第三話 黒田誠一の手紙
古新聞好きの主人公はこれから何をしていくのかお楽しみください。
黒田誠一が新聞社を辞めた理由は、新聞には載っていなかった。
退職記事もない。送別会の記事もない。長年の功績を称える文章もない。
まるで、最初から存在しなかった人間のようだった。
僕は東邦中央新聞の旧社屋があった場所を調べた。
現在、その建物は取り壊され、跡地には巨大な商業施設が建っている。
入口には、こんな看板があった。 『未来を創る、東邦の新拠点』
東邦の人間は、未来を創るのが好きらしい。
ただし、過去を調べるのはあまり好きではないようだ。
旧社屋について調べていると、意外な人物が見つかった。 黒田の元同僚で、現在も存命の元記者だった。 名前は三浦修。
地方都市で小さな古書店を営んでいるという。 僕は休日を利用して、電車で会いに行った。
店は商店街の外れにあった。 看板には「三浦書房」と書かれている。店内には本がぎっしり並び、奥には古新聞の束まで積まれていた。
少し感動した。 ここは天国かもしれない。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうから、老人が顔を上げた。
「三浦さんですか?」
「そうだけど」
「黒田誠一さんについて、お聞きしたいことがあるんです」
老人の表情が変わった。 ほんの一瞬だった。
だが、僕は見逃さなかった。
「どうして、その名前を?」
僕は鞄からノートを取り出した。
「古新聞を読んでいたら、変な文章を見つけたんです。黒田さんが仕込んだものだと思います」
ノートを開き、三つの文章を見せた。
老人は黙って読んだ。 そして、長いため息をついた。
「まだ残っていたのか」
「知っているんですか?」
「知っているも何も……」 老人は店の奥を振り返った。
「黒田は、それを見つけてくれる人間がいるかどうか、ずっと気にしていた」
僕は身を乗り出した。
「何を伝えようとしていたんですか?」
「さあな」
「え?」
「本人に聞かなきゃわからんよ」
「でも、三浦さんは同僚だったんでしょう?」
「同僚だったからといって、何もかも知っているわけじゃない」
老人はカウンターの下から、小さな箱を取り出した。 古びた紙箱だった。
蓋には、黒いインクで名前が書かれている。 黒田誠一。
「これは?」
「黒田が辞めるとき、私に預けていったものだ。いつか誰かが訪ねてきたら渡してほしい、とね」
僕は箱を見つめた。
「誰かって、僕ですか?」
「まさか。こんなに早く来るとは思っていなかったよ」
「じゃあ、誰を待っていたんですか?」 老人は肩をすくめた。
「新聞を読む人間だろう」
箱の中には、古い新聞の切り抜きが何枚も入っていた。 橋の完成記事。
行政官の表彰記事。 政府の経済報告。
そして、一枚の手紙。 僕は手紙を広げた。 そこには、黒田の字でこう書かれていた。
『もしこれを読んでいる人がいるなら、私はまだ完全には失敗していないのだろう。
私は新聞を作っていた。 毎日、何百もの記事を読み、何十もの記事を直し、何千もの文字を紙面に並べた。 その仕事を誇りに思っていた。
だが、ある日、私は気づいた。
私たちが作っているのは、過去を記録する新聞ではない。 政府が望む未来を、すでに起きた過去のように見せる新聞だった。
橋が完成する前に、完成の記事が準備されていた。
政策が実行される前に、成功を祝う見出しが用意されていた。
私はそれを知りながら、記事を掲載した。 理由はいくらでもあった。
上司の命令だった。 締め切りが迫っていた。 私一人が抵抗しても何も変わらない。
そして、私は仕事ができる人間だと思われたかった。
その結果、私たちは優秀な新聞社になった。 誰もが優秀だった。
誰もが仕事をこなした。
誰もが自分の責任を果たした。 だからこそ、誰も責任を取らなかった。
私は、自分が何をしていたのかを、ずっと理解していなかった。
いや、理解したくなかったのだ。 私は新聞を作ることに失敗した。
だから、せめて新聞の中に、失敗したことだけは残そうと思った。
未来の誰かが、私たちを笑ってくれればいい。 怒ってくれればいい。
そして、同じことを繰り返さないでくれればいい。 私は英雄ではない。
ただ、最後まで自分の仕事を疑えなかった、臆病な編集者だ。
どうか、私の文章を読んでほしい。 そして、私の文章も疑ってほしい。
黒田誠一』 僕は手紙を読み終えた。 店の中は静かだった。
外を車が通り過ぎる音が聞こえる。 僕は手紙をもう一度読み返した。 「……黒田さんは、政府に脅されていたんですか?」
三浦は首を横に振った。
「そういう話じゃない」
「じゃあ、どうして抵抗しなかったんですか?」
老人は僕を見た。
「君は、抵抗すればよかったと思うかい?」
「当たり前じゃないですか」
「そうか」
三浦は笑った。
「私も、当時はそう思っていたよ」
「今は違うんですか?」
「今でもそう思っている。
ただ、自分が同じ立場だったら、何ができたのかはわからない」
僕は何も言えなかった。 三浦は手紙を箱に戻した。
「黒田は、誰かに自分を許してほしかったのかもしれない。
あるいは、自分が何をしたのか、誰かに知ってほしかったのかもしれない」
「それで、暗号を?」
「そうだろうね」
「でも、どうして新聞なんですか?」
三浦は店内を見渡した。
「新聞は、誰かが書いたものだ。誰かが選んだものだ。何を載せて、
何を載せないか。どんな見出しをつけるか。どの写真を使うか。
それを決めた人間がいる」
老人は、カウンターの上に置かれた古新聞を指で叩いた。 「それなのに、人は新聞に書いてあることを、まるで空から降ってきた事実のように受け取る」
僕は、最初に見つけた文章を思い出した。
『数字を信じるな。橋を見ろ。』
黒田は、新聞そのものを疑えと言いたかったのだろうか。
いや、違う。
彼は、自分が作った新聞さえ疑ってほしかったのだ。 箱を閉じた。
「ありがとうございました」 店を出ようとしたとき、三浦が声をかけた。
「君、今の東邦はどう思う?」
僕は振り返った。 「どうって?」
「昔と比べて、よくなったと思うかい?」 少し考えた。
「便利にはなったと思います」
「それだけかね?」
「……わかりません」 老人はうなずいた。
「それでいい。わからないことを、わからないと言えるうちはね」
帰りの電車で、僕は窓の外を眺めていた。
駅のホームには、政府の広告が貼られていた。
『東邦の未来は、すでに明るい』 思わず笑った。
未来が明るいかどうかは、未来になってみなければわからない。
そんな当たり前のことを、僕たちはいつから忘れてしまったのだろう。
お読みいただきありがとうございます。
これからの物語の展開を予想しながらお楽しみください。
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