第38話 市之瀬君との穏やかなひととき
文化祭が終わると、学校内の雰囲気がガラリと変化する。
三年生は受験が近づいてピリピリしているし、それ以外の学年もテストや進路面談など、気の重くなるイベントばかりだ。
……そろそろ私も進路を決めないとなあ。
つい先日、進路希望の紙を配られた。来週が提出期限だというのに、私の分は白紙のままだ。
そんな状況の中、市之瀬君から再び絵のモデルになってほしいと頼まれた。
「すまない、最近どうにも調子が悪いんだ。スランプ脱出のために神崎の絵を描かせてほしい」
「いいけど……」
どうして私の絵を描くことがスランプ脱出につながるのかは不明だが、それが市之瀬君の役に立つというのなら、喜んで協力しようと思う。
◇◇◇
放課後に美術室へ行くと、なぜか市之瀬君以外の部員がいなかった。
聞くと、今日は顧問の先生が出張のため、活動は休みだという。
「特別に使用許可をもらっているんだ」
部屋の扉を閉めながら市之瀬君は答えた。
……ということは、二人きり? えっ、困る。緊張するんだけど!
「前と同じような感じでいてくれれば大丈夫だから。リラックスしてくれ」
「う、うん」
リラックスなんて無理だよ!
とはいえ、緊張しているのがバレるのも恥ずかしい。ここは平静を装わなければ。
「……」
二人きりの美術室はどこか物寂しい。
静かな室内に、市之瀬君が無心で筆を動かす音だけが響く。
手持無沙汰の私は、普段来ることのない美術室の中をぼんやりと観察していた。
油絵の具の独特な臭い。ギリシャ神話風の彫刻たち。壁際に追いやられているのは、製作途中の作品だろうか。
その中に、ひときわ目を引く絵があった。
ノスタルジックな雰囲気の風景画だ。この学校から眺めた未来ヶ丘の街並み。夕暮れ時の、オレンジ色にきらめくビルや家々を写実的に表現している。
「これ、市之瀬君が描いた絵?」
私が尋ねると、市之瀬君は驚いたように目を見張った。
「よくわかったな。普段とは全然作風が違うのに」
「なんとなくそうだと思ったんだ。珍しいね、市之瀬君がこんな普通の絵を描くなんて」
口にした後で、今の言い方は失礼だったかも、とハッとする。でも、市之瀬君は気にしていないようだ。
「次のコンクールに出す予定なんだよ。テーマが『未来に残したい私の街』だからな」
「コンクール?」
市之瀬君は以前、誰かにテーマを決められるのは好きじゃない、と語っていた気がする。心で感じたまま、自由にのびのびと描く。だから彼の絵は魅力的なのだ。
しかし、市之瀬君は遠い目をする。
そのまなざしに大人びたものを感じて、私は思わずドキリとした。自分よりも先を行く相手に対する焦り、そんな感覚。
「周囲からの評価を得るためには、相手の求めているものを描く、ということも必要だからな」
市之瀬君はすでに何度も個展を開催しているし、メディアにも取り上げられている。十分評価されていると思うのだが。
疑問が顔に出ていたのだろう。彼は「俺だって天才じゃないんだ」と苦笑した。
「俺は将来、絵の道に進みたいと考えている。だからこそ、描きたいものだけ描くわけにはいかないんだ。だって、仕事ってそういうものだろう? 好きなことだけで生きていけたら最高だけど、現実的には不可能だ。それが窮屈に感じる時もあるけど、割り切るしかないさ」
「……そうなんだ。芸術の道って、厳しいんだね」
「まあ、そうだな。だからこうして息抜きが必要になるんだ」
……意外だった。
市之瀬君は好きなことを全力でやっているんだと思っていたのに、ちゃんと将来のことまで考えていたなんて。何の方向性も定まっていない私とは大違い。同級生なんだけどな。
「神崎は将来どうするんだ?」
「……」
彼の質問に、私は何も答えられない。
お父さんからは何でも好きなことに挑戦しなさい、と言われている。
でも、流されるまま生きてきた私にとっては、自由という言葉は重荷なのだ。
きっと働かなくても生きていけるとは思うが、それでは一生懸命生きている市之瀬君に顔向けできない。
安井には「一緒に漫才やりませんか」なんて誘われているが、それは最終手段にしたい(どこまで本気で言っているのかわからないし)。
「すまない、答えにくければ無理に言う必要はないぞ」
「ううん、違うの。まだ決まっていないだけだから」
気まずい沈黙が流れる。
すると突然、市之瀬君が筆を置く。だらしなく足を投げ出すと、イスの背もたれによりかかった。
「あーあ。俺ももっと有名になって、学校の壁面いっぱいに自分の絵を描きたいなあ」
やけに大きな独り言に、私は呆気に取られる。だがすぐに、文化祭の準備期間中にした会話を思い出した。
「その話、まだあきらめていなかったんだ」
「当たり前だ! この高校の歴史に、俺という存在を刻みつけてやるんだ!」
「ふふ。応援しているよ」
市之瀬君の笑顔で場の雰囲気が明るくなった。相変わらず、彼は優しい。
◇◇◇
その後、一時間ほどたってから。
「よし、できた!」
市之瀬君が満足そうな声を上げる。絵が完成したようだ。
「見て驚くなよ。改心の出来だ」
やけに自信満々な彼の様子に、なんか嫌な予感を抱きつつキャンバスをのぞく。
――またか。
絵を見た瞬間、私の口からうめき声が漏れた。
キャンバスの中の私は、まるで一昔前の少女漫画のヒロインみたいだった。
キラキラと星のように輝く瞳に、メイクをしてもこうはならんだろ、と突っ込みたくなるほどふさふさの睫毛。背景には薔薇まで散っている。
去年の天使に比べればまだマシか……? ううん、今回も十分恥ずかしい。
「なあ神崎」
「ダメ」
「まだ何も言ってないが!?」
市之瀬君の言いたいことはよくわかっている。個展に飾りたいんでしょう? 残念ながら断固拒否。
「市之瀬君。念のため聞くけど、本当に私がこんな風に見えているの?」
「ああ、そうだが?」
彼の純真無垢な瞳は、嘘を言っているようには見えない。
「大変言いにくいんだけど、一度眼科に行った方がいいと思う」
「なぜだ!? え、色使いが変だったとか?」
「そうじゃないんだけど」
「よ、よかった……豊かな色彩感覚こそ、俺の一番の持ち味だからな」
市之瀬君はほっと胸をなでおろす。私の言い方が悪かったかもしれない。
「ところで。せっかくだからこの絵、お前に受け取ってほしい。部屋に飾ってくれてもいいぞ」
「遠慮します」
「そんな!」
私は市之瀬君の絵が好きだし、才能があると思っている。けれども、彼が私を見る目だけはどうにも信用ならなかった。




