第九話 住所のない人間
今回は、叔父が残した住所をたどり、主人公は新たな記録と出会います。
公的な記録から消された人々。そして、父親の過去に隠された秘密。
少しずつつながり始めた謎を、ぜひ最後までお楽しみください。
住所というものは、不思議なものだ。
人間が住んでいる場所を示すためのものなのに、住所さえあれば、そこに人間がいると信じられる。
逆に言えば、住所がなければ、人間が存在していても、いないことにできる。
東邦の行政機関がどこまで合理的に考えているのかは知らない。
ただ、少なくとも、住所というものを考えた人間は、ずいぶんと事務処理に向いた発想をしたらしい。
僕は叔父の手紙に書かれた住所を、スマートフォンの地図アプリに入力した。
検索結果は表示されなかった。
番地を間違えたのかと思い、もう一度確認した。町名も、丁目も、番地も、間違いない。
それでも、地図は何も表示しなかった。
仕方なく、町名だけで検索してみた。
すると、今度は地図が表示された。
ただし、叔父の書いた番地の周辺には、妙な空白があった。
道路は続いている。隣接する建物も表示されている。
ところが、ある区画だけ、建物の名前も住所も記されていないのだ。
地図の表示ミスだろうか。
そう考えるのが普通だ。
僕はその普通の考え方を、もうあまり信用していなかった。
翌日の午後、僕はその場所へ向かった。
町の中心部から少し離れた住宅街だった。
商店街には閉店した店がいくつかあり、古い看板だけが残っている。
歩道の隅には、誰が置いたのかわからない植木鉢が並んでいた。
特別な場所には見えなかった。
むしろ、どこにでもある町だった。
こういう場所に秘密が隠されていると、物語ではよく言う。
現実でも同じなのかもしれない。
ただし、現実の秘密は、たいてい物語ほど親切に目印を置いてくれない。
僕は地図を見ながら、目的の区画にたどり着いた。
そこには、古い建物があった。
二階建ての小さな家で、外壁はところどころ色あせていた。
門扉には錆が浮き、庭の雑草は伸び放題になっている。
しかし、完全な空き家という感じでもなかった。
玄関の脇に、小さな鉢植えが置かれている。
その土は、まだ湿っていた。
僕は門の前で立ち止まった。
叔父の手紙に書かれた住所と一致する。
なのに、地図には表示されない。
それどころか、郵便受けには住所を示す数字すらなかった。
門扉を押した。
鍵はかかっていなかった。
敷地に入ると、砂利が小さく音を立てた。
「すみません」
返事はない。
もう一度呼びかけたが、やはり何も聞こえなかった。
玄関の戸には鍵がかかっていた。
僕は引き返そうとした。
そのとき、背後から声がした。
「誰を探している?」
振り返ると、年配の男性が立っていた。
灰色の上着を着て、片手に買い物袋を提げている。近所の住人だろうか。
僕は少し迷ってから、答えた。
「黒田誠一という人を探しています」
男性の表情が変わった。
驚いたようにも見えたし、怒ったようにも見えた。
ただ、どちらも一瞬のことだった。
「そんな人間はいない」
男性は即座に答えた。
「この家に住んでいた人なんですが」
「知らないな」
「昔から、この住所をご存じですか?」
「知らないと言っているだろう」
男性は買い物袋を持ち直し、歩き去ろうとした。
最後に、一つだけ尋ねた。
「では、どうしてこの家には住所がないんですか?」
男性の足が止まった。
しばらくして、彼は振り返った。
「……君は、何も知らないんだな」
その声には、先ほどまでの怒りとは違うものが混じっていた。
疲労。
諦め。
あるいは、長い間、誰にも言えなかったことを抱えている人間の声だった。
「帰りなさい」
「何か知っているんですか?」
「帰りなさい」
「黒田誠一は、本当に死んだんですか?」
男性は答えなかった。
だが、その沈黙だけで、僕には十分だった。
男性は、家の隣にある小さな物置へ僕を案内した。
周囲を何度も確認してから、扉を開ける。
中には、古い段ボール箱が積み重なっていた。
箱には、年月日らしい数字が書かれている。
そのほとんどは、二十年以上前のものだった。
