第五十六章『妹の願いと、王都への誘い』
春の風が、家の軒先で小さく歌っていた。
空は晴れわたり、遠くの雲さえまるで絵本のように綺麗で、どこか現実味のない日だった。
けれど、この穏やかな日常が、何かの“はじまり”であることを――ファナは、まだ知らない。
庭の片隅で、ファナは草花に触れていた。
耳がぴくりと動く。
家の外壁に沿って、メルの魔力が静かに脈打っていた。
「うん、今日も安定してるね……」
悪意を近づけないための結界。
難しい理屈は分からない。
けれど、その気配が、家を包む手のひらのように優しいことだけは分かった。
……やっぱり、普通じゃない。
「ふふ、すごいなぁ……。さすが、メル……」
しっぽを揺らしながら、ファナは微笑む。
けれどその時。家の前に、小さな足音が近づいた。
「――ファナ様。お久しぶりです」
振り返った先にいたのは――見間違えようのない、あの人だった。
「……メリル、さん……!?」
長い金髪、琥珀の瞳。気品を漂わせるローブ姿の魔術師は、ファナに深く一礼した。
結界は、彼女を拒まなかった。
ギルドを通じて、正式に訪問の許可が通されていたのだろう。
悪意のない来訪者として、静かに道を開いていた。
背筋は真っ直ぐで、手にした封書には王都魔導院の封蝋が。
「王都魔導院より、正式な使者としてまいりました。突然の訪問、どうかお許しください」
「う、ううん! 全然……! えっと、来てくれて、すごく嬉しい……!」
思わず耳がぴょこぴょこと動いてしまう。
ファナは小走りで玄関まで戻ると、すぐに扉を開けて――
「メルーっ! あのね、メリルさんが来たの!」
***
家の応接間には、温かい香草茶の湯気がふわりと漂っていた。
メリルは姿勢よく腰かけ、手には整然とした公文書と自筆の手紙を持っている。
メルは壁にもたれかかるようにして、腕を組んでいた。
その目は、妹を真正面から見据えている。
「で、使者ってのは本当かよ。まさか自分で来るとは思わなかったぜ」
「他の誰にも、この話を任せることはできませんでしたので」
メリルの声は穏やかだが、芯がある。
真剣そのものだった。
「先日の術式――《新婚生活支援結界・深宵安眠型》の記録が、王都魔導院にも届きました」
「……待て」
メルの眉が、わずかに動いた。
「今、何の記録が届いたって?」
「《新婚生活支援結界・深宵安眠型》です」
「違う。届くなら《探痕解析陣》の方だろ」
メリルは、少しだけ困ったように目を伏せた。
「その《探痕解析陣》については、被害者保護と捜査上の理由から、ほとんど伏せられていました。術式構造も、詳細は非公開扱いです」
「……まあ、それはそうだな」
「その結果、魔導院に明確に残ったのが、基盤となった並列処理補助術式の存在と――」
「まさか」
「はい。《新婚生活支援結界・深宵安眠型》の名称です」
メルは、珍しく言葉を失った。
ファナは耳を揺らしながら、小さく首を傾げる。
「えっと……つまり、魔導院の人たちは、その……新婚生活支援結界のことを調べたいの?」
「はい」
メリルは真面目な顔で頷いた。
「王都魔導院では現在、《新婚生活支援結界・深宵安眠型》がどのような術式なのかを巡って、かなり混乱が起きています」
「名前で混乱してるだけだろ」
「名前だけではありません。構造もです、お兄様」
「……魔導院の誰かが解析できるとでも思ってんのか?」
「いえ。解析には十日以上かかると見られていますが、それでも……貴方が“今”どんな領域にいるのかを、王都としては正しく知る必要があるのです」
メリルは封書から一枚の公文書を取り出し、差し出した。
それは魔導院長の署名が入った依頼書だった。
内容は簡潔で、術式についての見解、応用可能性の報告、そして今後の協力要請。
メルは受け取らない。
ただ、広げられた文面に目だけを走らせた。
「俺には関係ねえ。魔導院の名誉も、肩書きも要らねえ。お前が知ってるだろ?」
「……はい。けれど、“ファナ様を守る力”が、貴方の中にあるのなら……その力が、他の誰かの希望にもなるかもしれない。そう思うのです」
静かな声に、ファナの胸がちくりと痛んだ。
メリルは、ただ兄を困らせに来たのではない。何かを――“守ろう”としているのだと、すぐに分かった。
話が止まったのは、ほんの一瞬。けれどその沈黙の中で、ファナはそっとメルの袖を引っ張った。
「……ねぇ、メル。……メリルさん、きっとすごく困ってるよ。困ってる顔、してるもん」
メルがちらりとファナを見やる。
その視線に負けず、ファナは小さく頷いた。
「ちょっとだけでも……話だけでも、聞いてあげて?」
メルはため息をひとつ、長く吐いた。
そしてメリルに向き直る。
「……条件がある」
メリルの瞳が動く。
「俺が王都に行くなら――ファナも一緒だ。それでいいなら、行ってやってもいい」
メリルは、その瞬間、ようやくほんの少しだけ微笑んだ。
「もちろんです。ファナ様も、どうかご同行をお願い申し上げます」
ファナはちょっと驚いて、それからにっこりと頷いた。
「うんっ……! 行くよ、メルと一緒なら」
***
数日後――ギルドでは、再びざわつきが広がっていた。
「えっ、魔導院に招待されたのって、あの猫娘ちゃんの旦那さん?」
「てか本当にあの術式、記録に残ってたのか……」
「絶対王都でまたなんかやらかすだろ……!」
そんな中、セナが呆れたように口を開いた。
「魔導院に行くって……お前、またヘンなもん作ってきそうで怖いんだけど?」
メルは無言で手を振る。
隣のファナが苦笑しながら手を合わせた。
「だ、大丈夫だよ。私が止めるから!」
「お前がいれば、何が来てもどうにかなるさ」
そう言ってメルが微笑んだその瞬間、ファナの胸はあたたかく満たされた。
***
夕暮れの空、借家の窓から差し込む橙の光。
旅支度を整えながら、ファナは心の中で静かに言葉をつぶやいた。
「メルの隣が、一番安心できる場所――そう思えるようになった私は、きっともう、あの頃の私じゃない」
――そして、物語は再び動き出す。
王都の魔導院へ。
メルの術式を巡る小さな旅が、ふたりを少しだけ遠くへ連れ出していく。
その道の先に、思いがけない出来事と、小さな出会いが待っているとも知らずに――




