第八話 存在しない記録
今回は、主人公自身の過去に、さらなる矛盾が見つかります。
古新聞に写っていた、存在するはずのない自分の姿。そして、叔父が残した手紙の意味とは……。
ぜひ最後までお楽しみください。
人間の過去というものは、本人の頭の中にあるものだと思っていた。
少なくとも、昨日までは。
しかし、どうやら違うらしい。
この国では、過去というものは役所の書類棚に保管されている。
本人の記憶と書類の内容が食い違った場合、どちらが正しいのかを決めるのは本人ではない。
書類のほうである。
なんとも便利な仕組みだ。記憶違いをしている人間が一人いるだけなら、その人間が間違っていると考えればいい。
国中の記録が間違っている場合は、国民全員に記憶違いをしてもらえばいい。
もっとも、そんなことを本当に実行している国があるなら、ずいぶんと先進的な行政技術を持っていることになる。
東邦は、そういう意味では世界の最先端を走っているのかもしれない。
僕は机の上に広げた叔父の手紙を見つめた。
黒田誠一。
新聞記者だった僕の叔父は、五年前に死んだ。
少なくとも、死亡届にはそう書かれている。
そして、二十四年前の東邦中央大橋の建設現場に、叔父は確かにいた。
僕の記憶が正しければ、だが。
問題は、僕の記憶が正しいと証明するものが、どこにも見つからないことだった。
いや、正確に言えば、見つからないようになっているのかもしれない。
僕は手紙を裏返した。
表には、叔父の筆跡で短い文章が書かれていた。
『記録を調べるなら、まず自分の記録を調べろ』
何度読んでも、嫌な文章だった。
他人の秘密を暴こうとしていたら、自分の秘密を先に見つけてしまった。探偵小説なら、主人公が事件に巻き込まれる前兆として、なかなかよくできている。
ただし、僕は探偵ではない。
古新聞を読むのが好きなだけの高校生だ。
できれば、謎解きは紙の上だけで完結してほしい。
しかし、世の中は趣味の範囲を尊重してくれるほど親切ではなかった。
翌日、僕は市立図書館へ向かった。
目的は、過去の新聞ではない。
住民記録だった。
もちろん、他人の個人情報を勝手に閲覧できるわけではない。だが、自分自身の記録について確認する方法くらいはある。
窓口で事情を説明すると、職員は丁寧な笑顔を浮かべた。
「ご自身の記録についてですね。それでしたら、こちらの申請書にご記入ください」
渡された用紙には、氏名、生年月日、住所、申請理由などを書く欄があった。
申請理由の選択肢は、実に豊富だった。
証明書の発行。
住所の確認。
各種手続き。
その他。
どうやら、国家の記録に疑いを持つことは、想定されていないらしい。
僕は仕方なく「その他」に丸をつけた。
理由を書く欄には、少し考えてから、こう記入した。
『自己の記録の確認』
嘘ではない。
ただ、理由の九割くらいが省略されているだけだ。
申請書を受け取った職員は、端末を操作した。
数秒後、彼女の指が止まった。
「……少々お待ちください」
声の調子は変わらなかった。
だが、画面を見る目が変わった。
ほんの一瞬だった。普通の人間なら見逃していたかもしれない。
僕は古新聞を読む人間である。
紙面の隅に小さく載った訂正記事を探すのと同じ要領で、人間の表情に現れる小さな変化も、つい探してしまう。
職員は別の画面を開き、何かを確認した。それから、もう一度僕を見た。
「申し訳ありません。こちらの記録は、窓口ではすぐに確認できない状態になっております」
「確認できない、というのは?」
「担当部署での確認が必要という意味です」
「記録そのものは存在するんですか?」
職員は答えなかった。
いや、答えなかったというより、答えられなかったのかもしれない。
「通常、記録があれば、ここで確認できるんですよね」
「通常は、そうです」
「では、僕の記録は通常ではない、と」
「そういう意味ではございません」
なるほど。
否定の言葉を使いながら、否定したい内容には一切触れない。役所の窓口というものは、文章の読解力を鍛えるには最高の場所らしい。
「担当部署から連絡が来るまで、お待ちいただけますか」
「どのくらいですか?」
「確認でき次第、ご連絡いたします」
具体的な期限は、どこにも存在しなかった。
僕は申請書の控えを受け取り、図書館を出た。
空は晴れていた。
東邦中央大橋の完成を祝う記念切手が発売された日も、こんな空だったのだろうか。
もちろん、橋は存在しない。
それでも、切手は発売された。
記念すべき出来事が実際に起こったかどうかは、記念する側にとって、それほど重要ではないのかもしれない。
帰宅すると、古新聞の束を引っ張り出した。
調べるべきものは、出生記録だけではない。
叔父の退職記事。
橋の完成記事。
そして、僕が二十四年前の建設現場にいたという、あり得ない記憶。
この三つを結びつける何かがあるはずだった。
新聞の日付を順番に並べた。
まず、二十四年前の建設計画発表。
その数か月後、着工。
さらに数年後、完成。
そして、別の年代に再び着工し、再び完成。
以前は、これらの矛盾を見つけるたびに、行政の無能さを疑っていた。
だが、今は違う。
もし記録の改ざんが意図的なものなら、これらは失敗ではない。
何かを隠すために作られた、痕跡なのだ。
二十四年前の新聞を一枚ずつ確認した。
橋の建設現場を写した写真。
工事関係者の集合写真。
完成予想図。
工事の進捗状況を報告する記事。