「ここにあるのは、昔の記録だ」
男性は言った。
「何の記録ですか?」
「この町に住んでいた人間の記録だよ」
箱を見た。
「住民台帳ですか?」
「似たようなものだ。だが、役所のものじゃない」
「では、誰が作ったんですか?」
「消された人間たちだ」
僕は男性を見た。
彼は段ボール箱の一つを取り出し、床に置いた。
「ある日、隣人がいなくなる。翌日には、その家が空き家として登録される。さらに数日たつと、その人間の名前が住民記録から消える」
「失踪したということですか?」
「最初は、みんなそう思った」
男性は箱の蓋を開けた。
中には、紙の束が入っていた。
手書きの名簿。
古い写真。
住所を記したメモ。
どれも、何度も読み返されたように傷んでいた。
「だが、おかしいんだ。消えた人間たちには、共通点があった」
「共通点?」
「みんな、何かを知っていた」
男性は、一枚の写真を取り出した。
写真には、数人の男女が並んで写っていた。
その後ろには、見覚えのある風景があった。
工事現場。
そして、建設途中の橋。
東邦中央大橋だった。
「この人たちは?」
「当時の工事関係者だ。作業員、技術者、記者。それから、工事に疑問を持った人間もいた」
僕は写真を受け取った。
写真の裏には、名前が書かれていた。
その中に、黒田誠一の文字があった。
さらに、その下には別の名前が記されている。
僕は目を凝らした。
それは、父の名前だった。
「……どういうことですか?」
男性は、僕の顔を見た。
「君の父親は、橋の建設に関わっていた」
「父は、普通の会社員だったはずです」
「そう記録されているんだろう」
また、それだ。
そう記録されている。
この国では、事実を説明するために記録があるはずなのに、いつの間にか記録そのものが事実になっている。
写真を握りしめた。
「父は、何を知っていたんですか?」
「それは、私にもわからない」
「では、どうして名前がここに?」
「黒田さんが残したからだ」
男性は別の紙を取り出した。
そこには、短い文章が書かれていた。
『記録を消された者は、最初から存在しなかったことになる。
しかし、存在しなかった人間が、何かを残すことはできる』
叔父の筆跡だった。
僕は何度もその文章を読んだ。
消された人間。
存在しなかったことにされた人間。
そして、何かを残した人間。
橋の記録も、叔父の死も、僕の出生記録も、すべてが同じ仕組みの中にあるのだろうか。
男性は箱の中を探り、薄い封筒を一つ取り出した。
「これは、君に渡すように言われていた」
「誰に?」
「黒田さんに」
僕は封筒を受け取った。
表には、僕の名前が書かれていた。
その下には、日付が記されている。
五年前。
叔父の葬式の日だった。
封筒を開けると、一枚の紙が入っていた。
そこには、叔父の筆跡でこう書かれていた。
『もし、この手紙を読んでいるなら、私はすでに死んだことになっているだろう』
息を止めた。
『君が何を覚えているのか、私にはわからない。だが、記録と記憶が食い違ったとき、どちらか一方を簡単に捨ててはいけない』
『記録は証拠になる。しかし、記録そのものが誰かの手によって作られたものなら、それは証拠ではなく、ただの主張だ』
そこまでは、これまでの叔父の言葉と同じだった。
だが、次の一文は違った。
『君の父親は、橋の建設を止めようとした』
顔を上げた。
男性は黙っていた。
再び手紙に目を落とした。
『彼は、橋が完成していないことを知っていた。それだけではない。工事が行われていない期間にも、工事費が支出されていることを突き止めた』
『その事実を公表すれば、橋の建設計画だけでなく、国の評価制度そのものが崩れる可能性があった』
『だから、彼は記録から消された』
紙を持つ手に力が入った。
父が記録から消された。
だが、今も生きている。
少なくとも、僕はそう思っている。
「父は、今も生きています」
僕は男性に言った。
「そうか」
「どういう意味ですか?」
「私は、君の父親がどうなったのか知らない」
「でも、叔父は父が消されたと書いている」
「記録から、という意味だろう」
