第六十一章『銀猫、囚わる──その瞳、折れず』
朝の光は、封じられた島にも確かに降り注いでいた。
けれど、その光はどこか異質だった。
波音の向こうに広がる森と遺跡の影は濃く、空の青さも、どこか沈んだように見える。
「……やっぱり、この島はただの遺跡じゃないね」
ファナは軽装のまま、メルの隣で遺跡の前に立っていた。
昨日の探索で見つけた石扉の先、古代語の警告文と魔力の痕跡──封印の存在。
それを一晩かけて解析し、今朝ようやく突破口を見つけたところだった。
「魔力の導線が妙に反応しやすい。これは術式が“呼吸”しているのと同じだ。……不用意な刺激を与えれば、罠になるだろうな」
メルは慎重に指を動かし、薄い光の線を空中に描いた。
浮かび上がる幾何学的な図形群──封印を構成する多重術式だ。
それらを一つずつ解きながら、ふたりはゆっくりと奥へ進んでいく。
だが、その時だった。
「──っ!? メルっ!」
光がねじれた。
ファナが踏み出した一歩先、地面がわずかに揺れ、術式が暴走を始める。
「待て! 動くなファナ!」
メルが駆け寄ろうとするその瞬間、足元から光の柱が弾けた。
瞬間的に広がった魔力の波に吹き飛ばされ、ふたりの視界が白く染まる。
そして──
──静寂。
「……っく……メル……?」
ファナが目を開けたとき、そこには見慣れない空間が広がっていた。
複雑に入り組んだ石壁。ねじれた階段。天井には無数の光る文様。
けれど、メルの姿は、どこにもなかった。
「メル……どこ……?」
呼びかけは、石壁に吸い込まれるように消える。
代わりに返ってきたのは、冷たい風の音と、石の軋むような低いうなり声だけ。
ファナは震える手で、自分の身体を確かめる。
小さなナイフも、護符もない。あるのは、軽装のままの身体と──
「……こ、怖がってる場合じゃない……」
小さく息を吐き、耳を震わせながら、ファナは一歩を踏み出した。
迷路のような遺跡の中、ファナはゆっくりと歩を進めた。
複雑な文様の壁が道を迷わせ、進むごとに空気は重くなっていく。
「メル……絶対、迎えに来てくれる。だから……今は、私が、進まなきゃ……」
声に出すことで、恐怖を押し込める。
暗がりの中、かすかに鼻歌を口ずさみながら、自分を落ち着かせる。
それは、かつて語り部だった頃、怖がる子供たちをなだめるために歌った小さな子守唄だった。
けれど──
「……!」
気配が、変わった。
奥の通路から、乾いた葉擦れのような音が響いた。
かさり、かさり。
石壁の文様の隙間から、黒ずんだ蔦が伸びてくる。
それはただの植物ではなかった。
蔦の表面には淡い魔力紋が浮かび、まるで封印術式そのものが根を張ったように、ゆっくりと床を這っていた。
逃げようとした瞬間、足首に冷たい感触が絡みついた。
「っ……!」
黒い蔦が、ファナの足を引いた。
上着の裾を掴まれ、身体が後ろへ引かれる。
さらに腕に、腰に、脚に、何本もの蔦が巻きついていく。
「は、離してっ……!」
布が裂けるほどではない。
けれど、上着を引かれ、身動きが取れなくなるだけで、胸の奥にぞわりとした恐怖が広がった。
ファナは恐怖に涙ぐみながら、顔を真っ赤にして叫んだ。
「やだっ、やだやだやだっ! 捕まるのは、絶対やだっ!!」
──次の瞬間、彼女は歯を剥いた。
「……がぶっ!!」
腕に絡みついた蔦へ、思いきり噛みつく。
硬い繊維が歯に触れ、蔦に走っていた魔力紋がびくりと揺れた。
「んっ……!」
嫌な感触に涙が滲む。
それでもファナは、離さなかった。
「これ以上……させないからっ……!」
蔦は痙攣し、離れた。だがその代償として、残る蔦はより強く、ファナの身体を拘束する。
動けない。声も届かない。
石壁の中に、ただひとり囚われる。
──けれど、ファナの瞳は折れていなかった。
「メル……信じてるから……来てくれるって、信じてるから……」
その声は、小さくとも真っ直ぐで。
それは確かに、届いたのだ。
ズガァァァンッ!!
突然、遺跡の空間に轟音が響いた。
石の天井が揺れ、蒼白い封印光を裂くように、金色の雷が走った。
そして──
「《雷針》──エクレール・ランス──」
静かな声が、響いた。
砂煙を裂いて、赤いマントが揺れる。
金の髪が閃き、指先から解き放たれる雷光が、ファナに触れている蔦だけを正確に焼き払う。
「……遅れて、すまない。お前の声は……確かに届いていた」
ファナの視界が潤んだ。目の前に立つその姿は、どこまでも頼もしく、美しく──
「メル……っ!」
拘束が解かれるや否や、ファナは涙を浮かべて飛びついた。
「怖かった……でも……でも、メルが来てくれるって、信じてた……!」
「……お前は、よく耐えた。誰よりも強かったよ」
メルはそっとファナの背を抱く。
だが、ふと彼女の肩に視線を落とすと──上着の留め紐がほどけ、片側の肩口がずれていた。
「……少し、動くな」
メルは背中のポーチから細い補修紐を取り出すと、即席で上着の留め具を結び直した。
器用な指先が、ほどけた布を整えていく。
「……よし。これで大丈夫だ」
「……うん」
ファナはまだ少し震えていた。
けれど、メルの服を掴む指先には、確かな力が戻っている。
「……少しだけ、このままでいていい?」
「ああ。好きなだけ、そうしてろ」
メルの腕が、静かにファナを包む。
石壁の奥に残っていた冷たい気配が、少しずつ遠のいていく。
怖かった。
それでも、折れなかった。
ファナはメルの胸元に額を預け、小さく息を吐いた。
銀猫、囚わる。
けれどその瞳は、折れず。
空を裂いた雷は、誰かを裁くためでなく──
愛する者を、守るために現れる。
──記録『雷来々抄』より抜粋




