第五十三章『ふたりの拠点と、ちいさな事件』
披露宴が終わって数日後、ファナとメルは新たな生活の拠点を探し始めていた。
選んだのは、これまで暮らしてきた街の一角だった。
ギルドにも市場にも近すぎず、遠すぎない。
人通りはあるが騒がしすぎず、ふたりで暮らすにはちょうどいい場所だ。
目指すは、いつか手に入れる魔導ハウス。
そのためにも、今は無理をしない。
節約できるところは節約して、少しずつ準備をしていこう。
そう決めたふたりは、不動産屋をいくつか回った末に、条件の良さそうな借家を見つけた。
「この家……妙に安くないか?」
家の前に立ったメルが、わずかに眉をひそめる。
広さは十分。
水回りも悪くない。
市場までも遠すぎず、ギルドへも歩いて行ける。
それなのに、同じ通りにある他の家と比べて、家賃が少し安かった。
「うぅ……でも、広さも充分で、水回りも綺麗だし……だ、大丈夫だよね?」
ファナが不安そうにしっぽを揺らす。
メルは家の外壁や窓の位置を一通り見てから、軽く息を吐いた。
「まあ、気になるところがないわけじゃねえが……簡易結界くらいは張れる。何かあれば、俺が調べる」
「うん……」
他に、これ以上条件の良い家はなかった。
結局、ふたりはその家を借りることに決めた。
──そして、引っ越し当日。
家具は最低限だった。
ベッド。
机。
椅子。
食器棚。
そして、ファナが大事そうに抱えてきた調理道具一式。
段ボールの中身を片付けながら、ふたりで家の隅々を掃除していく。
「ふふっ……やっと、ふたりの“おうち”なんだね」
ファナが嬉しそうに呟く。
その声を聞いて、メルは少しだけ口元を緩めた。
「そのうち、動く家も手に入れてやるよ。どこにいても安心できる、そんな拠点をな」
「動く家……魔導ハウス?」
「ああ。今は借家だが、最初の一歩としては悪くねえ」
淡々とした言い方だったが、その声には優しさがあった。
ファナは胸の奥がぽかぽかするのを感じながら、小さく頷く。
「うん。ここから、始めようね」
夕方、ふたりは手を繋いで市場へ買い出しに出かけた。
野菜を選び、肉を買い、少しだけ甘い菓子も買う。
ファナは久しぶりの自由な時間に嬉しそうにしっぽを揺らし、メルはその後ろ姿を見守るように歩いていた。
家に戻ると、メルは念のために家全体へ簡易結界を張った。
防犯。
防音。
外部からの不審な魔力干渉の検知。
本格的な拠点結界ではない。
けれど、普通の家に張るものとしては充分すぎるほどの術式だった。
「そんなに必要なの?」
ファナが首を傾げる。
メルは肩をすくめた。
「最初だからな。安かった理由が分からねえ以上、用心するに越したことはない」
「そっか……ありがとう、メル」
「礼を言うほどのことじゃねえよ」
そう言いながら、メルは窓辺に小さな魔力印を刻んだ。
ファナはそれを見て、少し安心したように笑った。
──その夜。
簡単な夕食を終え、ふたりはそれぞれの時間を過ごしていた。
メルは机で魔導書を開き、家に張った結界の微調整をしている。
ファナは湯に浸かりながら、慣れない新しい浴室でほっと息をついていた。
「……ふふっ。新しいおうちのお風呂、気持ちいい……」
湯気がゆっくりと立ちのぼる。
初めての家。
初めての夜。
少しだけ落ち着かないけれど、それ以上に嬉しかった。
ここは、メルと一緒に帰ってくる場所になる。
そう思った、その時だった。
コトリ。
小さな音が、窓の外から聞こえた。
「……?」
ファナが顔を上げる。
浴室の高い位置にある換気窓。
その外で、何かがかすかに動いた。
次の瞬間。
キィン、と澄んだ音が響いた。
窓の外で淡い光が弾け、何かが砕ける。
「──っ!」
ファナは息を呑んだ。
反射的に身体をすくめ、耳をぺたんと伏せる。
「メルーーっ!」
悲鳴に近い声が、家の中に響いた。
すぐに廊下を駆ける足音がした。
「ファナ!」
浴室の扉の向こうで、メルの声がする。
扉は開かない。
その前で、彼は一度だけ声を低くした。
「入っていいか」
「う、うん……!」
返事を聞いてから、メルは浴室に入った。
すぐに棚から大きなタオルを取り、ファナの肩にかける。
視線は彼女の顔と、窓の外だけに向けられていた。
「怪我は」
「な、ない……と思う……」
ファナの声は震えていた。
「でも、外に……何か……魔道具みたいなのが……」
「分かった。ここにいろ」
メルは短く告げ、すぐに窓の外へ意識を向けた。
窓枠に刻んでおいた魔力印が、薄く光っている。
結界が反応した証だ。
彼は浴室から出ると、玄関を開け、すぐに外へ回った。
家の裏手。
浴室の窓の下。
そこには、小さな魔道具の破片が散らばっていた。
手のひらに乗るほどの薄い板。
水晶片。
そして、焦げたように黒ずんだ魔力線。
メルはその場にしゃがみ込み、破片を拾い上げる。
「……記録用か」
声が低くなる。
映像記録用の魔道具。
しかも、記録した映像を外部へ送るための簡易転送式まで組み込まれている。
ただし、記録部は正常に発動していなかった。
メルの結界が反応し、記録が始まる前に魔道具そのものを焼き切っていた。