男性はそう言って、箱の中の名簿を指した。
そこには、何人もの名前が並んでいた。
名前の横には、日付や住所、短い備考が記されている。
そして、多くの名前には、同じ文字が添えられていた。
『記録なし』
名前はある。
写真もある。
住所も、当時の生活の痕跡も残っている。
それなのに、記録がない。
いや、正確には、記録がないという記録だけが残っている。
僕は、ある一つの名前に目を留めた。
黒田誠一。
その横には、五年前の日付が書かれていた。
さらに、その下に、小さな文字があった。
『死亡処理済』
男性に尋ねた。
「この記録は、誰が作ったんですか?」
「私たちだ」
「あなたたち?」
「記録を消された人間の家族や、友人だよ。役所から消されたなら、自分たちで残すしかない」
男性は、箱を閉じた。
「ただし、ここにあるものが全部正しいとは限らない。記憶違いもあるし、書き間違いもある。私たちだって、すべてを知っているわけじゃない」
その言葉は、妙に誠実だった。
彼は自分たちの記録を絶対視していなかった。
公的な記録が正しいとは限らない。
だが、それは、個人の記録が必ず正しいという意味でもない。
疑うべきなのは、記録の出どころだけではない。
記録が、どのように作られ、何を根拠にしているのか。
そして、何が書かれていないのか。
叔父の手紙を封筒に戻した。
「この場所は、どうして地図に載っていないんですか?」
男性は、少しだけ笑った。
「住所がなければ、ここに人が住んでいると証明できない。人が住んでいると証明できなければ、行政上は管理する必要もなくなる」
「そんなことが、本当にできるんですか?」
「一度に全部を消す必要はないんだよ」
男性は、ゆっくりと言った。
「住所を変える。記録を移す。古い資料を廃棄する。担当部署を変える。
問い合わせには、確認中と答える。そうやって少しずつ処理すれば、最後には誰も全体を知らなくなる」
僕は黙って聞いていた。
それは、巨大な陰謀というより、ひどく退屈な事務処理の積み重ねに聞こえた。
誰かが悪意を持って始めたことなのかもしれない。
あるいは、最初は小さな不正を隠すためだったのかもしれない。
しかし、一度それが制度の中に組み込まれれば、あとは誰も責任を取らずに済む。
前任者の判断に従っただけ。
規則に従っただけ。
自分の担当範囲ではない。
そうして、誰も全体を知らないまま、全体が動いていく。
なんとも効率的な仕組みだった。
失敗を隠すために作られた制度が、失敗を隠すことに成功する。
その成功によって、さらに制度が強化される。
そして最後には、制度そのものが何を隠していたのかさえ、誰も覚えていない。
優秀な人間たちが、優秀であることを証明し続けた結果なのだろう。
叔父の残した記録を見つめた。
ここにある名前は、どれも消された人間のものだ。
しかし、消されたことを証明するためには、彼らが存在していたという記録が必要になる。
存在しなかったことを証明するために、存在していたことを証明しなければならない。
この国の行政は、ずいぶんと哲学的な問題を国民に押しつけてくれる。
物置を出る前に、男性に尋ねた。
「この家には、今も誰かが住んでいるんですか?」
男性は答えなかった。
代わりに、玄関のほうを見た。
「君は、さっき誰を探していると言った?」
「黒田誠一です」
「そうか」
男性は小さくうなずいた。
「なら、もう一つだけ教えておこう」
「何ですか?」
「黒田さんは、君がここへ来ることを予想していた」
僕は目を見開いた。
「どうして、そんなことがわかるんですか?」
「君の名前が書かれた封筒が、五年前からここにあったからだ」
五年前。
叔父の葬式の日。
僕がまだ十二歳だった頃。
その時点で、叔父は僕がいつかここへ来ることを予想していた。
いや、予想していたというより、僕がここへ来るように仕組んでいたのだろうか。
男性は僕を門の外まで見送った。
「もう来ないほうがいい」
「どうしてですか?」
「君が何を調べているのか、誰かが気づき始めている」
昨日の電話を思い出した。
『黒田誠一の資料を、どこで手に入れた?』
そして、最後の言葉。
