第十話 生存確認
今回は、主人公が父親の過去を調べ始めます。
二十四年前の内部資料に記された不正の痕跡。そして、父親が隠していることとは……。
少しずつ明らかになる謎を、ぜひ最後までお楽しみください。
『君の父親は、まだ生きている』
その文章を、僕は朝までに二十七回読み返した。
二十七回という数字に特別な意味はない。二十六回目で理解できず、二十八回目まで読む気力がなかった。それだけの話だ。
ただ、何度読み返しても、文章の意味は変わらなかった。
父は生きている。
しかし、僕の知っている父親とは限らない。
この二つの文章を並べた人間は、ずいぶんと意地の悪い性格をしているらしい。
希望を与えた直後に、その希望が何を意味するのかを疑わせる。
まるで、国民幸福度を向上させるために幸福度調査を実施し、その結果が悪かったので調査方法を変更するようなやり方だ。
もっとも、僕はまだ、そのメッセージが本物だと確認したわけではない。
送り主は不明。
電話番号にも心当たりはない。
父親が生きているという証拠は、文章が一つあるだけだ。
文章があることと、その内容が真実であることは別問題である。
古新聞を読むようになってから、その違いを嫌というほど学んだ。
だからこそ、今回も同じように調べることにした。
まずは、父親の記録から。
朝食を終えた僕は、父親の部屋に入った。
父は家にいる。
少なくとも、現在の父は、いつもどおり仕事に出かけ、いつもどおり帰宅する人間だ。
僕が調べたいのは、その父親がどのような過去を持っているのか、ということだった。
これまで、父の仕事について深く尋ねたことはない。
普通の会社員。
それが、僕の知っている父親だった。
どこの会社で働いているのか。
どんな仕事をしているのか。
そういったことは知っている。
しかし、二十四年前の橋の建設現場にいた理由となると、まったくわからない。
父は当時、今よりずっと若かったはずだ。
建設関係の仕事をしていたのだろうか。
それとも、別の理由で現場にいたのだろうか。
僕は棚を調べた。
古いアルバムが何冊か並んでいた。
家族旅行の写真。
入学式の写真。
僕が小さかった頃の写真。
どれも、特別なものではない。
しかし、写真をめくるうちに、一つの違和感に気づいた。
父の若い頃の写真が、ほとんどなかったのだ。
母の学生時代の写真はある。
親戚の集まりの写真もある。
ところが、父の学生時代から就職するまでの写真だけが、妙に少なかった。
もちろん、写真が少ないからといって、何かを隠しているとは限らない。
単に写真を撮る習慣がなかっただけかもしれない。
僕はアルバムを閉じた。
疑うことと、決めつけることは違う。
この二つを混同すれば、僕もまた、自分の都合のいい記録だけを信じることになる。
棚の奥には、古い書類の入った箱があった。
僕は箱を机の上に置き、蓋を開けた。
中には、保証書や契約書、古い給与明細などが入っていた。
その中から、一冊の薄いファイルを見つけた。
表紙には、こう書かれていた。
『東邦中央大橋関係資料』
しばらく、その文字を見つめた。
父は、これを捨てずに持っていた。
しかも、家族の写真や日用品とは別の場所に、わざわざ保管していた。
僕はファイルを開いた。
最初のページには、公共事業に関する説明資料が挟まれていた。
事業名、実施主体、予算額、予定工期。
見覚えのある数字が並んでいる。
総事業費、八百億円。
東邦中央大橋。
ページをめくった。
次の資料には、工事の進捗状況が記されていた。
さらに次のページには、事業評価の結果があった。
そして、その次のページには、見覚えのない文書が挟まれていた。
『事業実施状況に関する内部報告』
その下に、小さく日付が書かれていた。
二十四年前。
文書を読み始めた。
内容は、驚くほど簡潔だった。
橋の建設予定地において、工事の実施状況と報告内容に重大な不一致が確認された。
現地調査を行った結果、報告書に記載された工事の一部について、実施を確認できなかった。
しかし、事業評価上は、当該工事が完了したものとして処理されていた。
僕は、思わず文書を読み返した。
これは、単なる予算の使いすぎや工事の遅延ではない。
実際には行われていない工事が、行われたことになっていたのだ。
そして、その記録を確認した人間がいた。
文書の末尾には、担当者の署名欄があった。
そこに、父の名前が記されていた。
文書を机の上に置いた。
父は、二十四年前の時点で、橋の建設記録に不一致があることを知っていた。
叔父の手紙に書かれていた内容と一致する。
父は、橋が完成していないことを知っていた。
そして、工事が行われていない期間にも、工事費が支出されていることを突き止めた。
叔父の言葉が、現実の資料によって裏づけられたのだ。
