第五十五章『評価と防衛、そして日常へ』
静かな朝だった。
ファナとメルが住む新しい借家には、まだ生活の匂いがほのかに残る程度だった。
簡素ながらも日当たりの良い木造の家。
窓を開ければ、風に揺れる木の葉の音が心地よく響く。
まるで、何事もなかったように。
けれど、外の世界では、その“何事”がすでに騒ぎになっていた。
***
「……魔導院から、正式な照会が来たみたいね」
朝のギルドホールは、いつもより少しざわついていた。
依頼掲示板の前では冒険者たちがいつものように依頼票を眺め、受付では職員たちが慌ただしく書類を捌いている。
その片隅で、セリナは若いギルド員から話を聞いていた。
小卓の上には、昨夜の事件に関する簡易報告書の写し。
押収された魔道具の目録。
そして、王都魔導院から届いたという封書の控えが置かれている。
「はい。『当該解析術式の構成概要について、可能な範囲で共有を願いたい』と……」
「可能な範囲で、ね」
セリナは封書の控えに目を落とし、静かに息を吐いた。
「ずいぶん丁寧な言い回しだけれど、向こうが本気で知りたがっているのは分かるわ」
若いギルド員が、おそるおそる口を開いた。
「やっぱり……あれ、そんなにすごかったんですか」
「すごい、という言葉だけでは足りないでしょうね」
セリナは腕を組み、ホールの奥へ視線を向けた。
「空の記録から転送痕を拾い、中継五つ、偽装二つ、本命一つを短時間で割り出した。
普通なら数日、場合によっては数週間かかる解析よ。
それを、その場で即興構築したというのなら……魔導院が動くのも当然だわ」
「即興で、ですか……」
「ええ」
セリナは静かに頷いた。
「ただし、笑って済ませられる話ではないわね」
事件そのものは、決して軽いものではない。
新居の浴室に、映像記録用の魔道具が仕掛けられていた。
それだけで、十分に悪質だった。
幸い、映像記録は成立しなかった。
被害者の姿は残っていない。
外へ送られた映像もない。
だが、空の記録だけが送られた。
そのわずかな痕跡を、メル・エルドリアは読み尽くした。
「メル君は、評価も表彰も必要ないと言っているのでしょう?」
「はい。それと、被害者名を外へ出すな、術式構造の詳細を渡すな、犯人の余罪調査を優先しろ、と」
「正しい判断ね」
セリナは迷わず言った。
「被害者の名を出す必要はないわ。家の場所も、事件の細部も、外へ出していいものではない。
魔導院へ渡すなら、解析結果と安全上の注意点、それから再発防止に必要な範囲だけで十分よ」
「魔導院は、納得するでしょうか」
「納得してもらうしかないでしょうね」
セリナは封書の控えをそっと小卓に戻した。
「メルの術式は、確かに魔導院が欲しがるほどのものよ。でも、だからといって、被害に遭いかけた人の安心を削ってまで渡すものではないわ」
若いギルド員は、少しだけ表情を引き締めた。
「……はい」
「大丈夫。順番を間違えなければいいの。まず守るべきものを守る。その上で、必要な情報だけを渡す」
セリナの声は穏やかだった。
けれど、その言葉には、戦場で何度も命を繋いできた者の重みがあった。
***
「“魔導院の使者”?」
メルは眉一つ動かさず、応接室に通された中年の魔術師を見た。
場所はギルドの応接室だった。
ファナのいる新居へ直接来させるわけにはいかないと、ギルド側が場を用意したのだ。
「ご足労だとは思うが、要件が表彰や詳細記録の提出なら帰ってくれ。俺には関係ない」
「い、いえ! 表彰というより、術式安全管理上の確認でして……!」
中年の魔術師は、必死に頭を下げた。
「もちろん、被害に関する個人情報は不要です。魔導院としては、あのような解析術式が存在する以上、せめて危険性と再現不能性だけでも記録しておきたいのです」
メルの目がわずかに細くなる。
「再現する気か」
「し、しません! できません!」
あまりにも即答だった。
「できる者がいたら、こちらが教えてほしいくらいです!」