『君が持っているものは、君のものではない』
「もう、気づかれているんじゃないですか?」
そう言うと、男性は少しだけ目を細めた。
「そうだな」
否定しなかった。
「だったら、どうして僕に記録を見せたんですか?」
「君が知るべきことだからだ」
「それだけですか?」
「それだけだよ」
男性は門を閉じた。
僕は振り返らずに歩き出した。
手元には、叔父の手紙と、父の名前が載った写真がある。
新たにわかったことは多い。
しかし、確かな答えはほとんどなかった。
父は何を知っていたのか。
叔父は、なぜ僕に手紙を残したのか。
そして、僕が生まれる前の新聞に写っていた子供は、本当に僕なのか。
そもそも、僕が自分のことを僕だと認識している、その根拠は何なのだろう。
出生記録。
学校の記録。
家族の記憶。
古い写真。
それらがすべて正しいと、僕はどうやって証明できるのだろう。
証明するために別の記録を使えば、その記録が正しいことも証明しなければならない。
その証明にも、また別の記録が必要になる。
考え始めると、きりがなかった。
ただ一つ、はっきりしていることがある。
僕はもう、古新聞を読む前の自分には戻れない。
帰宅すると、郵便受けに封筒が入っていた。
差出人の名前はない。
封筒を開けると、中には一枚の紙が入っていた。
印刷された文字は、たった一行だった。
『黒田誠一に関する調査は、すでに終了しています』
その下には、問い合わせ先として役所の部署名が記されていた。
僕は、その部署名を見た。
そして、思わず笑いそうになった。
そこは、昨日、僕の記録を確認できないと言った部署だった。
調査は終了している。
だが、僕はまだ何も調査してもらっていない。
そもそも、何の調査が終了したのかも書かれていない。
これでは、調査の終了を報告するための調査が必要になりそうだ。
もっとも、そんな調査を始めたら、今度はその調査の進捗状況を報告する必要がある。
報告書を提出すれば、実績になる。
実績になれば、評価される。
評価されれば、誰かが優秀になる。
その頃には、最初の問題が何だったのかなど、誰も覚えていない。
封筒を机に置いた。
そして、叔父の手紙をもう一度開いた。
最後のページには、これまで気づかなかった文章が残っていた。
鉛筆で書かれた、ごく短い一文。
『私を探すな。父親を探せ』
僕は、しばらくその文字を見つめていた。
叔父は、僕に何を伝えようとしているのだろう。
父は本当に、橋の建設を止めようとしたのか。
それとも、橋そのものが、僕の知っているものとは違う存在なのか。
僕はノートを開いた。
そして、次に調べるべきことを書き込んだ。
父親の過去。
東邦中央大橋の建設記録。
そして、僕が生まれる前の写真。
三つの項目を線で結んだ。
線の交点には、まだ何も書かれていない。
ただ、そこに何かがあることだけは、もう疑いようがなかった。
その夜、僕は夢を見た。
夢の中で、僕は古い新聞を読んでいた。
紙面には、東邦中央大橋の完成を祝う記事が載っていた。
記事の下には、首相の写真。
その隣には、工事関係者たちの集合写真。
そして、一番端に、僕の父親が立っていた。
父はカメラを見ていなかった。
まっすぐ、こちらを見ていた。
まるで、新聞を読む僕の存在を知っているかのように。
目が覚めたとき、机の上のスマートフォンが光っていた。
新着メッセージが一件。
送り主は、登録されていない番号だった。
本文には、こう書かれていた。
『君の父親は、まだ生きている』
その下に、もう一行。
『ただし、君の知っている父親とは限らない』
第9話を読んでいただき、ありがとうございます!
今回は、記録から消された人々の存在と、主人公の父親が東邦中央大橋の建設に関わっていたことが明らかになりました。
記録に残っていない人間は、本当に存在しなかったことになるのでしょうか。
そして、最後に届いたメッセージが意味するものとは……。
次回も、東邦という国に隠された謎を追っていきます。
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