だが、問題はここからだった。
なぜ、父はこの資料を保管していたのか。
なぜ、今まで僕に何も話さなかったのか。
そして、なぜ父は、現在も普通の会社員として生活しているのか。
僕は文書の末尾をもう一度確認した。
署名の下に、別の印が押されていた。
『調査終了』
その横には、手書きの文字がある。
『原本は別途保管』
原本。
では、今、僕の手元にあるのは何なのだろう。
複製なのか。
それとも、原本の一部なのか。
資料を裏返した。
裏面には、鉛筆で書かれた短い文章が残っていた。
『これ以上の調査は、事業評価に影響を及ぼすため、当面見合わせる』
僕は、その文章を見つめた。
事業評価に影響を及ぼす。
つまり、調査結果が正しければ、評価を修正しなければならない。
評価を修正すれば、過去の報告書に誤りがあったことになる。
過去の報告書に誤りがあったことになれば、それを承認した人間の責任が問われる。
責任が問われれば、誰かの評価が下がる。
だから、調査を見合わせる。
実に合理的な判断だ。
問題を解決するより、問題を確認しないほうが、組織にとって都合がいい場合もある。
ただし、それは問題が消えたことを意味しない。
水漏れしている配管を修理せず、漏水検査の実施を取りやめたところで、水が止まるわけではない。
止まるのは、検査の報告だけだ。
資料をファイルに戻した。
父がこの文書を保管していた理由は、まだわからない。
しかし、少なくとも、父が橋の建設と無関係だったという可能性は低くなった。
そして、父はこの資料を、今も家に残している。
誰かに見つかる危険があると知りながら。
それとも、誰かに見つけてほしかったのだろうか。
夕方、父が帰宅した。
僕は食卓で待っていた。
父は鞄を置き、いつもどおり手を洗った。
「どうした?」
僕の様子に気づいたのか、父が尋ねた。
「聞きたいことがあるんだけど」
「何だ?」
「東邦中央大橋って、知ってる?」
父の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
しかし、僕は見逃さなかった。
「……何で、その名前を?」
「昔の新聞を調べているんだ」
「新聞?」
「うん。橋が何度も完成したことになっているんだよ」
父は黙った。
食卓の上には、まだ夕食が並んでいない。
時計の針が進む音だけが聞こえた。
「どこまで調べた?」
父が尋ねた。
僕は少し驚いた。
普通なら、そんな橋は知らないと言うか、昔の公共事業の話だろうと片づけるはずだ。
だが、父は違った。
僕が何を知っているのかを確認しようとしていた。
「二十四年前の新聞に、建設現場の写真が載っていた」
「……そうか」
「そこに、父さんも写っていた」
父は椅子に座った。
しばらくして、静かに言った。
「その写真を見せてくれ」
僕は鞄から、写真を印刷した紙を取り出した。
古新聞の写真を撮影し、拡大したものだ。
父は紙を受け取ると、じっと見つめた。
表情は変わらなかった。
ただ、写真の一番端に視線を移したとき、父の指が止まった。
「この子供は?」
父が尋ねた。
「僕だと思う」
父は、ゆっくりと顔を上げた。
「どうして、そう思う?」
「叔父さんと一緒に写っているから。それに、あの日のことを覚えているんだ」
父は写真を机に置いた。
「その記憶を、誰かに話したか?」
「叔父さんの手紙を見つけてから、少しずつ調べている」
「そうか」
父は、それ以上何も言わなかった。
僕は、もう一つの質問をした。
「父さんは、二十四年前に何をしていたの?」
父は目を閉じた。
数秒後、目を開いたときには、いつもの表情に戻っていた。
「仕事だよ」
「どんな仕事?」
「今のお前には、説明してもわからない」
「説明してくれなければ、わからないままだよ」
父は苦笑した。
「そうだな」
そして、立ち上がった。
「今日は疲れた。続きは、また今度にしよう」
逃げた。
そう思った。
しかし、父の背中を見ながら、僕は別の可能性も考えていた。
父は、何かを隠している。
だが、それは自分を守るためなのか。
僕を守るためなのか。
あるいは、何か別の理由があるのか。
今の時点では、判断できなかった。
僕は、父が席を立ったあと、机の上に残された写真を見つめた。
父は写真の端を、何度も指でなぞっていた。
その場所には、父でも叔父でもない、別の人物が写っていた。
顔は、新聞の折り目で隠れている。
ただ、その人物の胸元には、名札のようなものが見えた。
僕は写真を拡大した。
名札には、小さな文字が印刷されていた。
『記録管理課』
そんな部署が、二十四年前の建設現場にいたのだろうか。
工事の進捗を管理する人間なら、いても不思議ではない。
だが、記録管理課という名称は、あまりにも曖昧だった。
