだろう」
ファナは困ったように耳を伏せる。
「……奇跡じゃなくて、メルが助けてくれただけなのに」
「それでも、見た者は語る。語られたものは、少しずつ形を変える」
ファナは遠くの市場を見る。
そこではまだ、銀猫様ぬいぐるみが売れている。
白い羽衣と金雷模様が、風に揺れていた。
「……形、変わりすぎじゃない?」
メルは肩をすくめる。
「それは否定しない」
ファナは小さく呻く。
「なんで……もう、ぬいぐるみ……」
メルは遠くの露店を見て、少しだけ呟く。
「金雷まで付属扱いとはな」
「そこ気にしてたの!?」
銀猫、逃げる。
その理由、誤解。
されど人の噂は波より早く、
白き羽衣は神話となり、
海を駆けた雷は守護者の名を得る。
小さなぬいぐるみは信仰の芽となり、
銀猫と金雷は、本人たちの知らぬところで並び立つ。
──記録『雷来々抄・外典』より抜粋。




