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世界から逃げる、天城ノア

雨の匂いが、鉄の錆と混じっていた。


東京都西部。地図の上ではまだ「東京」と表示されるくせに、夜になると人の気配が完全に消える山奥。

林道を外れ、崩れかけたコンクリート塀の先に、巨大な廃工場が横たわっていた。


かつて何を作っていたのかも分からない。

割れた窓。折れた煙突。蔦に飲まれた外壁。

工場棟の隅に取り残された二階建ての事務室だけが、辛うじて雨風をしのげる形を保っていた。


懐中電灯の細い光が、暗い室内を横切る。


「……しばらく、ここを拠点にしよう」


佐倉悠真がそう言った。


返事の代わりに、小さく息を吐く音がした。


入口近くに立っていた女が、ゆっくり帽子を外す。

続いてマスクを取る。


薄暗い室内でも分かるほど、整いすぎた顔立ちだった。


天城ノア。


数年前まで、テレビもネットも新聞も、彼女の名前で埋まっていた。

その顔を知らない人間の方が少ない。


だが今の彼女は、かつての完成された美貌から、わずかに均衡を崩していた。

頬は少し痩せ、目元には隠しきれない疲労が沈んでいる。


それでもなお、人の視線を奪う気配だけは消えていなかった。


悠真は窓際へ歩き、外を確認する。

林道にライトはない。

追跡の気配もない。


「たぶん、しばらくは大丈夫だ」


「“たぶん”ね」


ノアが乾いた笑みを浮かべた。


事務室の奥には、古いソファとロッカー、それから埃をかぶった机が残っていた。

逃亡生活の中では、十分すぎる環境だった。


ノアは机に触れ、指先についた埃をぼんやり見つめる。


「……こういう場所、増えたわね」


「人口減ったからな」


「違う意味よ」


悠真は答えなかった。


ノアが脱獄してから、二人はずっと逃げ続けていた。


政府。

反ノア派。

ノア信奉者。

誰に見つかっても終わる。


ノアを神のように崇める人間は、今でもいる。

逆に、彼女を「人類史上最悪の認知犯罪者」と呼ぶ人間もいる。


だが立場は違っても、結論だけは同じだった。


――天城ノアを、もう自由にしてはいけない。


だから二人は、世界から姿を消した。


夜になる。


事務室の床に、持ち込んだ寝袋を並べる。

割れた窓は板で塞いでいたが、隙間風は容赦なく入り込んだ。


それでも、屋根があるだけで違った。


久しぶりに、追跡を振り切った実感があった。


明かりを消す。


暗闇の中、遠くで車の走行音がした。


二人とも、ほぼ同時に反応する。


ノアが息を止める。

悠真の視線が窓へ向く。


車は、そのまま遠ざかっていった。


数秒遅れて、ノアが小さく呟く。


「……ノア派かな」


「反ノア派かも」


「どっちにしろ、捕まったら終わりね」


「そうだな」


静寂が戻る。


山の夜は、妙に耳が痛かった。


しばらくして。


「ねえ」


「なに」


「私たちって、いつまで逃げるのかしらね」


悠真は答えなかった。


ノアの声は、不思議なくらい静かだった。


「このまま、希望もなく終わるのかしら」


「……」


天井を見上げたまま、悠真は沈黙する。


答えを持っていなかった。


答えを持っているふりをすることだけは、もうしたくなかった。


時間だけが過ぎる。


雨が降り始めた。


トタン屋根を叩く音が、古い工場全体に広がっていく。


そして、ノアが再び口を開いた。


「ねえ、悠真」


「なに」


少し間があった。


「子供が欲しい」


悠真が勢いよく上半身を起こした。


「……何言ってんだ!」


声を抑えようとして失敗した怒声が、暗い室内に響く。


「今の俺たちの状況、分かってんのか!?」


「分かってる」


ノアは逃げなかった。


「無茶苦茶言ってることも分かってる」


「だったら――」


「でも」


その一言で、悠真の言葉が止まる。


ノアは、暗闇を見たまま続けた。


「私たち、このままだと生きる理由を失う」


雨音だけが響く。


「私ね」


ノアの声が、少しだけ震えた。


「普通に生きたかったの」


悠真は何も言えない。


「朝起きて、仕事行って、帰ってきて、ご飯作って。くだらないことで喧嘩して。そういうの」


ノアは笑おうとした。

うまく笑えなかった。


「でも、私はもう、そこには戻れない」


その瞬間。


ぽろり、と。


大粒の涙が、頬を伝った。


「だからせめて」


声が崩れる。


「私の成し遂げられなかった“普通に生きる”を、次の世代につなぎたい」


悠真は目を閉じた。


そして、低く言う。


「無茶苦茶いうな」


ノアは否定しなかった。


「その子に、俺たちの続きを背負わせるな」


長い沈黙。


やがてノアが、小さく息を吐く。


「……そうね」


涙を拭う。


「だめね」


そして、自嘲気味に笑った。


「今の私の言い方、あなたに選ばせてない」


悠真は答えなかった。


答えられなかった。


ノア自身が、それに気づいてしまったからだ。


彼女は本当に変わろうとしていた。


だからこそ、苦しんでいた。


それから二人は、何日も話し合った。


自分たちは何のために逃げているのか。

これからどう生きるのか。

社会は回復するのか。

自分たちは、世界に戻るべきなのか。

もう戻れないのか。


希望はあるのか。


雨の日。

霧の日。

電波も不安定な山奥で。


何度も。


何度も。


そしてある夜、ノアが言った。


「……美樹を頼れないかしら」


悠真は即座に首を振った。


「だめだ」


「でも――」


「あいつの人生も壊してしまう」


ノアは黙る。


美樹の顔を思い浮かべていた。


高校時代。

大学時代。

何度も笑って、何度も支えてくれた親友。


自分たちのせいで、もう十分巻き込まれている。


これ以上は。


そう思うのに。


それでも。


ノアは、心のどこかで願ってしまっていた。


――助けてほしい、と。


そして。


二か月後。


東京都内のマンション。


深夜一時過ぎ。


橘美樹のスマートフォンが、小さく震えた。


送り主不明。


短いメッセージ。


『美樹』


その瞬間。


美樹の心臓が、凍りついた。


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