第五十四章『新たな術式と怒れる天才』※挿絵有り
夜のギルドは、昼間とは違う静けさに包まれていた。
依頼を終えた冒険者たちはすでに宿へ戻り、受付の明かりも半分ほど落とされている。
残っているのは、夜間対応の職員と、遅れて報告書を書いている数人の冒険者くらいだった。
その扉が、勢いよく開かれる。
「……メル?」
受付にいた職員が、顔を上げた。
メル・エルドリアが立っていた。
手には布に包まれた何かを握っている。
表情は静かだった。
だが、その静けさが、逆に場の空気を冷やした。
「ギルドマスターはいるか」
「今は奥に……どうしたんですか?」
「事件だ」
短い言葉だった。
それだけで、受付の職員は背筋を伸ばした。
メルは布を受付台の上に置く。
中から出てきたのは、焦げた魔道具の破片だった。
「新居の浴室に、映像記録用の魔道具が仕掛けられた」
その場にいた数人が、息を呑む。
メルは続ける。
「記録そのものは成立していない。ファナの姿は残っていないし、外へ送られた映像もない。俺の結界が起動前に潰した」
そこで、ほんのわずかに声が低くなった。
「だが、空の記録だけが飛んでいる。転送式が一瞬だけ走った痕がある」
「空の記録……?」
「何も映っていない記録だ。だが、送った先は存在する」
職員の顔色が変わった。
その意味を理解したからだ。
映像はなかった。
被害は未遂だった。
けれど、犯人はいる。
転送先もある。
そして、その仕組みが残っている以上、同じことが別の場所で繰り返されるかもしれない。
「ギルドマスターを呼べ」
メルは静かに言った。
「今すぐだ」
***
ギルドの奥にある会議室に、数人の職員と冒険者が集められた。
呼ばれたセナも、眠そうな顔で部屋に入ってきたが、机の上に置かれた魔道具の破片を見た瞬間、表情を変えた。
「……何があった」
「記録用魔道具だ」
メルが答える。
「浴室の窓から差し込まれた。結界で潰したから記録はされてねえ。だが、転送式だけが一瞬走った」
「つまり、空の記録がどこかに送られたってことか」
「ああ」
セナは低く舌打ちした。
「趣味の悪い真似しやがる」
ギルドマスターは机に両手をつき、破片を見下ろしていた。
「ファナは無事なんだな」
「怪我はない。映像も残ってない」
「なら、まずはそこだけは良かった」
その言葉に、メルは何も返さなかった。
良かった。
確かに、それはそうだ。
けれど、ファナは震えていた。
怖がっていた。
それでも、他の誰かを心配していた。
それを思い出すだけで、胸の奥に細い雷が走る。
「犯人を見つける」
メルは言った。
「ただし、俺一人で街を探し回るより、ギルドに動いてもらった方が早い。人手と、過去の相談記録が欲しい」
ギルドマスターは頷いた。
「当然だ。これは冒険者の個人的な揉め事じゃない。街の治安に関わる問題だ」
すぐに指示が飛んだ。
夜間の見回り班。
街区担当の職員。
不動産屋への聞き取り。
過去に同じ家、あるいは近隣で似た苦情がなかったかの確認。
ギルドが動き出す。
だが、その中心で、メルは別の準備をしていた。
机の上に魔道具の破片を並べる。
焦げた水晶片。
焼き切れた魔力線。
欠けた記録板。
普通なら、そこから読み取れるものなどほとんどない。
記録は壊れている。
映像はない。
転送も不完全。
だが、メルは破片の上に指をかざした。
「転送式の残滓を拾う。空の記録に残った送信波長を逆算する」
セナが眉をひそめる。
「そんなことできるのか?」
「やる」
「できるかどうかを聞いてんだよ」
「だから、やると言ってる」
セナは一瞬だけ黙り、それから小さく息を吐いた。
「……お前、本当に怒ってるな」
メルは答えなかった。
