第33話 文化祭編① 市之瀬君の野望
「……っ、ふぅ……っ!」
あぁ、これはもうダメだな。口つけちゃったし、もったいないけど捨てるしかない。
「おい、神崎。大丈夫か」
風船を膨らませようと悪戦苦闘していたら、背後から声をかけられる。ぜえぜえと肩で息をしながら振り返ると、市之瀬君の心配そうな顔が目に入った。
今月は未来ヶ岡高校の文化祭が開催される。名前は「青雲祭」。
九月の前半はほぼ文化祭の準備期間となっていた。
うちのクラスの出し物はカフェである。
多数決だとお化け屋敷が一位だったけれど、市之瀬君が断固拒否したので変更になったのだ。
……あの時の彼は顔を真っ青にして震えていた。意外な弱点判明だ。
カフェとはいえ、飲み物は市販のお茶をそのまま使用する。
問題はお菓子の方だ。
カフェの目玉は手作りのクッキーなのだが、私はその調理担当に選ばれてしまった。
自慢じゃないが、私は全然料理ができない。練習しようにも、うちの家には教えてくれる人がいなかった。……桃ちゃんに協力を仰ごうかな。
まあその分力仕事は免除されているし、当日のシフトも必要最低限しか入っていない。
今の時間は教室内の装飾を制作していた。
ちなみに、カフェのテーマは「メルヘン」。だから内装はピンクや白、水色など、淡い色を基調としている。
「貸してくれ」
「あ、うん。どうぞ」
風船の入った袋を差し出すと、市之瀬君はサッと一つ膨らませてくれた。
「あと何個作ればいい?」
「ええっと。とりあえず、十個」
「わかった」
私があんなに苦労していたのが嘘みたいに、市之瀬君はポンポンと風船を作り出す。まるで手品を見ているみたいだ。
あっという間に十個の風船が出来上がった。
「すごい……」
私が感嘆のため息を漏らすと、市之瀬は口のゴムを結びながら、涼しげな顔で答えた。
「お腹に力を入れるんだよ」
「う、うん」
頭ではわかっているんだけど、実践するのは難しいのだ。
――市之瀬君は男の子にしては華奢だけど、私なんかよりもずっと体力があるんだなあ。
おっと、感心している場合じゃない。私の仕事だというのに、全部彼にやらせてしまっていた。
「ごめんね、市之瀬君。自分の仕事だってあるのに」
「気にするな。もうすぐ終わるところだったし」
市之瀬君は集客用の看板を制作中だった。床に敷かれた新聞紙には、様々な色の絵の具が飛び散っている。
そういえば、彼はポスターのイラストも担当していた。入場門の制作も手伝っていたし、結構忙しかったんじゃないかな。
本人に尋ねてみると、「むしろ物足りないくらいだな」と返ってきた。
「せっかくだから部活の方でも何かやろうと提案したんだけど、コンクールが近いせいか皆乗り気じゃなくてさ。それなら俺一人でやってやる、と申請を出したんだが――」
そこで市之瀬君はしょんぼりと肩を落とす。
……またとんでもないことを言い出したんじゃなかろうか。
「何をやろうとしたの?」
「校舎の壁に絵を描こうと思ったんだ」
「へえ」
今までの奇行に比べたらまともだな、と流されそうになったが、よく考えたらとんでもない。
「実行委員の許可が下りなかったから、校長の元へ押しかけたんだ。でも、ダメだった。校長室出禁になった」
直談判しに行ったの!?
なんという勇気。少しくらい私にも分けてもらいたい。
市之瀬君はふてくされたように唇を尖らせる。
「これが某覆面アーティストなら、誰も文句を言わないのにな――あーあ。早く俺も、世界に名を轟かせる画家になりたいな」
「あの人だって本当は法に触れているんだよ。……ねえ、どうして校舎の壁に絵を描きたい、なんて思ったの?」
まあ、市之瀬君の自由な作風だと、キャンバスが手狭に感じるのかもしれないが。
私の問いに、市之瀬君は視線を落とす。顎に手を当て、考え込む。自分の頭の中にある答えを、必死に拾い集めているようだった。
少したってから、彼はゆっくりと顔を上げる。迷いの晴れた瞳で私を見つめた。
「そうだな――皆の心に俺という存在を刻みつけるため、かな」
「刻みつける?」
市之瀬君は頷く。
「たとえば美術館に、見る人を感動させる素晴らしい絵があったとする。でも、絵に全く興味のない人は、美術館に足を運ぼうとは思わないだろう? せっかくの名画なのに、それを知らない人がいるのはもったいないよな」
「うん、そうだね」
「だけど学校は違う。そこに通う生徒だけでなく、そばを通る人の目にも入る。毎日俺の絵を見たら、嫌でも記憶に残るだろう? 皆の心の中で俺は永遠に生き続けるんだ」
俺は歴史に名を残したい――どこか陶酔した表情で市之瀬君は語る。
自分の生きた証を残したい。
正直なところ、その感覚は私には理解できない。死んだ後の名声なんて意味がないとすら思う。
けれども、彼を否定する気にはなれなかった。
市之瀬君ならきっと、後世に名を残す画家になれるだろう。私はそう確信している。




