第29話 水族館編③ 市之瀬君とシロイルカ
館内に入ると、真っ先にシロイルカの水槽が目に入る。
この場所は私の一番のお気に入りだった。
本当はこの後に始まるショーが見たいけれど、口に出すのはためらわれる。安井以外の人間に自分の意見を言うのは苦手だし、他の二人にわがままな子だと思われたくなかった。
(とりあえず、あの子に挨拶しようかな)
私が水槽の前に立つと、一匹のシロイルカが近づいてくる。
この子は水族館のアイドル、ミーシャちゃんだ。大きな体がぼよんぼよんと揺れているのが愛らしい。
私がお辞儀をすると、ミーシャちゃんもおでこのメロンと呼ばれる部分をプルプルと震わせながら、首を上下させた。
「お、すごいな。イルカが挨拶しているのか」
「ひゃあっ! い、いいい市之瀬君!?」
「そんなに驚かなくても……」
いきなり隣に立つのは、心臓に悪いからやめてほしい。周囲に人がいなければ飛びのいていたと思う。
私はチラッと背後を振り返った。
意外にも、安井とマリアは楽しそうに会話している。……彼らの助けは期待できそうにない。
「なあ神崎。このイルカ、ずっと神崎の方を見ているな。仲良しなのか?」
「いや、別に」
「そうなんですよ! お嬢様はこの水族館の常連でして。いつもこの水槽前でたそがれていたものだから、イルカさんたちにも顔を覚えられてしまったんです。ね、お嬢様」
「ちょっと安井!」
ごまかそうとしていたのに、安井が勝手にばらしてしまった。マリアと話していたんじゃなかったのか。
もう、最悪。
確かに、私はよくこの水族館に来ている。だが、市之瀬君とマリアにはあえて黙っていた。
だって、
「あら、そうだったの? それなら別の場所にした方がよかったかしら」
このように、マリアたちに気を遣わせてしまう。
私はぶんぶんと首を横に振った。
「ううん、そんなことない! ここは何回来ても楽しいし、皆と出かけるのを楽しみにしていたよ」
「それならいいのだけれど」
マリアはほっとしたように微笑む。
私のような、何の面白みもない人間を誘ってくれるだけでもありがたいのだ。余計な心配はかけたくなかった。
「なるほど。神崎はイルカが好きなのか?」
市之瀬君が再び私に話しかけてくる。
「う、うん。まあ」
「他に好きな生き物は?」
「ええっと、シャチとかも好きかな」
私は水槽を眺めたまま答える。先程褒められたせいか、妙に顔を合わせるのが恥ずかしいのだ。
「そうか。動物が好きなやつに悪いやつはいないよな」
特に何もしていないのに、市之瀬君の中で私への好感度が上がったようだ。……今のやり取り、マリアに聞かれていないだろうか。
市之瀬君はシロイルカのことが気になるらしい。いつの間にか、おでこがくっつきそうになるほど水槽に顔を近づけている。
ミーシャちゃんもまた、市之瀬君を興味深そうに眺めていた。
ずっと見つめていると、ミーシャちゃんが口からバブルリングを吐き出した。頭上に放たれた輪っかの中を、彼女は器用に潜り抜ける。
「おい神崎! 見たか今の! すごいなぁ」
市之瀬君が声を弾ませる。こちらを振り返った彼の顔は、小さな子どものように輝いていた。
◇◇◇
そのままの流れで、シロイルカのショーを見ることになった。半ばあきらめかけていたのでうれしい。
しかも、一番水槽が良く見える真正面の席を確保できた。普段は目立たないよう後ろの方でひっそりしていたので、最前列は初めてだ。
シロイルカショーの一番の目玉は、ミーシャちゃんの「おしゃべり」だ。人間の話した言葉を、彼女が真似っこしてくれる。
『イルカさんとおしゃべりをしたいお友達は手をあげてくださーい』
進行役のスタッフが呼びかけると、子どもたちが元気よく主張を始める。
私の視界の端でも、スッと手をあげる者がいた。
「……」
見間違いかと思いつつも、ゆっくりと右隣へ視線を動かす。
――マジか。
市之瀬君だ。
小さな子どもたちの中に交じって、大きなお友達が堂々と手をあげていた。
当然のことながら、選ばれたのは5歳くらいの子どもである。
選ばれなかった市之瀬君は、本気で肩を落としていた。
――マジか……。
ショーが終わった後で、私はこそっと彼に耳打ちする。
「市之瀬君、市之瀬君。こういうのは普通、小さい子どもしか選ばれないんだよ」
「そんな馬鹿な……」
こう見ると、やっぱり市之瀬君って少し子どもっぽいよなあ。まあ、何事にも一生懸命に取り組んでいる証ともいえるけど。
励まそうとしているのか、安井が市之瀬君の肩をポンポンと叩く。
「そう落ち込まないでください! わたくしも手をあげたくてうずうずしていたんです。仲間がいて安心しました!」
「安井は黙ってて!」
いつもへらへらしている安井とは違い、市之瀬君は繊細なのだ。