横で聞いていたセナが、ぼそりと呟いた。
「そこは本音なんだろうな」
メルはしばらく黙っていた。
すると、隣に座っていたファナが、そっと袖を引いた。
「……メル」
「ん?」
「あの人、ちょっとかわいそうだよ。すごく困ってる」
ファナは小さく首を傾げる。
「それに……同じような魔道具がまた使われた時に、誰かを守れるなら、少しだけ教えてあげてもいいんじゃないかな」
メルは短く息を吐いた。
「お前は本当に、そういうところがあるな」
「……だめ?」
「だめじゃねえ」
メルは使者へ視線を戻した。
「条件付きだ」
「はい!」
「被害者名は出さない。家の場所も出さない。事件の詳細も必要最低限にする。術式構造は渡さない。渡すのは、動作結果と危険性、それから対策の概要だけだ」
「十分です! それで十分です!」
「あと、この術式を模倣しようとするな。普通の術者がやれば、解析前に補助術式が破綻する」
中年の魔術師は、真顔で何度も頷いた。
「肝に銘じます」
最後に彼が置いていったのは、やたら重そうな銀の文鎮だった。
豪奢だが、どう見ても実用性に乏しい。
ファナは首を傾げた。
「……これ、何に使うのかな?」
メルはその文鎮を持ち上げ、一言。
「……紙は押さえられる」
ファナは一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。
メルも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
***
「なあメル、よかったらでいいんだけど……ひとつ、教えてくれないか」
ギルドの中庭で、セナがいつものように難しい顔で言った。
「あの時の術式。あれ、どこまで即興で組んだんだ?」
「全部だ」
「全部って言うな」
セナは即座に頭を抱えた。
「せめて基礎式くらいは用意してたと言ってくれ。俺の常識のために」
「基礎式はあった」
「あるのか」
「《新婚生活支援結界・深宵安眠型》だ」
セナは一瞬、完全に黙った。
「……今、何と同じだって?」
「《新婚生活支援結界・深宵安眠型》だ」
「聞き間違いじゃなかったのがつらい」
メルは淡々と続ける。
「あれは防音、遮光、疲労軽減、簡易回復、外部干渉遮断を同時に走らせる必要があった。
だが、術式は魔力回路と制御負荷の問題で、そのまま並列発動させると破綻する」
「そこまでは分かる」
「だから、術式に分担させた」
「そこから分からない」
「術式並列処理用の補助術式を複数起動して、それぞれに構築、制御、監視を担当させる。
俺は全体の統括と補正だけを見る」
「……待て。術式に、術式を組ませたのか?」
「ああ」
「しかも、それを生活支援結界でやったのか?」
「ファナを休ませるためだからな」
「理由が強すぎて文句を言いづらい!」
近くにいたギルド員たちは、そっと視線を逸らした。
慣れているのだ。
この二人の会話には。
セナは深々と息を吐いた。
「あれ、三日かけて組んでたやつだろ」
「ああ。最初だったからな」
「それでコツを掴んで、今回は即興でやったのか?」
「そうだ」
「そうだ、で済ませるな」
メルは首を傾げる。
「《探痕解析陣》では、上乗せする処理を変えただけだ。
防音、遮光、疲労軽減、簡易回復、外部干渉遮断の代わりに、記録解析、転送痕追跡、魔力波長照合、隠蔽式逆算、偽装判別を走らせた」
「“変えただけ”って言うな!」
セナの声が中庭に響いた。
「安眠結界と犯罪組織の転送網解析を同じ棚に置くな!」
「処理を分担させるという意味では同じだ」
「同じじゃない。普通は同じじゃない」
セナは額を押さえる。
「説明だけなら、まだ分かった気になれるんだ。
術式に処理を分担させる。補助術式で制御する。そこまでは、まあ、理屈としては分かる」
「なら問題ないだろ」
「問題は実物だ!」
セナは声を荒げた。
「補助術式を補助する術式があって、その補助された術式が内側の式を組み替えて、その組み替えた結果をまた外側に返してる!
