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銀髪の猫はなにを願う  作者: 熊猫
第三部

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第五十六章『妹の願いと、王都への誘い』

挿絵(By みてみん)

春の風が、家の軒先で小さく歌っていた。

空は晴れわたり、遠くの雲さえまるで絵本のように綺麗で、どこか現実味のない日だった。

けれど、この穏やかな日常が、何かの“はじまり”であることを――ファナは、まだ知らない。

 

庭の片隅で、ファナは草花に触れていた。

耳がぴくりと動く。

家の外壁に沿って、メルの魔力が静かに脈打っていた。

 

「うん、今日も安定してるね……」

 

悪意を近づけないための結界。

難しい理屈は分からない。

けれど、その気配が、家を包む手のひらのように優しいことだけは分かった。

 

……やっぱり、普通じゃない。

「ふふ、すごいなぁ……。さすが、メル……」

しっぽを揺らしながら、ファナは微笑む。

けれどその時。家の前に、小さな足音が近づいた。

 

「――ファナ様。お久しぶりです」

 

振り返った先にいたのは――見間違えようのない、あの人だった。

 

「……メリル、さん……!?」

長い金髪、琥珀の瞳。気品を漂わせるローブ姿の魔術師は、ファナに深く一礼した。

結界は、彼女を拒まなかった。

ギルドを通じて、正式に訪問の許可が通されていたのだろう。

悪意のない来訪者として、静かに道を開いていた。

 

背筋は真っ直ぐで、手にした封書には王都魔導院の封蝋が。

「王都魔導院より、正式な使者としてまいりました。突然の訪問、どうかお許しください」

「う、ううん! 全然……! えっと、来てくれて、すごく嬉しい……!」

思わず耳がぴょこぴょこと動いてしまう。

ファナは小走りで玄関まで戻ると、すぐに扉を開けて――

 

「メルーっ! あのね、メリルさんが来たの!」

 

***

 

家の応接間には、温かい香草茶の湯気がふわりと漂っていた。

メリルは姿勢よく腰かけ、手には整然とした公文書と自筆の手紙を持っている。

メルは壁にもたれかかるようにして、腕を組んでいた。

その目は、妹を真正面から見据えている。

 

「で、使者ってのは本当かよ。まさか自分で来るとは思わなかったぜ」

「他の誰にも、この話を任せることはできませんでしたので」

メリルの声は穏やかだが、芯がある。

真剣そのものだった。

 

「先日の術式――《新婚生活支援結界・深宵安眠型》の記録が、王都魔導院にも届きました」

「……待て」

 

メルの眉が、わずかに動いた。

「今、何の記録が届いたって?」

「《新婚生活支援結界・深宵安眠型》です」

「違う。届くなら《探痕解析陣》の方だろ」

 

メリルは、少しだけ困ったように目を伏せた。

「その《探痕解析陣》については、被害者保護と捜査上の理由から、ほとんど伏せられていました。術式構造も、詳細は非公開扱いです」

「……まあ、それはそうだな」

「その結果、魔導院に明確に残ったのが、基盤となった並列処理補助術式の存在と――」

「まさか」

「はい。《新婚生活支援結界・深宵安眠型》の名称です」

 

メルは、珍しく言葉を失った。

ファナは耳を揺らしながら、小さく首を傾げる。

「えっと……つまり、魔導院の人たちは、その……新婚生活支援結界のことを調べたいの?」

「はい」

 

メリルは真面目な顔で頷いた。

「王都魔導院では現在、《新婚生活支援結界・深宵安眠型》がどのような術式なのかを巡って、かなり混乱が起きています」

「名前で混乱してるだけだろ」

「名前だけではありません。構造もです、お兄様」

「……魔導院の誰かが解析できるとでも思ってんのか?」

「いえ。解析には十日以上かかると見られていますが、それでも……貴方が“今”どんな領域にいるのかを、王都としては正しく知る必要があるのです」

 

メリルは封書から一枚の公文書を取り出し、差し出した。

それは魔導院長の署名が入った依頼書だった。

 

内容は簡潔で、術式についての見解、応用可能性の報告、そして今後の協力要請。

 

メルは受け取らない。

ただ、広げられた文面に目だけを走らせた。

「俺には関係ねえ。魔導院の名誉も、肩書きも要らねえ。お前が知ってるだろ?」

「……はい。けれど、“ファナ様を守る力”が、貴方の中にあるのなら……その力が、他の誰かの希望にもなるかもしれない。そう思うのです」

静かな声に、ファナの胸がちくりと痛んだ。

メリルは、ただ兄を困らせに来たのではない。何かを――“守ろう”としているのだと、すぐに分かった。

 

話が止まったのは、ほんの一瞬。けれどその沈黙の中で、ファナはそっとメルの袖を引っ張った。

「……ねぇ、メル。……メリルさん、きっとすごく困ってるよ。困ってる顔、してるもん」

メルがちらりとファナを見やる。

 

その視線に負けず、ファナは小さく頷いた。

「ちょっとだけでも……話だけでも、聞いてあげて?」

メルはため息をひとつ、長く吐いた。

 

そしてメリルに向き直る。

「……条件がある」

メリルの瞳が動く。

「俺が王都に行くなら――ファナも一緒だ。それでいいなら、行ってやってもいい」

 

メリルは、その瞬間、ようやくほんの少しだけ微笑んだ。

「もちろんです。ファナ様も、どうかご同行をお願い申し上げます」

ファナはちょっと驚いて、それからにっこりと頷いた。

「うんっ……! 行くよ、メルと一緒なら」

 

***

 

数日後――ギルドでは、再びざわつきが広がっていた。

「えっ、魔導院に招待されたのって、あの猫娘ちゃんの旦那さん?」

「てか本当にあの術式、記録に残ってたのか……」

「絶対王都でまたなんかやらかすだろ……!」

 

そんな中、セナが呆れたように口を開いた。

「魔導院に行くって……お前、またヘンなもん作ってきそうで怖いんだけど?」

メルは無言で手を振る。

 

隣のファナが苦笑しながら手を合わせた。

「だ、大丈夫だよ。私が止めるから!」

「お前がいれば、何が来てもどうにかなるさ」

そう言ってメルが微笑んだその瞬間、ファナの胸はあたたかく満たされた。

 

***

 

夕暮れの空、借家の窓から差し込む橙の光。

旅支度を整えながら、ファナは心の中で静かに言葉をつぶやいた。

 

「メルの隣が、一番安心できる場所――そう思えるようになった私は、きっともう、あの頃の私じゃない」

 

――そして、物語は再び動き出す。

王都の魔導院へ。

メルの術式を巡る小さな旅が、ふたりを少しだけ遠くへ連れ出していく。

 

その道の先に、思いがけない出来事と、小さな出会いが待っているとも知らずに――

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