第49話 出会い
それは、小学四年生の時の話。
掃除の時間に図工室の前を通りがかったところ、中からひっくひっく、と変な声が聞こえてきた。
おそるおそる中をのぞき込む。
そこにいたのは、私と同い年くらいの男の子だった。こちらに背を向け、小さな肩を震わせている。
「ねえ、大丈夫?」
私が声をかけると、男の子は驚いたように飛び上がった。振り向いた彼の顔は、涙と鼻水でびしょ濡れになっている。
「どうして泣いているの? どこか具合でも悪いの?」
尋ねても、彼は泣きじゃくるばかりだ。
胸元の名札を確認すると、「四年二組 市之瀬」とあった。見たことのある顔だなとは思っていたが、やはり私と同学年だ。
「どうしよう……先生呼んだ方がいいかな」
「待って!」
身をひるがえした私の袖を、市之瀬君が掴む。体は小さいのに、思いのほか力が強い。
「それは、ダメ」
弱々しい、けれども明確な拒絶の意思表示。
……困ったな。
このまま放っておくのは気が引けるが、自分に何かできるとは思わない。
視線を落とすと、市之瀬君が何かを握っていることに気がついた。潰されてぐしゃぐしゃになったそれは、画用紙のように見える。
そういえば、今週は図工の授業で絵を描いた。
テーマは運動会。つい先日開催されたばかりだった。
私が題材にしたのは玉入れ。完成した絵は教室の壁に飾られている。
「それ、市之瀬君が描いたの?」
彼はこくこくと頷く。おそらく、原因はこの絵だろう。
「うまく描けなかったから泣いているの?」
今度は首を横に振る。
「じゃあ、誰かが市之瀬君の絵にいたずらしたとか?」
これも首を横に振る。これ以外の可能性は思いつかない。
相変わらず市之瀬君は泣き止まない。
「ねえ。その絵、私に見せてくれない?」
「っ!!」
その瞬間、市之瀬君の顔に警戒の色が浮かんだ。画用紙をさらにきつく握りしめると、怯えたように後ずさる。
びっくりした……。
「ごめん。無理とは言わないんだけど」
「……絶対に笑ったりしない?」
市之瀬君は上目遣いで問いかけてくる。
「うん。約束する」
「……」
まだ私のことが信用できないのか、市之瀬君は疑いのまなざしで私を見ていた。
「……」
そのまましばらく見つめ合う。
やがて、私に敵意がないことを悟ったのだろう。彼はゆっくりと画用紙を広げた。
「――」
市之瀬君の絵を見た瞬間、私は心を奪われてしまった。
真っ先に飛び込んできたのは、画用紙いっぱいに広がる鮮やかな色彩だ。
おそらく、題材はリレーだろう。グラウンドを走る生徒たちの様子が生き生きと描かれていた。彼らの顔は赤、青、黄、などと様々な色で表現されている。
その他にも、空が金色だったり、観客席が灰色で塗り潰されているなど、固定観念を覆すような色使いばかりだった。
絵はもっと自由に描いてもいいんだ、と目から鱗が落ちるような気分だ。
無言で見入っていると、市之瀬君が不安そうに声をかけてくる。
「お前も俺の絵は変だと思うだろう?」
「えっ、思わないよ」
否定したが、市之瀬君の顔は浮かない。
「気を遣わなくていい。先生も、クラスの人たちも、こんなのおかしいって笑うんだ。人の顔がカラフルなのはおかしい、もっと真面目に描きなさいって」
今回の絵も描き直しを命じられたそうだ。
「そんな……」
「でも、俺は自分が間違っているとは思わない。だって、あの時は本当にこんな風に見えたんだ。皆が気づいていないだけで、世界はもっと輝いている。それなのに、誰にも理解してもらえない」
確かに、市之瀬君の絵は普通とは違う。学校では皆と同じであることを求められるから、彼のように普通じゃない人は排斥されてしまう。
だけど私には、それが正しいことだとは思えなかった。たとえ人と違っていたとしても、優れているものは認められるべきだ。
「私は市之瀬君の絵が好きだよ」
市之瀬君が息を呑む。彼はゆっくりと顔を上げた。
「本当に……?」
泣きはらして真っ赤になった目が私を見つめる。
私は力強く頷いた。
「うん。だって、すごいもん。カラフルで綺麗だし、この発想は私じゃ絶対思いつかない。だからもっと見たいな」
ダメだ、私の語彙では感動をうまく表現できない。ちゃんと伝わっているだろうか。
市之瀬君はいつの間にか泣き止んでいる。熱に浮かされたかのようにぼんやりとしていた。
「大丈夫?」
「……そんな風に言われたの、初めてだ」
まるで宝物に触れるように、市之瀬君は画用紙を胸に抱えた。
よかった、喜んでもらえたようだ。
「ありがとう、神崎。お前のおかげで自信がついたよ」
元気を取り戻した市之瀬君は、どこかやんちゃそうな印象を受けた。
「俺の絵を好きだと言ってくれる人がいるんだ。だから俺は、これからも自分が感じたままに絵を描いていく――神崎は記念すべきファン第一号、ってやつだな」
初めて見た市之瀬君の笑みは、太陽のように明るかった。




