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思い出す、橘美樹

残業を終えて会社を出た時には、日付が変わりかけていた。


「……はぁー……」


エレベーターを降りながら、橘美樹は大きく伸びをする。

肩が痛い。目も痛い。今月何回目の終電回避だろう。


駅前のコンビニで適当に夕飯を買い、自宅マンションへ戻る。

狭いワンルーム。投げ捨てたジャケット。つけっぱなしの間接照明。


「あーつかれた!!! もう、やること多すぎ!」


誰もいない部屋で叫ぶ。


コンビニ弁当を電子レンジへ放り込み、スマホをソファへ投げる。

風呂を沸かす。メイクを落とす。髪を雑にまとめる。


そんな、どこにでもある社会人の夜。


――だった。


テレビでは、ニュースキャスターが淡々と経済ニュースを読み上げている。


『政府は本日、新たな景気安定化政策を――』


もう、“あの事件”を大きく取り上げることはない。


一年前。


天城ノア事件。


異例の速度で裁判は進み、天城ノアには無期懲役判決。

その直後、脱獄。


そして行方不明。


佐倉悠真も消息不明。


当時は毎日全局が騒いでいた。

専門家が並び、コメンテーターが怒鳴り、SNSでは陰謀論が飛び交った。


だが人間は慣れる。


どれだけ世界を揺るがした事件でも、時間が経てば、“少し前のニュース”になる。


今では、名前を聞くことすら減った。


「……ノア、あんた何やってんのよ……」


美樹は、ぼそりと呟く。


「そして悠真。あんたも連絡取れないって、どういうことなのよ……」


返事はない。


当然だ。


二人は、世界から消えた。


けれど、美樹の中では終わっていなかった。


むしろ、一年前からずっと、終われなかった。


ノアは昔から、異常だった。


高校時代から、頭が良すぎた。


優秀、なんて言葉では足りない。

あまりにも正確に、人の心を理解しすぎていた。


だから時々、他人の意思すら捻じ曲げた。


あの家のメイドさんの件。


そして――高橋さんの件。


あの頃から、悠真は気づいていた。


ノアの言葉は危険だ、と。


だから三人で、いろいろ考えた。


ノア自身も苦しんでいた。

自分の言葉が、人を追い詰めることを知っていたから。


「言い方を変える」とか。

「一回考える時間を置く」とか。

「答えを先に言わない」とか。


いろんな対策をした。


それでも。


最終的に、事件は起きた。


そして、美樹は――。


「……っ」


キッチンで、無意識に手が止まる。


自分も巻き込まれていた。


ノアの危険性を、理解していたはずだった。


紗代さんの件も知っていた。

悠真がずっとストッパーだったことも知っていた。


それなのに。


気づいたら、自分も“飲まれていた”。


気づいた時には、自分の意思で考えているつもりで、ノアの言葉を使っていた。


“安定のためには仕方ない”。


“正しい方向へ進むべき”。


“社会全体の最適化”。


そういう言葉を。


自分の言葉みたいに。


「……ほんっと、最悪」


悔しかった。


ノアが悪いとか、そんな単純な話じゃない。


止められなかった自分が悔しかった。


気づけなかった自分が悔しかった。


そして、そのことを本人にぶつけようにも。


もう、彼女は世界から消えてしまった。


もう二度と、会えないかもしれない。


レンジの終了音が鳴る。


美樹は無言で弁当を取り出し、雑に食べ、風呂へ入り、髪を乾かす。


時計はもう深夜一時を回っていた。


「……寝よ」


ベッドへ倒れ込もうとした、その時だった。


スマホが震えた。


知らない番号。


こんな時間に?


怪訝そうに画面を見る。


表示されたメッセージは、短かった。


『美樹』


――……は?


思考が止まる。


続けて、もう一件。


『助けてほしい。

でも、来るかどうかは、美樹が決めて』


心臓が、跳ねた。


なに、これ。


いたずら?


警察?


反ノア派?


ノア信奉者?


いや、待って。


私の番号を知っていて。


“橘さん”でも、“美樹さん”でもなく。


“美樹”と呼ぶ人間。


そんな相手は。


「……ノア?」


震える指で打ち込む。


既読。


数秒。


返事。


『うん。悠真もいる。身勝手に連絡してしまってごめん』


息が止まった。


本当に?


本物?


いや、まだ分からない。


美樹はすぐ返信する。


『証明して』


数秒後。


『高一の文化祭で、悠真が落としたものは?』


思わず吹き出した。


『たこ焼きの舟皿。しかもソースを制服につけた』


「…………本物じゃん」


力が抜ける。


同時に、胸の奥から、ぐちゃぐちゃの感情が溢れた。


生きてた。


ノアも。


悠真も。


でも。


追われている。


逃げている。


世界中から。


『いまどこにいるの? 追われてるの?』


『うん』


短い返事。


『助けが必要なの? どこにいるの?』


しばらく既読がついたまま止まる。


やがて。


『会いたい』


その四文字を見た瞬間、美樹は顔を覆った。


泣きそうになる。


あのノアが。


世界を変えてしまった女が。


そんな言葉を送ってくるなんて。


『分かった。会いに行く。誰にも言わない。一人で行くから、心配するな』


返事はすぐ来た。


『ありがとう。〇〇の工場跡地まで来れる?』


『今から行く』


送信。


美樹は即座に立ち上がった。


車のキーを掴む。


財布。


スマホ。


上着。


それだけ持って部屋を飛び出す。


エレベーターを待つ時間すら惜しくて、階段を駆け下りる。


ノアが生きてる。


悠真も生きてる。


その事実だけで、胸が苦しくなる。


駐車場へ飛び込み、エンジンをかける。


マップアプリを起動。


目的地設定。


深夜の道路へ急発進。


夜の山道を、ヘッドライトだけが切り裂いていく。


対向車はほとんどいない。


カーナビの無機質な声が、次の右折を告げる。


『この先、右方向です』


その声を聞きながら。


美樹は、どうしようもなく思い出していた。


十五歳の春。


高校の入学式。


壇上に立った、一人の少女。


初めて、“天城ノア”という名前を聞いた日のことを。


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