指先から、細い金色の魔力線が走る。
床に円が描かれる。
その内側に、細かな式が刻まれていく。
さらにその外側に、別の円が重なる。
記録解析。
転送痕追跡。
魔力波長照合。
隠蔽式逆算。
偽装経路の切り分け。
複数の術式が、ひとつの陣の中で重なっていく。
「……おい、待て」
セナが目を細めた。
「今、何層重ねた?」
「五層」
「五層って言ったか?」
「まだ増える」
「増やすな馬鹿!」
周囲の職員たちも、ざわつき始めた。
「多層構造式……?」
「いや、でも、あれを即興で……?」
「しかも解析と追跡と照合を同時に走らせてるぞ」
「今、偽装経路まで判別してなかったか……?」
「普通、ひとつずつ処理するものじゃないのか……?」
メルの手は止まらない。
怒りが、術式を乱すことはなかった。
むしろ逆だった。
細部まで冷え切った怒りが、無駄な揺らぎを消していた。
ひとつの線もずれない。
ひとつの式も濁らない。
破片に残った、ほんのわずかな魔力の痕。
空の記録が走った一瞬の方向。
転送先へ伸びた、切れかけの糸。
その途中に仕掛けられた、中継点。
そして、追跡者を迷わせるためだけに置かれた偽の経路。
それらを、一本ずつ拾い上げ、切り分けていく。
「……見えた」
メルが呟いた。
魔導陣の中央で、細い雷光が弾ける。
「転送先は一つじゃねえ。中継点を噛ませてる。しかも、二つは偽装だ」
ギルドマスターの表情が険しくなる。
「数は」
「八つ。実際に繋がっていた中継が五つ。偽装が二つ。本命が一つ」
部屋の空気が凍った。
「偽装まであるのか」
「ああ。普通に追えば、そこで足が止まる。最悪、偽の保管場所を掴まされる」
セナが額に手を当てた。
「……それを今、数分で切り分けたのか?」
「必要だったからな」
「必要だったからで済む話じゃねえんだよ」
セナは床に展開された魔導陣を見下ろし、眉間に皺を寄せる。
「今の、解析術式を並列で走らせてたよな」
「ああ」
「追跡と照合と偽装判別を、同時に?」
「順番に処理していたら遅い」
「だから並列処理したのか」
「そうだ」
「……術式の並列処理なんて、普通は制御が破綻するぞ」
「だから、術式並列処理用の補助術式を外側に噛ませた」
セナは一瞬、完全に黙った。
「……すまん。今、何を並列処理したって?」
「術式並列処理用の補助術式を、並列展開した」
「説明を重ねるな。余計に分からん」
周囲の職員たちも、完全に言葉を失っていた。
メルは床の魔導陣から視線を外さない。
「怒っているからな。無駄な式を組む気にならなかった」
「怒ってる時に精度が上がるな。怖ぇよ」
メルは床に浮かび上がった地図状の魔力線を指差した。
「この街の中に三つ。外れに二つ。偽装の空き家が二つ。最後のひとつは倉庫街だ」
ギルドマスターが即座に職員へ指示を出す。
「見回り班を起こせ。近くにいる冒険者にも声をかけろ。中継地点へ向かう班と、偽装地点へ向かう班を分けろ」
「はい!」
「偽装地点にも人を回せ。罠や証拠隠しがあるかもしれん。単独で踏み込むな。必ず二人以上で動け」
「了解しました!」
「倉庫街は?」
セナが問う。
メルは破片を握った。
「俺が行く」
「だろうな」
セナは苦い顔をした。
「だが、やりすぎるなよ」
メルは一拍置いて、答えた。
「必要なら加減する」
「そこは最初から加減しろ」
ギルドマスターが低く言った。
「犯人には、余罪を吐かせる必要がある。被害者が他にもいるかもしれん」
その言葉に、メルの目がわずかに細くなる。
ファナの言葉が、胸に残っていた。
――このまま逃がしたら、また誰かに同じことをするかもしれないよね。
「……分かってる」
メルは静かに言った。
「吐かせる。全部だ」
