第三十九章:好きってなに?
夜、宿屋の小さな部屋には、街の喧噪が遠くに滲んでいた。
古びた木の壁が、焚き火のような暖かいランプの光を吸い込む。
ファナはベッドに横向きになり、毛布をぎゅっと抱え込んでいた。
瞳は開いているのに、息を潜めて寝たふりをしていた。
カイルの低い声が、壁際からわずかに聞こえてくる。
「……無事でよかった。」
「でも、無理してんじゃねぇかって思うとさ。」
レリアの声は優しく、少し切なげだった。
「心配なのね。」
「私も……同じよ。あの子を守りたい。家族として、ちゃんと一緒にいたい。」
ファナは目を閉じて、必死に涙をこらえた。
胸の奥が、きゅうっと締めつけられる。
(私も……あんな風に……
誰かを大事に思えるのかな……。)
夜の呼吸が、部屋の隅で溶けていった。
朝が来た。
薄い光がカーテンをすり抜けて、木目の床を照らす。
埃がきらきらと舞うのを、ファナは毛布の中から見つめた。
布団の中で、心臓が小さく脈打つ。
昨日のこと、メルの顔、リクトの声、セナの目、そしてレリアの言葉。
全部が重なって胸を塞いでいた。
「おはよう、ファナ。」
柔らかな声が聞こえた。
レリアが布団の脇に腰を下ろして、そっと声をかけていた。
ファナはほんの少しだけ遅れて、小さな声で答えた。
「……おはよう。」
レリアはじっとファナの顔を見つめ、首をかしげた。
「……どうしたの?」
「何かあった?」
ファナは目を伏せた。
言わなきゃ。でも、怖い。
喉が詰まって声にならない。
「……あの……。」
唇が震えた。
そして、我慢していた涙が一筋こぼれた。
レリアはそっと手を伸ばし、ファナの頬をなぞるように拭った。
「泣いてもいいのよ。」
ファナは唇を噛んだまま、ぽつりぽつりとこぼした。
「……怖いの。」
「誰かを選んだら、他の人を……傷つけるかもしれないのが、怖いの。」
「リーダーなのに……ちゃんとできないの。」
喉が詰まって言葉が続かない。
視界が滲んで、レリアの顔が歪んで見えた。
レリアは小さく頷き、そっとファナを抱き寄せた。
温かい腕が背中を包む。
優しい声が頭の上から降ってきた。
「ファナ、好きになるっていうのはね、全部が優しいものじゃないの。」
「嬉しいことも、苦しいことも、誰かを笑わせることも、泣かせることもある。」
「それを知ったうえで、大事にしたいって思える人を選ぶの。」
「だから、怖くていいのよ。」
「その怖さごと抱きしめるのが、“好き”ってことなの。」
ファナは嗚咽をこらえながら首を振った。
「……でも、選んだら……選ばなかった人を、傷つけるかもしれない。」
「嫌われるかもしれないのが、怖いの。」
レリアの瞳が、少しだけ厳しく細められた。
でもその光は、ずっと温かかった。
「それが“選ぶ”ってことよ。」
「誰かを選ぶってことは、誰かを切り捨てることでもあるの。」
「その人に恨まれることだってある。」
「自分が泣くことだってある。」
「でも、それを全部受け止めて、初めて“好き”になるの。」
「逃げたら、何も手に入らないまま全部失うことだってあるのよ。」
ファナは目を見開いて、涙をこぼしながらレリアを見つめた。
(傷つけたくないって思ってた。)
(でも、本当は……責められるのが、嫌だった。)
(嫌われるのが、怖かった。)
(でも、それも受け止めないと……。)
レリアはその小さな肩を抱きしめ、手を取って軽く握った。
「大丈夫。」
「怖いって言えるのも、大事なこと。」
「泣いたっていい。助けてって言っていい。」
「私たちはずっと、ここにいるから。」
「でも、最後に決めるのはファナ自身よ。」
ファナはしゃくりあげながら、それでも目を逸らさずに頷いた。
「……うん。」
「……ありがとう、おかーさん。」
レリアは小さく息をつき、涙を浮かべながら微笑んだ。
そしてそっとファナの髪を撫でた。
ファナは涙を拭きながら、頬を赤くして、しっかりとレリアを見た。
声は震えていたけれど、目は真剣だった。
「私、まだよくわからないけど……。」
「でも、好きって、たぶん……。」
「一緒にいたいって思うこと、だよね……。」
「傷つけることも、怖いって思うことも、全部受け止めること。」
「……私、ちゃんと考える。」
「だから、見てて……おかーさん。」
レリアは優しく頷き、そっと髪を撫で続けた。
「ええ。ちゃんと見てるわ。」
「ファナなら、きっと大丈夫よ。」
ファナは少しだけ照れたように、でも真剣な目でレリアを見た。
そして、小さな声で言った。
「……あの、レリア……おかーさん。」
「今日、どこか出かける予定……ある?」
レリアは少し驚いたように目を見開き、でもすぐに優しく笑った。
「いいえ。今日は空けてあるわよ。」
「どうして?」
ファナは頬を真っ赤にしながらも、言葉を絞り出した。
「……いっぱい、話したい。」
「まだ……わからないこと、たくさんあるから。」
「おかーさんと……一緒に考えたい。」
レリアは目を細め、抱きしめる腕に力を込めてそっと囁いた。
「ええ。いっぱい話しましょう。」
「ずっと、あなたの味方だから。」
ファナは目を閉じて、レリアの胸に頬を埋めた。
涙はもう、少しだけ温かかった。
(怖いって言っていいって、わかった。)
(助けてって言ってもいいって、ちゃんと……言えた。)
(私、まだまだだけど……大丈夫。)
(だって、一人じゃないから。)
部屋の中に、穏やかな朝の光が満ちていた。
それは、優しく二人を包んでいた。




