第六話 記録上の死人と、包丁のディレイ
国家の嘘の綻びが、僕の過去と完全に交差した瞬間だった。
――完成しているはずの橋が、まだ作られていた。
この数行の活字が意味する事実は、あまりにも重い。
政府の公式発表によれば、東邦中央大橋は二十四年前の『十月十二日』に落成し、華々しく開通式が行われたことになっている。
だが、僕が迷子になったという三面記事の日付は、その翌日の『十月十三日』。
そして記事には、はっきりと【建設現場】と書かれている。
つまり、国はまだ完成すらしていない橋を、書類上だけで「完成した」と言い張り、盛大なパレードの嘘を新聞に流したのだ。
計画を立てることが成果になり、報告書を提出することが実績になる国。
彼らにとって、現実の橋が繋がっているかどうかなど、些細な問題でしかなかったというわけか。
「ただいま」
玄関の扉を開けると、見慣れた我が家の匂いと、小気味よい包丁の音が僕を迎えた。
台所では、母親が夕食の支度をしている。
いつもと変わらない、退屈で、安全な、僕の日常だ。
だが、今の僕には、この平穏なリビングすらも、どこか薄寒い舞台セットのように見えていた。
脳内を古新聞で埋め尽くしていなければ、今すぐにでも足元から崩れ落ちてしまいそうな違和感。
「おかえり。ずいぶん遅かったじゃない。また図書館?」
「まあね。ちょっと調べ物をしてたんだ」
僕は鞄を床に置き、何気なさを装って冷蔵庫から麦茶を取り出した。
心臓の鼓動が、いつもより少しだけ速い。
ここからは、僕自身が仕掛けるミステリーだ。
相手は僕を育ててくれた母親。
だが、彼女は僕の脳から「誠一叔父さん」の記憶が消去された経緯を、間違いなく知っている側の人間だ。
「ねえ、母さん」
「ん? なに?」
母親は鍋に大根を放り込みながら、背を向けたまま答えた。
「僕、小さい頃に、東邦中央大橋の近くで行方不明になったことってある?」
トン、と。
包丁の音が、一瞬だけ不自然にズレた。
時間にして、わずか〇・五秒。プロの演奏家なら確実に眉をひそめるレベルの、完璧なテンポの崩壊。
「……え? なに急に。そんな大昔のこと、よく覚えてるわね」
母親は振り返らなかった。
声のトーンは努めて明るかったが、その肩のラインが、まるで冬の寒さに凍えるように強張っているのを、僕の目が冷徹に捉えていた。
「覚えてないよ。ただ、今日学校の授業で大橋の歴史をやってさ。なんとなく気になっただけ」
「そう……。大したことじゃないわよ。あなたがちょっと目を離した隙に、迷子になっちゃってね。誠一さんが慌てて探し回って、すぐに見つけてくれたの」
誠一さん。
母親の口から、その名前が滑り落ちた。
僕の脳がシステム防衛のために隠蔽していた、失踪した叔父の名前。
母親は、僕がその名前を『忘れている』と思っているはずだ。だからこそ、こんなにも簡単に、かつ警戒しながらその名前を口にする。
「へえ、叔父さんが。……そういえば、叔父さんって今どこで何してるんだっけ。最近全然会ってない気がするけど」
その瞬間、台所の空気が、完全に凍りついた。
母親がゆっくりとこちらを振り返る。その顔には、長年連れ添った息子にすら見せたことのない、深い怯えの色が浮かんでいた。
「……何言ってるの、あなた」
母親の声から、完全に温度が消えていた。
「誠一さんは、五年前の『あの事件』のときに、もう亡くなったでしょう。あなたが一番ショックを受けて、お葬式でもずっと泣いていたじゃない」
――亡くなった?
叔父さんが、死んでいる?
僕の脳が仕掛けた『嘘』は、僕が思っていたよりも遥かに根が深く、そして悪質だったらしい。
手紙を残して失踪したと思っていた叔父は、記録(母の記憶)の上では、すでにこの世を去っているという。
じゃあ、古書店『三浦』の店主から渡された、あのノートに入っていた黒田誠一の手紙は、一体いつ、誰が書いたものなんだ?
死人が未来の僕に向けて、手紙をポストに投函したとでもいうのか。
強烈な目眩が僕を襲う。
だが、僕の古新聞の記憶が、すぐさまその混乱を冷徹に上書きしていった。
母さんは嘘を吐いている。
あるいは、母さんの記憶そのものが、国家によって『完成した書類』のように書き換えられている。
僕は麦茶を飲み干し、いつもの冷めた笑みを顔に貼り付けた。
「ああ、そうだったね。ごめん、ちょっと寝ぼけてたみたいだ」
「本当に、変な子ね……。早く着替えてきなさい」
母親は引きつった笑みを浮かべ、再び鍋に向き直った。その背中が小さく震えているのを、僕は見逃さなかった。
自分の部屋に戻り、ベッドに大の字になる。
鞄の中の古新聞の文字が、脳裏でバラバラに解体され、再構築されていく。
叔父の死の嘘。消えた橋の嘘。
そして、僕の消された記憶。
これらはすべて、東邦という国が維持している『一つの巨大なシステム』の歯車なのだ。
僕は天井を睨みつけながら、口の中で小さく呟いた。
疑ってやるさ、母さん。
あんたの記憶も、叔父さんの死も、この国の数字も。
全部ひっくり返して、僕の脳のハードディスクを、本物の事実だけで満たしてやる。
このときの僕は、まだ確信していなかった。
僕の脳が消去した『誠一叔父さんに関する最後のファイル』。
それが、僕が叔父のお葬式で流した涙の理由ではなく、そのお葬式の夜に、僕が叔父の遺体の前で『見てしまったもの』の記憶だということを。
お読みいただきありがとうございます。
これからの物語の展開を予想しながらお楽しみください。
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