***
倉庫街は、夜になると人通りがほとんどなくなる。
昼間は荷車と商人で賑わう場所も、今は積まれた木箱と閉じた扉ばかりが影を作っていた。
その一角に、古びた倉庫がある。
メルは足を止めた。
扉の隙間から、わずかな魔力が漏れている。
隠しているつもりなのだろう。
だが、先ほど解析した転送痕と同じ癖があった。
「ここか」
同行していたギルド職員が息を呑む。
「踏み込みますか?」
「ああ」
メルは短く答えた。
「逃げ道を塞げ。俺が中を見る」
「了解」
倉庫の裏手に職員が回る。
セナも別方向から気配を消した。
メルは扉の前に立ち、片手をかざす。
鍵が、音もなく弾けた。
中にいた男が振り返る。
「な、なんだ……!?」
散らばった箱。
机の上の小型受信器。
記録板の束。
そして、焦って隠そうとしたらしい魔道具の残骸が散らばっていた。
男の顔から血の気が引いた。
「な、なんでここが……!?」
油断していた男は、突如現れたメルに目を見開く。
メルは机の上の受信器を一瞥し、静かに歩を進めた。
「……話す準備はできているか」
その声は、低く、冷たかった。
「ひっ……! こ、殺す気か……!?」
「安心しろ」
メルの指先で、細い雷光が弾ける。
「死にはしない」
「死には、って言ったぞ今!?」
男が悲鳴じみた声を上げる。
倉庫の入口付近で様子を見ていたギルド員の一人が、妙に落ち着いた声で言った。
「安心しろ。ギルド規定上、殺しは止める」
「規定上!?」
「それ以上は現場判断だな」
「現場判断!?」
別のギルド員が肩をすくめる。
「大体、お前が悪い」
「お前が悪い。諦めろ」
「満場一致でお前が悪い」
「なんで全員そっち側なんだよぉ!」
男は情けない声を上げながら後ずさる。
だが、背後には積まれた木箱。
逃げ場はなかった。
「ま、待て! 俺を捕まえたところで、他の受信器の場所は分からねえぞ……! 偽装も噛ませてある。普通なら絶対に辿れねえ!」
「あー、それなんだが」
セナが横から口を挟んだ。
「この人が使った解析術式で、中継地点も偽装地点も本命も、もう全部割れてる」
「……はぁぁぁ!? 多重構造の隠蔽式を、偽装ごと解析したってのか!?」
「したらしいぞ」
「数分で!?」
「数分で」
「ありえねえだろ!」
「俺もそう思う」
セナは真顔で頷いた。
「だが、お前は絶対に怒らせちゃいけない奴を怒らせたんだよ」
メルは男の前で足を止めた。
怒鳴らない。
睨みつけるだけでもない。
ただ、静かに見下ろしていた。
「誰から買った。どこへ流した。他に何を仕掛けた」
雷光が、指先でまた一度弾ける。
「全部、話せ」
「は、話す! 話すから雷だけはやめてくれ!」
男はその場に崩れ落ち、震える声で何度も頷いた。
周囲のギルド員たちは、誰一人として同情しなかった。
「だから言ったろ」
「お前が悪い」
「諦めろ」
「……ひぃぃ……」
***
夜明け前。
ギルドには、押収された魔道具と記録板が次々に運び込まれていた。
中継地点からは、複数の受信器と転送用の記録板が押収された。
偽装地点の空き家からも、追跡を誤らせるための魔力印と、証拠を焼き払うための簡易発火式が見つかった。
もし普通の追跡術式で踏み込んでいれば、そこで証拠の一部は消されていただろう。
被害は、想像よりも広かった。
ただし、ファナの映像はなかった。
空の記録だけが、倉庫の受信器に残っていた。
その事実を、メルは最初に確認した。
そして、ようやく息を吐いた。
「……ファナのものは、ない」
セナが隣で腕を組む。
「それだけは、本当に不幸中の幸いだな」
「ああ」
メルは短く頷いた。
ギルドマスターは押収品を前に、厳しい表情をしていた。