映像記録は残っていない。
少なくとも、ファナの姿はどこにも映っていない。
外へ送られた映像もない。
未遂だった。
ただし、完全に何も起きなかったわけではなかった。
「……くそ」
メルの指先で、細い雷光が弾けた。
犯人の姿は、すでになかった。
しばらくして、メルは破片を持って家の中へ戻った。
ファナは寝室で着替えを済ませ、膝を抱えて座っていた。
耳は伏せられ、しっぽも力なく床に落ちている。
「……メル」
「ああ」
メルはファナの前に膝をつき、破片を布で包んで見せる。
「記録はされてねえ。映像も残ってない。外にも、お前の姿は送られてない」
「……ほんと?」
「ああ。ただ──」
メルは壊れた魔道具の破片を指先でなぞった。
「空の記録だけが飛んでる。結界に弾かれて、記録内容は潰れた。だが、転送式そのものは一瞬だけ走ったらしい」
「空の……記録?」
「何も映ってねえ記録だ。けど、どこへ送ったかの痕は残る」
ファナの肩から、少しだけ力が抜ける。
それでも、震えはすぐには止まらなかった。
「……怖かった」
「ああ」
「また……来るかもしれない?」
その問いに、メルの瞳が細くなる。
「可能性はある。だから、今夜のうちに家全体の結界を張り直す。窓も、出入口も、屋根裏も、全部だ。もう同じ手は使わせねえ」
「……うん」
ファナは小さく頷いた。
けれど、その後すぐに、彼女は顔を上げた。
「……でも、メル」
「ん?」
「私たちは、止められたけど……」
ファナの指が、膝の上でぎゅっと握られる。
「このまま逃がしたら、また誰かに同じことをするかもしれないよね」
メルは、何も言わなかった。
ファナは怖がっていた。
今も震えていた。
自分が狙われたことに、傷ついていないはずがない。
それでも。
彼女は、自分のことより先に、まだ見ぬ誰かを心配していた。
「……怖かったはずなのに」
メルが静かに呟く。
「それでも、他の誰かを心配するんだな」
ファナは少しだけ困ったように笑った。
「だって……嫌だよ。こんなの、誰かがされるの」
その声は弱かった。
けれど、確かだった。
メルは、布に包んだ破片をそっと握った。
雷光が、指の隙間で小さく弾ける。
怒鳴ることはなかった。
声を荒げることもなかった。
けれど、その表情からは、普段ファナに向ける柔らかさが消えていた。
「……分かった」
メルは立ち上がる。
「逃がさねえ」
「メル……」
「まずは家を閉じる。俺が戻るまで、誰も入れねえ。外からの干渉も通さない」
彼は床に指を滑らせ、素早く術式を描いた。
淡い金色の線が床を走り、壁へ、窓へ、天井へ広がっていく。
家全体が、静かに結界に包まれた。
「ここにいれば安全だ」
「……うん」
「怖いなら、動くのは明日にしてもいい」
ファナは首を振った。
「ううん。行って、メル」
その声に、メルがわずかに目を見開く。
ファナはまだ耳を伏せたままだった。
しっぽも震えている。
けれど、それでも彼女は、メルを見上げていた。
「私は大丈夫。メルが守ってくれたから。だから……他の人が同じ目に遭う前に、止めて」
メルは、しばらく黙っていた。
そして、静かに頷く。
「ああ」
短い返事だった。
だが、その一言には、熱があった。
メルは壊れた魔道具の破片を手に取り、そこに残ったわずかな魔力の痕跡を指先でなぞる。
逃げた方向。
術式の癖。
魔力線の微細な歪み。
断片だけでも、追えるものはある。
普通の術者なら、ここから犯人を辿ることなどできない。
だが、メル・エルドリアにとっては違った。
「……痕は残ってる」
メルの足元に、細い雷光が走る。
それは怒りだった。
ファナが狙われたことへの怒り。
また彼女が狙われるかもしれないことへの怒り。
そして、怖がりながらも他人を心配するファナの優しさを、くだらない欲で踏みにじろうとした者への怒り。
こんなにも優しい者を狙った。
それだけで、もう充分だった。
「すぐ戻る」
メルはそう言って、扉へ向かう。
「メル」
「……追えるの?」
ファナが小さく尋ねる。
メルは破片を握り、静かに頷いた。
「追える」
その声は、ひどく静かだった。
「空だろうが、記録は記録だ。送った先があるなら、そこに痕は残る」
指先で、細い雷光が弾けた。
「見つける」
ファナは胸元で手を握りしめ、小さく言った。
「……気をつけてね」
「ああ」
メルは少しだけ表情を和らげる。
「お前のところに帰ってくる」
ただし、これはもう、ふたりだけの問題ではなかった。
同じことを繰り返させないためには、人手も、情報も要る。
この街で動くなら、まず向かうべき場所は一つだった。
メルは破片を握りしめ、夜の街へ踏み出した。
新しい家の灯りが、背後で小さく揺れている。
ファナはその灯りの中で、膝を抱えたまま、そっと耳を伏せた。
怖さはまだ消えない。
けれど、ここはもう、ただ怖い場所ではなかった。
メルが守ると言った場所。
ふたりで帰る場所にすると決めた場所。
だから、ファナは小さく息を吸って、待つことにした。
夜の街のどこかで、細い雷光が一度だけ瞬いた。