どこが主術式で、どこが補助術式なのか、見てるこっちの頭がおかしくなる!」
「主体制御主は俺だ」
「そこは分かってる!」
「なら問題ない」
「問題しかない!」
セナは肩を落とし、半ば諦めたようにメルを見る。
「……これは魔導というより、神話だな」
「大げさだ」
「大げさじゃない。制御できるなら魔導技術は百年以上進む。
制御できないなら、百年分の失敗が一秒で起きる」
メルは少し考えた。
「だから、模倣するなと言った」
「そういう意味で言ったのかよ」
セナは空を仰いだ。
「魔導院は欲しがるだろうな。だが、欲しがった連中ほど実物を見て青ざめるぞ。
これは“使える術式”じゃない。“お前が使えた術式”だ」
メルは静かに返した。
「必要だった」
「……ファナのためか」
「ああ」
迷いのない返事だった。
セナはしばらく黙ったあと、小さく笑った。
「お前の魔導は、本当にそこから始まるんだな」
メルは答えなかった。
ただ、否定もしなかった。
***
その日の午後、メルは新居に防衛結界を張り直していた。
昨夜、急造した結界ではなく、今度は家全体に馴染ませる形の常設型だ。
窓。
扉。
屋根裏。
床下。
浴室の換気窓。
すべてに細い金色の魔力印が刻まれていく。
「悪意感知式・迷入防止結界」
メルが淡々と説明する。
「侵入の意図、記録用魔道具の持ち込み、外部からの魔力干渉を検知する。
悪意が強い相手は、家へ近づくほど空間認識がずれる」
ファナはぱちぱちと瞬きをした。
「……えっと、つまり?」
「近づけなくなる」
「すごい……けど、ちょっと怖いね」
「悪意がなければ問題ない」
そこへ、様子を見に来ていたセナが庭の入口から顔を出した。
「待て。これ、防犯結界って言ったよな?」
「ああ」
「悪意を判定して、記録用魔道具を検知して、外部魔力干渉まで拾って、空間認識をずらすんだよな?」
「ああ」
「それを防犯結界って呼ぶな。国家重要施設の秘匿結界だ、それは」
「家を守るための結界だから、防犯結界だ」
「用途で分類するな。構造で分類しろ」
セナは頭を抱えた。
「本当に問題ないんだろうな?」
「試してみるか?」
「嫌な予感しかしないが、まあ確認は必要だな」
セナは庭へ一歩踏み込んだ。
そして、数歩進んだところで、なぜか同じ木の前に戻ってきた。
「……ん?」
もう一度進む。
また同じ木の前に戻る。
「なあ!」
セナが振り返る。
「俺、三回同じところ通ったぞ!?」
「悪意がないなら抜けられる」
「じゃあなんで引っかかってるんだよ!」
「妙な興味が強すぎる」
「細かすぎるわ!」
ファナは思わず口元を押さえた。
「セナ、大丈夫?」
「大丈夫じゃない! この結界、俺の知的好奇心を悪意扱いしかけてる!」
「悪意じゃない。過剰接近扱いだ」
「余計に腹立つ!」
ファナは小さく笑った。
その笑い声を聞いて、メルの表情が少しだけ和らぐ。
「……笑えるなら、まあいいか」
「メル?」
「なんでもない」
メルは最後の魔力印を窓辺に刻んだ。
淡い金色の線が家全体を巡り、やがて静かに消えていく。
外から見れば、ただの小さな借家。
けれど、その内側には、メルが張り巡らせた守りが確かに息づいていた。
***
夕暮れ。
家のテラスで、ファナとメルは並んで座っていた。
風が心地よく、庭に咲いた花々がそよいでいる。
どこか懐かしい、静かな時間だった。
「ねえ、メル……」
ファナがぽつりと口を開いた。
「あの時のメル、少し怖かった」
「ああ」
「でも……私のために怒ってくれたんだって、分かったから」
ファナは膝の上で指を重ねる。
「怖かったけど、嬉しかった。守ってくれたんだなって、思った」
メルは少し黙り、ファナの髪に手を伸ばす。
そして、静かに撫でた。
「……お前が怖がるようなものを、二度と近づけたくなかった」
「うん」
「お前自身も、お前の安心も、誰かのくだらない欲で汚されるものじゃねえ」
ファナの耳が、少しだけ揺れた。
メルの声は低かった。
けれど、もう怒りだけではなかった。
「ここは、お前が笑う場所にする」
「……うん」
「俺一人で守るんじゃない。お前が言った通り、ふたりで守る」
ファナはゆっくりと頷いた。
「うん。これからも、ふたりで守ろうね」
黒いしっぽが、するりとメルの膝に触れる。
メルはそれを見て、少しだけ笑った。
「明日はカーテンを買いに行くか」
「うん。厚くて、可愛いの」
「防犯性能もあるやつだな」
「だから、可愛さも大事だよ?」
「分かってる。防犯性能のある、可愛いカーテンだ」
ファナが笑った。
それは、事件の前とまったく同じ笑顔ではなかった。
怖さを知った後の笑顔だった。
それでも、確かに戻ってきた笑顔だった。
新しい家の窓辺で、金色の魔力印が淡く光っている。
その光は強すぎず、日常の灯りを邪魔しない。
守るための術式。
帰るための場所。
そして、ふたりでまた笑うための家。
夜は静かに、穏やかに、ふたりを包み込んでいった。




