第五十九章『銀猫、砂に伏す。雷、波を裂いて』※挿絵有り
王都からの帰り道。
ファナとメルは、いつもより少しだけ遠回りの街道を歩いていた。
宿場町へ向かう道の先で、風の匂いが変わる。
草と土の匂いに混じって、少しだけ塩の匂いがした。
「……ねえ、メル。この匂い、なに?」
ファナが不思議そうに耳を動かす。
その先、緩やかな坂を越えた向こうに、青い光が広がっていた。
海だった。
「……わ……」
ファナは言葉を忘れたように立ち止まる。
白い砂浜と、紺碧の海。
波が陽射しを受けて、きらきらと眩しく光っている。
「すごい……ほんとに、海……」
「もしかして、見るのは初めてか?」
メルが隣で尋ねると、ファナは小さく頷いた。
「うん。話では聞いたことあるけど……ちゃんと見るのは、初めて」
その横顔は、まるで絵本のページを初めて開いた子どものようだった。
メルはしばらくその顔を見て、それから小さく笑う。
「なら、少し寄っていくか」
「え?」
「せっかくだ。見るだけじゃなくて、遊んでいこう」
ファナの耳が、ぴょこんと立った。
「……いいの?」
「寄り道しながら帰るって言ったのは、お前だろ」
そう言われて、ファナはぱっと笑った。
***
それからしばらくして、ふたりは砂浜へ降りた。
波の音が、耳をくすぐる。
白い砂浜と、紺碧の海。
照りつける陽射しに、ファナの銀の髪がさらさらと揺れていた。
「わぁ……近くで見ると、もっとすごいね……」
猫耳を揺らしながら、ファナは目を細めて海を見つめる。
潮風に吹かれて立つその表情は、初めて絵本の景色を本当に見た子どものようだった。
「よし、じゃあ俺は飲み物でも買ってくる。着替えたら声かけてくれ」
「うん……! 水着、ちゃんと着てみるね」
嬉しそうに頷くファナを見届けて、メルは小さく笑って砂浜を離れていった。
***
数分後──
「えへへ……これで、合ってるかな」
ファナは更衣室の鏡の前で、白と薄青のフリルがついた可愛らしい水着姿を確認していた。
胸元には小さなリボン。
スカート風のボトムの裾からは、動きやすい黒のスパッツがのぞいている。
その上から、薄手の白い上着をそっと羽織った。
裾に小さなフリルのついた、海辺用の上着だ。
「ちょっと、恥ずかしいけど……これなら、大丈夫かな」
ドキドキしながら更衣室を出て、ファナは人の間を縫うように砂浜を歩き出す。
だが──
「ねえねえ、君、可愛いね。一緒に遊ばない?」
軽薄な声をかけてきたのは、見知らぬ若い男。
「すみません、待ってる人がいるので……」
ファナはやんわりと断り、その場を離れようとする。しかし、その先で──
「……あれ、メル?」
後ろ姿が似ている男を見つけ、思わず近づく。
だが、振り向いたのはメルではなかった。
「えー、もうちょっと話そうよ。君、耳とか……すごく綺麗だし」
距離を詰め、軽く腕に手をかけてきたその瞬間。
「……離せ」
凍りついた声が割り込む。
メルだった。
男は威圧されて逃げ去り、ファナはほっとした顔で彼に駆け寄る。
「ありがとう、メル……!」
「大丈夫か」
「うん……。ちょっと、びっくりしただけ」
「無理するなよ」
「うん。でも……せっかくだから、海で遊びたい」
ふたりは並んで海へ入る。
メルが泳ぎ方を教え、ファナは猫のように水面をちょんちょんと叩き、しっぽで水をかけてはしゃぐ。
「メルと、海で遊ぶの……楽しい」
「俺もだ。……お前が笑ってるの、いいな」
微笑み合うふたり。
***
ファナが海から上がろうとした時、違和感に気づく。
「……あれ?」
肩にかけていたはずの、薄手の白い上着がない。
水着の上から羽織っていた、裾に小さなフリルのついた上着。
恥ずかしさをごまかすために、ずっと大事に押さえていたものだった。
「っ……!? な、ない……!」
波にさらわれたのだと気づいた瞬間、ファナの胸がきゅっと縮む。
水着そのものは、ちゃんと着ている。
けれど、慣れない格好のまま人の視線に晒されていると思うだけで、足元がぐらりと揺れた。
「ま、待って……どこ……?」
探そうとして砂浜へ膝をついた拍子に、周囲の視線が一斉に向いた気がした。
実際には、誰もそこまで見ていなかったのかもしれない。
けれどファナには、全部の視線が自分に刺さっているように思えた。
胸を押さえるように身を丸め、ファナは砂浜にうずくまった。
──視界が、静かに揺らいだ。
メルが事前に展開していた簡易結界《幽影の帳》が作動。 一般人の視線は遮られ、空間に曖昧な認識阻害が広がる。
「だ……れにも、見られてませんように……」
ファナは泣きそうな声で祈るように呟いた。
***
メルは、まだ海の中にいた。
「追い風の起動式、雷式、水中探査──……」
足元に魔力を集中させ、《水上歩行》と探索術式を組み合わせて、波間を走る。
雷光が走り、全身の魔力が水面を抑えるように展開。
「見つけた……!」
彼の目が、一点を射抜いた。 波間に漂うフリルの付いた上着。
それをすくい上げると同時に、胸に警鐘が鳴る。
「……っ、まさか!」
ファナの身に、異変。
水面を裂き、砂浜へ疾走する。 雷光の残滓が空を照らした。
***
《幽影の帳》は、視線と認識を逸らすための簡易結界だ。
だが、酔いで意識の焦点がずれていたせいか、ひとりの中年男がその曖昧な境界をふらふらと越えていた。
「おいおい、どうした嬢ちゃん。そんな所で座り込んで」
「来ないで……っ」
ファナは震える声で言った。
男の視線が、怯えた耳と、ぎゅっと丸まった尻尾に向く。
「へっへ……可愛い猫ちゃんじゃねえか。手ぇ貸してやるよ」
「やめて……っ、触らないで……!」
男が手を伸ばす。
その瞬間――
「――触れるな。《雷針》──エクレール・ランス──」
波を裂き、雷が走った。
金雷が男の肩口すれすれをかすめ、彼は意識を失って倒れ込む。
「……遅くなって、悪い」
静かにそう言って、メルがそっと上着を差し出す。
けれどファナは、それを受け取るより先に、震えたままメルの胸に飛び込んだ。
「メル……怖かった……。恥ずかしくて、どうしたらいいか、分からなくて……」
「大丈夫だ。誰にも近づけさせてねえ」
メルは上着をファナの肩にかけ、外殻の結界を展開し直した。
砂浜の視線も、波の音も、少し遠くなる。
「ちゃんと守った。もう大丈夫だ」
***
砂浜の隅、落ち着いた静寂の中。
「お前が無事で、よかった」
「……ありがとう、メルが来てくれて。ほんとに、よかった……」
頬を伝った雫が、砂に滲む。
──銀猫、砂に伏す。頬を濡らしたは、波か涙か。されど雷来々
──金雷、水面を蹴って飛ぶ。
——記録『雷来々抄』より抜粋。