「余罪はこれから調べる。被害者がいるなら、こちらで保護と聞き取りを行う。流通経路も洗う」
「まだ解析できる」
「帰れ」
低い声だった。
メルが眉を動かす。
ギルドマスターは続けた。
「お前が怒る理由は分かる。だが、今一番不安なのはファナだろう。犯人の前に立つより、今は帰ってやれ」
その言葉に、メルは黙った。
ファナは家で待っている。
怖さが消えないまま、それでも自分を送り出した。
――気をつけてね。
その声が、耳に残っていた。
「……分かった」
メルは破片を布に包み直し、懐にしまった。
「残りは任せる」
「ああ。任せろ」
***
新しい家の灯りは、まだ消えていなかった。
メルが扉を開けると、ファナがすぐに顔を上げた。
「メル……!」
「ああ。ただいま」
ファナは駆け寄りかけて、途中で少しだけ足を止めた。
それから、ゆっくりと近づいてくる。
「……見つかった?」
「見つけた。犯人も、拠点も、偽装地点も、全部ギルドに押さえてくれた」
「……偽装?」
「ああ。追跡されても逃げられるように、偽物の転送先まで作っていた」
ファナの顔が少し強張る。
メルはすぐに、声を柔らかくした。
「でも、大丈夫だ。全部見つけた」
「……そっか」
ファナの肩から力が抜ける。
メルは彼女の前に立ち、静かに言った。
「お前の映像は、なかった。残ってない。どこにも出てない」
ファナの目が揺れた。
そして、ゆっくりと潤む。
「……よかった」
「ああ」
「本当に……よかった……」
その声は、小さく震えていた。
メルは何も言わず、ファナを抱き寄せた。
ファナは抵抗しなかった。
むしろ、自分からメルの胸元に顔をうずめる。
「……怖かった」
「ああ」
「でも……メル、ちゃんと帰ってきた」
「言っただろ」
メルは彼女の髪を撫でる。
「お前のところに帰ってくるって」
ファナは小さく頷いた。
しっぽが、そっとメルの腰に巻きつく。
「……ありがとう。守ってくれて」
「当たり前だ」
メルの声は低く、けれど先ほどまでの冷たい怒りは薄れていた。
「ここは、お前が怖がるための場所じゃねえ」
「うん……」
「ふたりで帰る場所にするって決めただろ」
「……うん」
ファナは目を閉じ、メルに身を預けた。
怖さは、まだ完全には消えない。
けれど、腕の中は温かかった。
家の中には結界の光が静かに巡り、窓辺にはメルの刻んだ魔力印が淡く光っている。
ここは、もうただの安い借家ではなかった。
怖い出来事があった場所でもある。
けれど、それだけではない。
守られた場所。
帰ってきてくれた場所。
そして、これからふたりで暮らしていく場所。
「……メル」
「ん?」
「明日から、ちゃんとカーテンも買おうね」
一瞬、メルが黙った。
それから、少しだけ笑う。
「ああ。厚いやつを買おう」
「あと、窓に可愛い飾りも」
「防犯性能があるならな」
「そこは可愛さも大事だよ」
「……分かった。防犯性能のある可愛い飾りを探す」
ファナが、ほんの少し笑った。
それを見て、メルもようやく表情を緩めた。
事件は終わっていない。
余罪の調査も、魔道具の流通経路も、これからギルドが追うことになる。
けれど、この夜。
ふたりの家には、確かに小さな笑い声が戻っていた。
こうして、メル・エルドリアが一晩で組み上げた解析術式は、のちにギルドの記録へ残ることになる。
空の記録から転送先を割り出し、複数の中継拠点と偽装地点を同時に暴いたその術式。
名を、《探痕解析陣》。
そしてこの夜を境に、ギルドの一部ではひそかにこう囁かれるようになった。
メル・エルドリアは、天才である。
銀猫を傷つけようとする者は、彼の怒りを買う。
メル・エルドリアだけは、決して怒らせてはならない。




