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銀髪の猫はなにを願う  作者: 熊猫
第三部

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192/232

第五十九章『銀猫、砂に伏す。雷、波を裂いて』※挿絵有り

挿絵(By みてみん)

王都からの帰り道。

ファナとメルは、いつもより少しだけ遠回りの街道を歩いていた。

 

宿場町へ向かう道の先で、風の匂いが変わる。

草と土の匂いに混じって、少しだけ塩の匂いがした。

「……ねえ、メル。この匂い、なに?」

ファナが不思議そうに耳を動かす。

 

その先、緩やかな坂を越えた向こうに、青い光が広がっていた。

海だった。

 

挿絵(By みてみん)

 

「……わ……」

ファナは言葉を忘れたように立ち止まる。

白い砂浜と、紺碧の海。

波が陽射しを受けて、きらきらと眩しく光っている。

「すごい……ほんとに、海……」

「もしかして、見るのは初めてか?」

メルが隣で尋ねると、ファナは小さく頷いた。

「うん。話では聞いたことあるけど……ちゃんと見るのは、初めて」

 

その横顔は、まるで絵本のページを初めて開いた子どものようだった。

メルはしばらくその顔を見て、それから小さく笑う。

「なら、少し寄っていくか」

「え?」

「せっかくだ。見るだけじゃなくて、遊んでいこう」

ファナの耳が、ぴょこんと立った。

「……いいの?」

「寄り道しながら帰るって言ったのは、お前だろ」

そう言われて、ファナはぱっと笑った。

 

***

 

それからしばらくして、ふたりは砂浜へ降りた。

 

波の音が、耳をくすぐる。

白い砂浜と、紺碧の海。

照りつける陽射しに、ファナの銀の髪がさらさらと揺れていた。

 

「わぁ……近くで見ると、もっとすごいね……」

猫耳を揺らしながら、ファナは目を細めて海を見つめる。

潮風に吹かれて立つその表情は、初めて絵本の景色を本当に見た子どものようだった。

 

「よし、じゃあ俺は飲み物でも買ってくる。着替えたら声かけてくれ」

「うん……! 水着、ちゃんと着てみるね」

嬉しそうに頷くファナを見届けて、メルは小さく笑って砂浜を離れていった。

 

***

 

数分後──

「えへへ……これで、合ってるかな」

ファナは更衣室の鏡の前で、白と薄青のフリルがついた可愛らしい水着姿を確認していた。

胸元には小さなリボン。

スカート風のボトムの裾からは、動きやすい黒のスパッツがのぞいている。

 

その上から、薄手の白い上着をそっと羽織った。

裾に小さなフリルのついた、海辺用の上着だ。

「ちょっと、恥ずかしいけど……これなら、大丈夫かな」

ドキドキしながら更衣室を出て、ファナは人の間を縫うように砂浜を歩き出す。

だが──

 

「ねえねえ、君、可愛いね。一緒に遊ばない?」

軽薄な声をかけてきたのは、見知らぬ若い男。

 

「すみません、待ってる人がいるので……」

ファナはやんわりと断り、その場を離れようとする。しかし、その先で──

「……あれ、メル?」

 

後ろ姿が似ている男を見つけ、思わず近づく。

だが、振り向いたのはメルではなかった。

「えー、もうちょっと話そうよ。君、耳とか……すごく綺麗だし」

距離を詰め、軽く腕に手をかけてきたその瞬間。

 

「……離せ」

凍りついた声が割り込む。

メルだった。

男は威圧されて逃げ去り、ファナはほっとした顔で彼に駆け寄る。

「ありがとう、メル……!」

「大丈夫か」

「うん……。ちょっと、びっくりしただけ」

「無理するなよ」

「うん。でも……せっかくだから、海で遊びたい」

 

ふたりは並んで海へ入る。

メルが泳ぎ方を教え、ファナは猫のように水面をちょんちょんと叩き、しっぽで水をかけてはしゃぐ。

 

「メルと、海で遊ぶの……楽しい」

「俺もだ。……お前が笑ってるの、いいな」

微笑み合うふたり。

 

***

 

ファナが海から上がろうとした時、違和感に気づく。

「……あれ?」

肩にかけていたはずの、薄手の白い上着がない。

水着の上から羽織っていた、裾に小さなフリルのついた上着。

恥ずかしさをごまかすために、ずっと大事に押さえていたものだった。

 

「っ……!? な、ない……!」

波にさらわれたのだと気づいた瞬間、ファナの胸がきゅっと縮む。

水着そのものは、ちゃんと着ている。

けれど、慣れない格好のまま人の視線に晒されていると思うだけで、足元がぐらりと揺れた。

 

「ま、待って……どこ……?」

探そうとして砂浜へ膝をついた拍子に、周囲の視線が一斉に向いた気がした。

 

実際には、誰もそこまで見ていなかったのかもしれない。

けれどファナには、全部の視線が自分に刺さっているように思えた。

胸を押さえるように身を丸め、ファナは砂浜にうずくまった。

 

──視界が、静かに揺らいだ。

メルが事前に展開していた簡易結界《幽影の帳》が作動。 一般人の視線は遮られ、空間に曖昧な認識阻害が広がる。

 

「だ……れにも、見られてませんように……」

ファナは泣きそうな声で祈るように呟いた。

 

***

 

メルは、まだ海の中にいた。

「追い風の起動式、雷式、水中探査──……」

足元に魔力を集中させ、《水上歩行》と探索術式を組み合わせて、波間を走る。

雷光が走り、全身の魔力が水面を抑えるように展開。

 

「見つけた……!」

彼の目が、一点を射抜いた。 波間に漂うフリルの付いた上着。

それをすくい上げると同時に、胸に警鐘が鳴る。

「……っ、まさか!」

 

ファナの身に、異変。

水面を裂き、砂浜へ疾走する。 雷光の残滓が空を照らした。

 

***

 

《幽影の帳》は、視線と認識を逸らすための簡易結界だ。

だが、酔いで意識の焦点がずれていたせいか、ひとりの中年男がその曖昧な境界をふらふらと越えていた。

「おいおい、どうした嬢ちゃん。そんな所で座り込んで」

「来ないで……っ」

ファナは震える声で言った。

 

男の視線が、怯えた耳と、ぎゅっと丸まった尻尾に向く。

「へっへ……可愛い猫ちゃんじゃねえか。手ぇ貸してやるよ」

「やめて……っ、触らないで……!」

男が手を伸ばす。

 

その瞬間――

「――触れるな。《雷針》──エクレール・ランス──」

波を裂き、雷が走った。

金雷が男の肩口すれすれをかすめ、彼は意識を失って倒れ込む。

「……遅くなって、悪い」

静かにそう言って、メルがそっと上着を差し出す。

 

けれどファナは、それを受け取るより先に、震えたままメルの胸に飛び込んだ。

「メル……怖かった……。恥ずかしくて、どうしたらいいか、分からなくて……」

「大丈夫だ。誰にも近づけさせてねえ」

メルは上着をファナの肩にかけ、外殻の結界を展開し直した。

砂浜の視線も、波の音も、少し遠くなる。

「ちゃんと守った。もう大丈夫だ」

 

***

 

砂浜の隅、落ち着いた静寂の中。

「お前が無事で、よかった」

「……ありがとう、メルが来てくれて。ほんとに、よかった……」

頬を伝った雫が、砂に滲む。

 

──銀猫、砂に伏す。頬を濡らしたは、波か涙か。されど雷来々

──金雷、水面を蹴って飛ぶ。

——記録『雷来々抄』より抜粋。

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