第九話
その日の夜、俺は自室の机で、今日撮った写真をパソコンに移していた。
本社の鳥居。式社の石段。内社の神楽殿。古社から見えた町並み。末社の鶏。似た構図や手ぶれした写真を外し、残すものを選んでいく。
説明用紙を持った紬。腕時計を確認する雪白さん。室井君の後ろへ隠れている大竹さん。おにぎりを前に、休憩時間と戦っている室井君。建物だけでなく、思っていた以上に人を撮っていた。
「へえ。けっこう撮ったのね」
いきなり背後から母の声がする。……ノックぐらいしてくれ。
母は俺の肩越しに画面を覗き込む。
「これが紬でしょ。このお嬢様っぽい子は?」
「大竹さん」
「美人ねえ。こっちの子も凄い美人」
「雪白さん」
「この大きい子は?」
「室井君」
「この可愛い子は?」
「先生」
「先生なの?」
「本人の前で同じ反応するなよ」
母は何枚か写真を眺めたあと、首を傾げた。
「あんた、一枚しか写ってないじゃない」
「そりゃ、撮影係だから」
「ふうん」
母はそれ以上何も言わなかった。
「データはちゃんと二か所に保存しなさいよ」とだけ言い残し、部屋を出ていく。
扉が閉まってから、俺はもう一度写真を最初から見直した。
正門を出る前にも気づいていた。
今日撮った写真の中で、俺が写っているのは、末社で撮った集合写真だけだ。
撮影係なのだから当たり前だ。
俺は写真の入ったフォルダを閉じようとして、少し下に並んでいた別のフォルダへ目を止めた。
日付は、去年。
開くと、前の家で撮った写真が表示された。
玄関先に、母と紬と俺が並んでいる。俺だけ目を閉じていた。撮り直した写真もあったはずなのに、なぜかこっちが残っている。
次の写真。
毎朝歩いていた通学路。紬と並んで歩いているが、その隣には友人も写っている。
駅前の店。放課後に寄ると、いつも同じ席が空いていた。
中学校の教室。机を後ろへ寄せて、何人かで床に座っている。
他にも、見慣れた景色が何枚も出てきた。
どの場所も、昨日まで当たり前に見ていたような気がする。
そして、その写真には俺がいた。
昔の写真を見返していたら、なんだかモヤモヤした気分になった。
思い返せば、山府に来てから、何度も同じ気分になっていた。
寂しいのだろうか。それとも、別の何かなのか。自分の気持ちがつかめない。
東京までは電車で三時間だ。すぐには無理だが、行こうと思えばいつでも行ける。
でも行ったところで、前の家はもうない。中学校にはもう入れないし、友達もみんなバラバラの高校だ。
行ったところで、もう元の暮らしはない。行ったところで、それまでとは違う現実を突きつけられるだけ……。
それでも。それでも俺は、東京へ帰りたいと思ってしまう。
今日の野外活動が楽しくなかったわけではない。
大竹さんのおにぎりは美味しかった。室井君の説明は分かりやすかった。雪白さんが迷子になって泣いた話は面白かったし、紬の説明は長かった。俺自身、古社で褒められて、かなり気分が良かった。
つまらなかったのなら、話は簡単だった。やっぱり山府は合わない。東京の方がよかった。そう思って終われた。
けれど、今日は楽しかった。
楽しかったからこそ、東京でも同じように誰かと歩き、食べ、笑っていたことを思い出した。
……俺はもう一度、今日の集合写真を見た。
つい数週間前まで、存在も知らなかった人達と並んでいる。その端で、俺も笑っていた。
俺はパソコンを閉じた。
それでも、東京の写真だけは、しばらく頭から消えなかった。
翌日の日曜日。
居間へ入ると、食卓が資料に占領されていた。
山府市史。山御杜縁起。昨日持ち歩いていた分厚いファイル。そして追加で増えた本が、その周囲へ積まれている。
中心では紬が活動報告を書いていた。
「紬さん? 報告は用紙一枚だけだぞ?」
「はい」
「資料の量が用紙一枚に収めるときの量じゃないんだけど」
「安心してください。書いた後で削ります」
「案内準備のときも同じこと言ってなかった?」
「今回は五分の制限がありません」
「一枚の制限はあるんだよ紬さん……」
紬は聞こえないふりをして、続きをガリガリ書いていく。
俺も向かいの席へ座り、伊藤先生から渡されたレポート用紙を広げた。用紙の上には課題が印刷されている。
『活動前と活動後で、自分の中の何が変わったか』
本当に難しい課題を出してくる。思春期の我々にとって、自分の内面をさらけ出すのは拷問に等しい。紬はよくあんなに書けるな……。
なんとなく作家と一般人の違いを思い知らされた。内なる衝動を文章やストーリーにできるから、小説なんて書けるのだろう。
俺にはその衝動があまりない気がする。悩みならいくらでもあるのに……。
とりあえず古社について分かったことなら書ける。
他の社に比べて境内が開かれていた。町との境界が薄く、祭礼を通じて人々と関わっているように見えた。それは昨日、みんなの前でも話した。
用紙へ二行ほど書き、消す。
先生が求めているのは、山府について分かったことではない。自分の中で、何が変わったかだ。
俺はしばらく考えたあと、今度はこう書いた。
『特に変化はなかった』
書いてから一度読む。なんて浅い一言だ。そのまま提出する気にはなれなかった。
もう一度消し、用紙を白紙に戻す。
「兄さん」
ふと我に返って顔を上げる。
紬が、資料の山の向こうから顔だけのぞかせている。……なんか小動物みたいでかわいいな。
「どこまで書きましたか?」
「んー、まだ何も」
紬は俺の白紙を見た。理由を尋ねられると思ったが、「そうですか」とだけ答え、自分の用紙へ視線を戻した。
急かすことも、何か書くよう勧めることもしない。紬のペンが紙の上を軽快に走る音だけが続く。
俺の用紙は、いつまでも白いままだった。
正確には、何もなかったわけではない。
書けないほど、頭の中が東京のことで埋まっていた。




