第六十二章『雷、海を駆ける』※挿絵有り
──深奥の間には、静かな光が満ちていた。
ファナとメルは、遺跡の最奥に佇んでいた。
そこには、まるで心臓のように脈動する透明な水晶が浮かび、周囲の空気ごと淡く震わせていた。
「……これが、封印の核」
メルが低く呟く。水晶の名は、《封晶核》──
古代の魔導文明が、空間遮断と領域封印を行うために用いた、極めて高度な術式構造体。
「この島全体が、こいつによって外界から隔離されている。
けれど──ここに魔力を供給し続ければ、外との接続点を数分だけ開ける」
「じゃあ……帰れる、の?」
「条件付きで、な」
メルはすでに展開していた術式群に、さらなる複合式を重ねていた。
並列で展開される三重層構造。通常であれば数日を要する構築作業を、彼は数刻で組み上げていた。
「この術式を稼働させる間だけ、封印が解除される。だが供給が止まれば、再び完全に閉じる。時間は──最大で三分」
ファナは頷いた。
「三分で島を出なきゃいけないんだね……」
「そういうことだ。……やれるか?」
問いに、ファナは静かに笑って返した。
「うん。だって、メルがいてくれるから。わたし、前に進めるよ」
その微笑みは、儚くも、確かな意志を宿していた。
メルは息を吐き、右手を掲げる。
「ならば──風を裂く術式を、空と海に届けよう」
詠唱の代わりに、彼は指先から金の糸のような魔力を放つ。
空中に浮かぶ魔術式は、刃のような鋭さで構築されていく。
──空間操作。重力低減。反発制御。波圧耐性。速度強化。
それらが、ひとつの名を持った術式へと昇華される。
「《奔雷走翔陣》、完成だ」
遺跡が揺れ始めたのは、それからまもなくのことだった。
「崩れる……!」
封晶核に魔力が供給されたことによる逆流現象。
構造全体が限界を迎え、壁が軋み、天井が崩れ、足元の床がひび割れる。
「走るぞ、ファナ!」
「う、うんっ!」
二人は全力で駆け出した。
だが、薄い靴底では、荒れた床の段差を受け止めきれない。
──それでも走った。
崩れゆく空間、差し込む光の道筋。
だが、その時──
「きゃっ!」
床が崩れた。
ほんのわずかな段差。だが、薄い靴底では受け止めきれない衝撃だった。
バランスを崩し、ファナが膝をついた。
「ファナ!」
「だ、だいじょぶっ……!」
言葉とは裏腹に、震える膝と、かすれた呼吸。
このままでは間に合わない。時間は、残り一分を切っていた。
メルは一瞬だけ迷い──だがすぐに、決断した。
「──乗れ!」
ファナを、抱きかかえる。
小柄な身体は軽いが、守るべき重みがそこにはある。
「船に戻る時間はない、走るぞ──海の上を!」
そう言うが早いか、彼は結界の出口を跳ねるように抜け、波打ち際へと突き進んだ。
ファナの目が見開かれる。
「え、ええっ!? ま、待って、それ本気で──」
「安心しろ。計算済みだ。水面の圧力変動と魔力干渉角さえ制御できれば──」
彼は跳躍した。
──海が、割れた。
金の光が、走った。
雷光のような軌跡を描き、海面に術式の足場が生まれる。
メルはその上を疾走していた。
潮風を巻き、波飛沫を裂いて、彼の足は一瞬たりとも沈まない。
「わ……わたし、空飛んでるみたい……!」
ファナが胸元で息を呑む。
彼女の髪とリボンが風に舞い、震える肩が、メルの胸元でぴたりと落ち着いた。
「わたし……メルとなら、どこまでも行ける気がする……」
メルは言葉を返さない。ただ、魔力の糸をさらに束ね、
水上を駆け抜ける雷のように、目標の座標へ突き進んだ。
***
──その頃。
沖合の漁船の上、老漁師が釣り糸を垂らしていた。
「……ん? なんじゃあれは……?」
海面を──光が走っていた。
金色の軌跡。
雷のように走る男の腕には、銀髪の猫人族の少女が抱かれていた。
濡れた白い上着が風を受け、薄い布が背にふわりと広がる。
水しぶきと霧、そして雷光に照らされたそれは、遠目には白い羽衣のように見えた。
「……猫耳の……女神……? いや、あれは……夢か……?」
彼は擦った目を、何度も開いたり閉じたりしながら呟いた。
この出来事は、やがて小さな港町に伝わり、
そのまた詩人の耳に入り、やがて──記録された。
『銀猫と金雷、海を駆ける』と。
***
島が、光に包まれる。
遠く離れた地平線の向こうで、封晶核の光が天へと昇り、
その瞬間、空間の結界が再び閉じた。
ファナとメルは、ぎりぎりでその外へと滑り込んだのだった。
二人が立つのは、もう海辺の砂浜。
息を切らし、術式の余波に全身が痺れながら、メルはファナをそっと下ろした。
ファナも言葉を発せず、しばしただ、空を見上げる。
そして──ぽつりと呟いた。
「ありがと、メル。……わたし、ひとりじゃ……あそこから出られなかった」
メルは答えない。ただ静かに、彼女の頭を撫でた。
やわらかな銀の髪が、そよ風に揺れる。
そして──ファナが、はにかむように笑った。
──水面に走る雷、それは守り手の名。
──金雷。
抱かれし銀猫、空を見上げ、小さく笑った。
──記録『雷来々抄』より抜粋。




