第十話
月曜日の朝。
教室へ入ると、後ろの方から「本社」という言葉が聞こえた。
「土曜日、本社の前で雪白さんたちを見たぞ」
「ああ、俺も見た。大竹さんと室井も一緒だったし、お山参りじゃないか?」
「外部入学の二人もいたよな」
俺は何も聞いていないふりをして、自分の席へ座った。
話はそのまま、昔の思い出話へ移っていった。
「本社は小学校の遠足で行ったよな」
「市内の学校なら大体行くだろ」
「国宝館で先生とはぐれた奴いたな」
「あーいたいた」
「冬の式社もやばかった。石段で盛大に転んだ」
「階段の日陰はずっと凍ってるからな」
「末社の鶏に弁当取られた奴もいたよな」
「それ、お前じゃなかった?」
「違う違う」
「あそこの店、まだやってるかな」
「去年の祭りでは開いてたぞ」
先週までなら、何の話をしているのかほとんど分からなかった。
今は本社の参道も、式社の石段も分かる。末社の鶏が凶暴なことも、大竹さんのおかげでよく知っている。
場所は分かるようになった。
それなのに、口を挟めるところはなかった。
俺は教室の後ろを見た。
雪白さんは一番後ろの席で、いつものように本を読んでいた。
土曜日のことなら、同じ教室にも話せる相手がいる。声をかけようと思えば、かけられた。
けれど雪白さんにも、俺の知らない山府での思い出がある。式社で転んだことも、幼い頃に迷子になったことも、俺が来る前の話だ。
今、俺の頭にある東京のことも、雪白さんには分からないだろう。
お互い近くにいるのに、触れられない時間があることが、とてつもなく寂しく思えた。
結局、声はかけなかった。
始業前の予鈴が鳴り、話していた生徒たちが席へ戻っていく。
俺は鞄から活動報告を取り出した。
『活動前と活動後で、自分の中の何が変わったか』
昨日、一度だけ『特に変化はなかった』と書いた。消しゴムをかけた跡が、うっすら残っている。
もう一度、同じことを書く気にはならなかった。
俺はペンを取り、その下へ一行だけ書いた。
『山府を好きになるどころか、以前より東京へ帰りたくなった』
そこでペンが止まった。
今度は、消さなかった。
その日の放課後。
生徒談話室のいつものテーブルに、五枚の活動報告と設立申請書、年間活動計画書が並んだ。
今日は伊藤先生もいる。
「初めて来たが、本当にここを仮本部にしてたんだな」
「はい!」
「してないわ」
大竹さんと雪白さんの声が重なった。
「共用の談話室だと、何度説明しても聞かないんです」
「五人で話し合うのに、大変適した場所ですわ!」
「話し合い以外にも使う場所だと言っているの」
「なんだったらこのまま部室にしてもいいくらいですの!」
二人は息ぴったりで同時に話している。まるで双子のようだ。
「あーもーうるせえ! その話は後にしろ!」
自分から話題にしたくせに、伊藤先生がキレた。大人げないぞー。
二人が口を閉じると、伊藤先生は「ったくよー」とぼやきながら五枚の報告に目を落とす。
「一人ずつ、書いた内容を説明しろ。読む必要はない。要点だけ話せ」
そう言ってから、紬を見る。
「相田妹。要点だけだからな」
「分かっています」
……本当に分かっているだろうか。
「トポフィリアを得た実感はありません」
「いきなり活動目的が死んだな」
伊藤先生が容赦なく言った。
「ですが、場所と記憶が結び付いていることは分かりました」
紬は大真面目に続ける。
「同じ式社でも、六花さんにとっては転んだ場所で、華恋さんにとっては六花さんが迷子になって泣いた場所でした」
「そこを例にしないで」
雪白さんが低い声で抗議する。
紬は雪白さんのそれを受け流し、報告を続けた。
「場所には、そこで起きたことや、一緒にいた人との記憶が残ります。私にはまだありませんが、皆さんの話を聞いて、それは分かりました」
「なるほどな」
伊藤先生は紬の報告へ目を落とし、頷いた。
「次、大竹」
「はい!」
大竹さんは待っていましたとばかりに立ち上がった。
「わたくしは、山御杜へ何度も参拝しております。お山参りも初めてではありません。ですが、皆様と巡ったのは初めてでした。お兄様が古社をあのように見ることも、武尊さんが内社の祭礼で見ている景色も、今回初めて知りました。同じ場所でも、一緒に行く方によって見えるものが変わるのだと分かりました」
大竹さんは一度、俺たちを見回した。
「わたくしのお山参りの思い出が、一つ増えましたわ!」
最後まで声が大きかった。
「はい、次。雪白」
「特に変化はありません」
雪白さんは座ったまま答えた。
「以上よ」
「以上にしては、ずいぶん書いたな」
伊藤先生が雪白さんの報告を持ち上げる。
小さな文字が、用紙の下までびっしり並んでいた。余白まで資料で埋める紬とは違い、きっちり枠内へ収まっている。
「変化がなかった理由も考えろと言ったのは先生でしょう」
「何度も行った場所だから、見方も印象も変わらなかった、と」
「ええ」
「それだけで一枚埋まるか?」
「途中で紬の説明が長かったことや、華恋が鶏から逃げ続けていたことも書きました」
「自分の変化じゃなくて人のことばかりになってるぞ」
「活動中に確認した事実です」
雪白さんは平然としていた。変化がなかったわりに、人のことはずいぶん細かく覚えている。
「次、室井」
「はい」
室井君が背筋を伸ばす。
「自分は、内社の祭礼や神楽について説明できたことを嬉しく思いました」
「普段は説明しないのか?」
