第四十九章『プロポーズと銀猫の名』
夜も更け、王都の喧騒が静まり返る頃。宿の窓の外には、遠く霞む塔の尖端が月の光にぼんやりと照らされていた。
「……ファナ」
メルの声が、控えめに扉越しに響いた。
扉を開けると、赤いマントを羽織った彼が、少しだけ緊張した面持ちで立っていた。
「少しだけ、俺の部屋に来てくれないか?」
ファナはこくりと頷いた。
ほんのり顔を赤らめながら彼の後についていくと、そこには小さなテーブルと椅子があった。
そして、机の上には――。
「……これ、って……」
淡く光を反射する革の首輪。見覚えがあるそれは、ファナがかつてメルに託したものだった。
「預かってた、あの首輪だ。……お前の名前と、俺の名前を、刻んでもらった」
静かに言うメルの声には、芝居じみた飾り気はない。ただ、真っすぐで誠実な響きがあった。
ファナは瞳を揺らし、そっと手を伸ばす。
「……覚えててくれたんだね」
指先が触れた革の内側には、小さく刻まれた名が二つ。外側には「Fana Lamzelia」、内側には「Mel Eldoria」と。
――それは、あの時言った“番”の証。婚約指輪と同じ意味を持つもの。
「……今なら、つけてほしい」
小さく、でもはっきりとした声で、ファナはそう告げた。猫耳がぴくりと揺れ、目を伏せながらも、上目遣いでメルを見上げる。
メルの喉が小さく鳴る。「……わかった」と呟いた彼は、いつになく慎重に手を伸ばす。
ファナの首筋に指が触れる。熱を帯びたその肌に、メルの手が微かに震える。
「……動くなよ」
ぎこちなく、けれど確かに、メルは首輪の留め具を留める。その仕草はどこか儀式のようで、二人の間の空気をゆっくりと染め上げていく。
カチリ、と小さな音がして、革が首元に落ち着いた。
「……似合ってる」
メルは首輪を留めたあと、しばらく何も言えずにファナを見つめていた。
そして、胸元から小さな箱を取り出す。
「……ファナ」
震えそうになる声を、彼は一度だけ飲み込んだ。
「俺と、これからも一緒に歩いてくれ。恋人としてじゃなく……家族として。いつか、ちゃんと式も挙げる。だから」
小箱の中で、小さな指輪が月明かりを受けて光った。
「俺と、結婚してほしい」
その言葉に、ファナの頬がふわりと赤く染まる。
「……うん」
「ありがとう、メル」
メルは小さく息を吐き、震える指で指輪を取り出した。
ファナが差し出した左手の薬指に、そっとそれを通す。
冷たい金属の感触が、すぐに肌の温度に馴染んでいく。
ファナはその指輪を見つめ、それからそっと彼に寄り添った。
***
翌日、王城の応接室にて。
「……ご苦労さまでした。ゼルハルトの件は、“大規模術式の発動未遂”として処理されました」
フィリア王女が穏やかに告げる。その傍らで、セドリックが薄く微笑みを浮かべた。
「王都ではすでに、ある名前が噂になってる。……“銀猫のファナ”ってな」
「えっ?」
「……銀猫?」
思わず声を重ねたファナとメル。ファナは戸惑いながら自分の猫耳を軽く触れた。
「誰がそんなの言い出したの?」
「さあね。だが詩的で印象的だろう? 君の活躍と見た目が重なったのか、噂は広がってるらしい」
セドリックが愉快そうに言う。
メルは一度目を伏せ、それからゆっくりとファナを見つめる。
「……悪くないな。“銀猫”――お前に、似合ってる」
その一言に、ファナの心がふわりと弾む。顔を伏せたまま、でもどこか誇らしげに彼女は呟いた。
「……そんなの、初めて言われたけど……ちょっと、うれしいかも」
王都ギルドでは「短期帰郷」の申請が記録される。滞在は任務のためではなく、王族との“特例的な協力”として処理される形となった。
「また来てくださいね、銀猫のファナさん」
ギルドの職員が、少し照れくさそうに言った言葉に、ファナは耳まで赤くしながら会釈した。
城門を越え、王都を背にして馬車に乗り込む。
車輪の音に揺られながら、ファナは静かに王都の空を見上げた。
「……“銀猫”か……なんか、くすぐったいけど……やっぱり、うれしいな」
隣に座るメルが、彼女の手をそっと取った。
「じゃあ、次に来るときは、その名前で歓迎されるかもな」
その言葉に、ファナは小さく笑い、肩を寄せた。
馬車の中。二人きりの静かな時間。
ファナは首元に手を当てる。革の感触、名前の刻まれた場所に、そっと指を沿わせた。
「……メルと並んで歩ける今が、すごく幸せだな」
言葉にせずとも、心があたたかく満たされていく。
メルもまた、何も言わずにファナを見つめていた。もう、過剰な芝居も虚勢もない。ただ、隣にいる彼女を守りたいという想いが、その瞳に宿っている。
揺れる馬車の中で、二人は肩を寄せ合い、静かに未来への一歩を踏み出す。
――“銀猫”の名を背負いながら。