どれも、当時の新聞としては不自然なほど情報が少なかった。
写真には人間が写っているのに、名前がない。
工事関係者の集合写真には、役職だけが記され、個人名がほとんど掲載されていない。
そして、ある記事には、こんな一文があった。
『現場関係者の協力により、予定どおり工事が進められている』
誰が協力したのか。
何人が働いていたのか。
どのような工事が行われていたのか。
何ひとつ書かれていない。
文章としては成立している。
情報としては、ほぼ空っぽだった。
写真を拡大するように、顔の部分をじっと見つめた。
そこに、見覚えのある顔があった。
叔父だった。
若い頃の叔父が、作業員たちの後方に立っている。
新聞記者だったのだから、現場にいても不思議ではない。
問題は、その隣だった。
小さな子供が一人、叔父の手を握っている。
顔は鮮明ではない。
それでも、僕にはわかった。
僕だ。
あの日、迷子になった僕を叔父が見つけてくれた。
その記憶だけは、今もはっきり残っている。
だが、写真の隅に印刷された日付は、僕が生まれるよりもずっと前だった。
僕は新聞を机に置いた。
しばらく、何も考えられなかった。
いや、考えることはできた。
ただ、考えた結果を認めたくなかったのだ。
写真が偽物なのか。
日付が偽物なのか。
それとも、僕の記憶が偽物なのか。
どれか一つを選べば、話は簡単になる。
しかし、これまでの調査で学んだことがある。
東邦では、簡単な説明ほど疑わしい。
写真の裏を確認した。
古新聞に書き込みはなかった。
その代わり、写真の下に印刷された小さな管理番号が目に入った。
新聞社の資料整理番号だろうか。
番号をノートに書き写した。
そして、これまで調べた新聞の番号と比較した。
数分後、奇妙な一致に気づいた。
橋の完成を報じた新聞。
着工を報じた新聞。
計画の見直しを報じた新聞。
それぞれの記事に添えられた写真の管理番号が、ある範囲に集中していた。
ところが、その番号の前後に当たる資料は、新聞社の保存目録から消えていた。
資料が失われたのか。
整理の際に誤って廃棄されたのか。
それとも、最初から存在しなかったことになっているのか。
僕はノートに書いた。
『橋の記録は、橋そのものを隠すためではない』
その下に、続けて書く。
『何を隠すためなのか?』
答えは、まだわからない。
ただ、叔父が僕に残した手紙の意味は、少しだけわかった気がした。
記録を調べるなら、まず自分の記録を調べろ。
叔父は、僕がこの写真を見つけることを予想していたのだろうか。
それとも、僕自身が写真の中にいることまで知っていたのだろうか。
考えれば考えるほど、疑問が増えていく。
謎が解けるというのは、答えが増えることではない。
正しい問いが増えることなのかもしれない。
もっとも、問いばかり増えて答えが一つも出ないのなら、それはただの迷子である。
僕は写真をもう一度見た。
叔父の隣に立つ、小さな僕。
そして、その写真が掲載された新聞の日付。
僕は自分の出生記録を確認するために役所へ行った。
しかし、そこで確認できなかったのは、僕の出生記録だけではなかった。
僕が生まれる前の新聞に、僕が写っている。
それだけでも十分に異常だ。
だが、もっと気になることがあった。
写真の下に、誰かが小さく書き込んだような文字が印刷されていたのだ。
記事の本文にも、写真の説明にも、その文字は載っていない。
まるで、見つける人間だけが見つければいいと言わんばかりに。
虫眼鏡を取り出し、文字を読み取った。
そこには、こう書かれていた。
『対象者二名。記録処理、完了』
僕は息を止めた。
二名。
叔父と、僕。
その瞬間、机の上でスマートフォンが震えた。
画面には、見知らぬ番号からの着信が表示されていた。
僕は数秒迷ってから、通話ボタンを押した。
「もしもし」
返事はなかった。
ただ、かすかな紙の擦れる音が聞こえた。
そして、男の声がした。
『黒田誠一の資料を、どこで手に入れた?』
僕は答えなかった。
男は続けた。
『君が持っているものは、君のものではない』
通話が切れた。
僕はスマートフォンを見つめた。
窓の外では、いつもどおり人々が歩いていた。
誰もが自分の名前を持ち、自分の過去を持ち、自分の人生を生きていると信じている。
だが、もしそのすべてが、誰かの書類一枚で変更できるのだとしたら。
僕たちは、自分の人生の主人公ですらないのかもしれない。
僕はノートを開き、最後に一行を書き足した。
『記録を管理している人間は、誰に管理されている?』
その答えを知るためには、もう一度、過去を調べる必要がある。
ただし、今度は新聞だけでは足りない。
僕は叔父の手紙を封筒に戻した。
封筒の裏には、これまで気づかなかった小さな文字があった。
薄く、かすれた筆跡。
そこには、住所が一つだけ記されていた。
そして、その住所の横に、叔父の文字でこう書かれていた。
『まだ、ここにいる。』
第8話を読んでいただき、ありがとうございます!
今回は、主人公自身の記録にも疑わしい点があることが明らかになりました。
記録の上では存在しない橋。過去の新聞に写る主人公。そして、謎の人物からの電話。
東邦という国では、一体何が隠されているのでしょうか。
次回も、少しずつ明らかになる謎をお楽しみいただければ幸いです。
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それでは、次回もよろしくお願いします!




