第25話 壁ドン
「重ぉ……」
私は今、数学のノートを職員室に運んでいる最中だった。クラスメイト三十人分の重みが私の腕にのしかかる。
まったく原先生ときたら、頼みやすいのかなんだか知らないが、私にばかり雑用を押し付けてくる。物語の中のお嬢様は、箸よりも重いものを持ったことがない人ばかりだというのに。
……いつもより職員室が遠く感じる。
ふらふらしながら歩いていると、うっかり誰かとぶつかってしまった。ノートの山が崩れる。
あ、と思った時にはもう遅かった。
ドサドサ。
床に落ちた衝撃で、ノートが廊下に散乱してしまった。
「あーあ、最悪……」
わたわたとノートを拾い集めていると、無言で手伝ってくれる人がいた。
もしかして、神様?
上目遣いで確認すると、それは私がよく知っている人だった。
「……巴君?」
「はい、おれです」
呆気に取られている様子の私を見て、巴君は訝しげな表情になった。
「ずいぶんと意外そうな顔をしていますね」
「いや、優しいなって思って」
「おれはいつだってセンパイには優しいですよね?」
そうだったかな……。
私がぼーっとしている間に、巴君はノートを集め終えていた。すでに私が持っていた分まで回収される。
「あ、ちょっと」
「おれが持ちます」
慌てて取り返そうとしたが、巴君はすたすたと先に歩き出してしまう。
「そんなの悪いよ」
「おれがやりたくてやっているんだから、大丈夫だよ――あんた一人に重いものを持たせるだなんて、センパイのクラスのやつら、カスっすね」
何もそこまで言わなくても。
巴君の目には私がか弱い少女に見えているのだろうか。それこそ「箸よりも重いものを持ったことがないお嬢様」みたいな。
「市之瀬ってやつはどうしたんです?」
「その時はちょうど教室にいなかったんだよ」
「はあ? 肝心な時に頼りにならないんだな」
けっ、と吐き捨てる巴君。
確かに、市之瀬君がその場にいれば、喜んで私のことを手伝ってくれたと思う。
だけど、
「私は市之瀬君に負担をかけたくないの」
「……」
面倒だとはいえ、これは私に任された仕事だから。
それ以降、巴君はすっかり黙り込んでしまった。
◇◇◇
原先生の元へ無事ノートを送り届ける。
「手伝ってくれてありがとうね、巴君」
「……ええ」
職員室を出てからも、巴君はまだむすっとしていた。
このまま解散してもいいのだろうか。私の教室、別方向なんだけど……。
「ねえセンパイ」
ふと、巴君が足を止める。彼の背中に衝突しそうになり、私はつんのめった。
「何?」
巴君は答えない。
彼の表情に鬼気迫るものを感じた私は、思わず後ずさる。しかし、私が一歩下がるたびに彼も一歩距離を詰めてくる。
あっという間に私は壁際に追い詰められてしまった。
眼前に迫る彼の顔。そして、彼の手が壁に叩きつけられる。
ドンッ。
突然の出来事に、私の体は動かなくなってしまう。
一方で、脳は冷静に状況を分析しようとしていた。
――なるほど、これが壁ドンか。
巴君は初めて会った時と同じ、暗い瞳で私を睨んでいた。
前髪が目にかかっているせいか、表情もいつもより暗く感じる。必死に怒りを押し殺そうとしている、そんな風に見えた。
えっ、もしかして殴られたりする?
「そんなにあの男がいいのかよ」
「……はい?」
どこか子どもっぽい、すねたような口調の巴君。
ぎゅっと目をつぶって衝撃に備えていた私は、彼の言葉に拍子抜けした。言っている意味もよくわからない。
「あの男って……?」
「市之瀬だよ、市之瀬。センパイはあいつのどこがいいんだよ。変人だし、体育祭でずっこけるくらいどんくさいし、肝心な時にいなくて頼りならないし。あいつに比べたら、おれの方がずっと!」
「ちょ、ちょっと待って!」
私は巴君の胸を押す。
「私が市之瀬君のことを好きだと思っているの? 前にも言ったけど、誤解だって。彼とは本当に何もなくて――」
「おい、何をしている!!」
その時、鼓膜が破れんばかりの怒声が廊下に響き渡った。
声がした方へ視線を向けると、市之瀬君が突進してくるところだった。
「げ、なんでここに」
市之瀬君は巴君を力いっぱい突き飛ばした。
「あいてて……てめえ、何しやがる」
油断していたのか、派手に尻もちをつく巴君。
そんな彼を、市之瀬君は軽蔑のまなざしで見下ろした。
「お前こそ、神崎に何をしようとしていた」
「何って……ちょっとお話していただけですけど。ね、センパイ」
巴君が同意を求めようとしてくるが、市之瀬君が私を庇うように立ちふさがる。
「嘘をつくな。神崎は怯えているじゃないか」
市之瀬君に言われて初めて、私は自分の足が震えていることに気がついた。
……そうか。私、怖かったんだ。
少女漫画にありがちなシチュエーション、壁ドン。けれども、現実では恐怖の対象でしかないのだ。
――また、助けられちゃったな。
優しくて、いつも私のことを気にかけてくれる市之瀬君。
彼は私の元にわざわざ駆けつけてくれるし、私のために怒ってくれる。
……こんなの、勘違いしてもおかしくはない。
二人の男の間で、じりじりと睨み合いが続く。
先に音を上げたのは巴君の方だった。わざとらしいため息をつき、肩をすくめる。
「はいはい、すみませんでした。邪魔者は消えますよ」
巴君は立ち上がると、ズボンについた埃を払う。
彼は去り際に捨て台詞を残した。
「だけどおれ、あきらめたわけじゃないから。そこは覚えといてくださいよ」
執念のこもった、危険な臭いのする言葉。それを市之瀬君は、シッシッと手を振って追い払った。
……念のため、後で巴君にもフォローを入れておこう。
巴君の後ろ姿が見えなくなるのを確認し、市之瀬君は振り返った。
「まったくあいつときたら、最後の最後まで――大丈夫か神崎」
「う、うん。ありがとう」
市之瀬君が私の顔をのぞき込む。その表情はどこか不安げで、私への気遣いにあふれていた。
……市之瀬君が頼りないなんて、全くの嘘っぱちだ。
だって、彼の顔を見たらこんなにも安心できるんだから。