「武道について尋ねられることはあります。しかし、祭礼や神楽について人前でお話しする機会は、ほとんどありませんでした」
室井君は少し考えてから付け加えた。
「自分が大切にしてきたものを、皆さんに知っていただけたことが嬉しかったです」
「うん。課題の答えになってないが……まあいいだろう」
伊藤先生は頷き、最後に俺を見た。
「相田兄」
「はい」
俺は机の上の活動報告を見た。書かれているのは、一行だけだ。
「俺は、山府を好きになるどころか、以前より東京へ帰りたくなりました」
大竹さんが口を開きかけ、そのまま閉じた。室井君は困ったように俺を見ている。雪白さんも、こちらへ顔を向けていた。紬だけは、俺から目を逸らす。
伊藤先生が、俺の報告を手に取る。
「それだけか?」
「それ以上は書けませんでした」
「そうか」
先生は一行を読み、報告を机へ戻した。
「それも活動の結果だ」
否定されると思っていた。
山府との結び付きを得るための活動をして、東京へ帰りたくなった。そんなものは失敗だと言われても仕方がない。
だが、伊藤先生は五枚の報告を順番に並べただけだった。
「同じ場所を歩いたからって、五人が同じことを感じるわけがない。むしろ全員が同じ感想を書いてきた方が怖い」
先生は設立申請書の活動目的を指で叩いた。
『山府で様々なことを体験し、人と場所との間に生まれる情緒的な結び付きを得ること』
紬が書いた一文だった。
「問題は、五人の結果が違うことじゃない。こっちだ」
「活動目的ですか?」
「ああ。『情緒的な結び付きを得る』では、結び付きを得られたかどうかだけが成果になる。これじゃ何も変わらなかった雪白は失敗だ」
先生は俺の一行を指した。
「それに、相田兄は活動したからこそ、東京がどれほど大切だったのかに気づいた。新しい結び付きを得たんじゃない。もともとあったものが、はっきりしたんだ。それを失敗にする理由はない」
紬は設立申請書を見つめていた。
「五人で何をするかを書けとは言ったが、その結果まで先に決める必要はない。トポフィリアの表れ方は、一つじゃないしな。主軸にしたいなら、活動目的に答えまで書くな」
先生は五枚の報告書を揃え、紬の前へ押しやった。
「この五枚があれば、もう書けるだろ。あとは五人で一つにまとめろ」
少しの間、誰も話さなかった。
トポフィリアの表れ方は一つじゃない。先生はそう言った。
そして俺のトポフィリアは、もう決して手の届かない場所にある。
もう手に入らない場所……。そう考えてしまった途端、腹の底が重くなる。
皆が固まっていた。きっと俺の一声を待っているのだろう。でも、何も話せなかった。
やがて大竹さんが、設立申請書を自分の方へ引き寄せる。
「では、活動目的を皆様で考え直しましょう!」
明るく宣言し、目的欄へ二本の線を引くと、申請書を半回転させ俺へ向ける。
「お兄様は、その間にこちらをお願いしますわ」
指の先にあったのは、部長署名欄だった。
大竹さんがペンを差し出す。
その瞬間、俺の中にあったモヤモヤが一気に噴き出した。
俺は、ペンを受け取れなかった。
「ごめん。書けない」
「どうしてですの?」
大竹さんの手が止まる。
「ここに名前を書くなら、この先も五人で活動を続けるって約束することになる」
土曜日の活動は楽しかった。
だからこそ……もうありもしない東京へ帰りたくなった。
「楽しかったから、前より東京へ帰りたくなった。それを間違った感情みたいに扱いたくない」
「ですが、先生も、それは失敗ではないとおっしゃったではありませんか。活動目的も今から変えるのでしょう?」
「ああ。先生の言うことは分かる」
東京へ帰りたくなったことは、活動の結果だ。
それでも、次の活動へ行きたいかと聞かれたら、頷けない。
東京を思い出すのが、辛いから。もう戻れないもの、失ったものを、活動の度に思い出すなんて……俺には耐えられない。
「失敗じゃないことと、俺がこの活動を続けたいことは別だ。続けると決められないのに、部長として名前は書けない」
「分かりました。でしたら、部長はわたくしが務めます。お兄様は設立部員として残れば――」
「違うんだ」
俺は大竹さんの言葉を遮った。
「部長をやりたくないだけじゃない。次の活動にも参加するって、今の俺には言えない」
俺は設立部員欄を見る。
俺、紬、大竹さん、室井君、雪白さん。
五人の名前が並んでいる。
「俺は、設立部員からも外れる」
「で、でも、お兄様がいなければ、部が――」
「華恋さん」
紬が止めた。
「続けるかどうかは、兄さんが決めることです」
声はいつもと変わらなかった。
でも紬は、こっちを見ていなかった。
「兄さんの気持ちは、分かりました」
それだけだった。
紬は設立申請書を自分の方へ引き寄せる。
大竹さんの手には、行き場を失ったペンが残っていた。
「貸して」
俺の差し出した手に、大竹さんは黙ってペンを置く。
俺は設立部員欄に書かれた自分の名前へ、横線を二本引いた。
たったそれだけで、五人が四人になった。
「……これで設立部員は四人だ。申請は出せないぞ」
伊藤先生の声が、静かな談話室に響いた。
大竹さんは、もう引き留めなかった。
室井君も、雪白さんも、何も言わない。ただずっと、こちらを見ていた。
紬は俺を責めなかった。誰か一人くらい、無責任だと言ってくれればよかった。
誰も俺を責めないことが、思っていたより苦しかった。