何の記録を管理していたのか。
工事の記録だけなのか。
それとも、工事に関わった人間の記録も、管理していたのか。
僕は、その人物の顔を見ようとした。
しかし、折り目の部分は破れており、顔を確認することはできなかった。
まるで、誰かが意図的に切り取ったかのように。
その夜、僕は自分の部屋で、もう一度メッセージを確認した。
『君の父親は、まだ生きている』
父は生きている。
僕と同じ家に住み、同じ食卓で食事をし、毎朝仕事へ出かけている。
それなのに、誰かが「まだ生きている」と伝えてきた。
この文章が意味するのは、肉体的な生存ではないのだろう。
父は、記録の上ではどうなっているのか。
僕は、父の名前を検索してみた。
会社のウェブサイトには、社員紹介が掲載されていた。
氏名、所属部署、担当業務。
何の問題もない。
次に、過去の新聞記事を検索した。
父の名前は、いくつかの業界記事に登場していた。
だが、二十四年前の橋の建設に関する記事には、一件も見つからなかった。
僕は、父の名前と「東邦中央大橋」という言葉を組み合わせて検索した。
検索結果は、ゼロ件だった。
それ自体は、不思議ではない。
新聞記事に名前が載らなかった可能性もある。
しかし、父が署名した内部報告書は存在する。
それなのに、公開された記録には、父の名前が残っていない。
僕は、もう一度メッセージを読んだ。
『ただし、君の知っている父親とは限らない』
もしかすると、この文章は、父親が別人だという意味ではないのかもしれない。
僕が知っている父親。
つまり、現在の記録に記されている父親。
その記録が、過去の父親とつながっていないのだとしたら。
父は、二十四年前の建設現場にいた。
叔父は、父が橋の建設を止めようとしたと書いている。
そして、父は、その事実を僕に話そうとしない。
この三つの事実は、互いに矛盾していない。
だが、そこから導き出せる結論は、まだ一つではなかった。
父が不正を告発しようとしたのか。
父が不正に関与していたのか。
父が何かを隠しているのか。
あるいは、僕が知らないだけで、すべてに別の説明があるのか。
僕はノートに、四つの可能性を書き出した。
そして、その横に小さく書いた。
『証拠がないうちは、どれも仮説』
これまでの僕は、記録の矛盾を見つけることに夢中だった。
だが、矛盾を見つけることと、真相を突き止めることは違う。
間違った記録を疑うあまり、自分に都合のいい説明を信じてしまえば、僕もまた同じ過ちを繰り返すことになる。
ペンを置いた。
そのとき、廊下から物音が聞こえた。
父が、誰かと電話をしているようだった。
声は小さく、内容までは聞き取れない。
ただ、最後の一言だけは、はっきり聞こえた。
「……あの子には、まだ何も話していない」
僕は動きを止めた。
少し間があった。
それから、父が続けた。
「記録が更新されたのなら、もう時間がない」
電話が切れる音がした。
僕は机の上のノートを見た。
記録が更新された。
何の記録が。
誰が更新したのか。
そして、どうしてそれが、僕の父親と関係しているのか。
答えはわからない。
ただ、父が何かを知っていることだけは、もう疑いようがなかった。
僕は、そっと部屋の扉を閉めた。
そして、ノートの一番下に、新たな一文を書き加えた。
『父は、何から僕を遠ざけようとしている?』
その直後、スマートフォンが震えた。
新着メッセージが一件。
今度は、文章ではなかった。
一枚の画像が添付されていた。
古い公文書の写真だった。
上部には、東邦の行政機関の名称。
中央には、見慣れた事業名。
『東邦中央大橋建設事業』
その下には、事業の実施状況が記されていた。
そして、最終欄には、こう書かれていた。
『事業関係者の記録整理、完了』
僕は画像を拡大した。
記録整理の実施日を確認する。
二十四年前。
その横には、担当者の名前があった。
僕の父親の名前ではない。
叔父の名前でもない。
そこに記されていたのは、写真の端に写っていた人物と同じ部署の人間だった。
記録管理課。
僕は、画像の一番下にある小さな注記を読んだ。
『対象者のうち、未処理一名』
その下には、名前があった。
僕の名前だった。
第10話を読んでいただき、ありがとうございます!
今回は、父親が東邦中央大橋の建設に関わっていたこと、そして当時の内部資料に不自然な記録が残されていたことが明らかになりました。
父親は何を知っているのか。
「記録が更新された」という言葉は、何を意味するのか。
そして、主人公自身の名前が記された公文書には、どんな秘密が隠されているのでしょうか。
引き続き、東邦という国に隠された謎を追っていきます。
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