第八話 助けられるものは助けます
離れへ移ってから、数日が過ぎた。
最初にしたことは掃除だった。
客人を泊めるための建物とはいえ、長い間使われていなかったらしい。
家具には白い布が掛けられ、窓枠には指で線を引けるほど埃が積もっている。
暖炉の中には古い灰が残り、戸棚の奥からは虫の死骸がいくつも出てきた。
一階には応接室と食堂、小さな厨房。
二階には寝室が三つ。
私の部屋。
リナの部屋。
メイの部屋。
侯爵令嬢と侍女が同じ建物で暮らすのは、正しい形ではないかもしれない。
エリシアだった頃、侍女たちは使用人棟で暮らしていた。
夜番の者だけが、私の寝室に近い控え室へ詰めていた。
けれど、この離れには控え室がない。
今は三人で暮らし、必要があれば後から使い方を変えればよい。
前世の会社でも、最初から完璧な運用などなかった。
まず動かす。
問題を確認する。
記録する。
それから直す。
私は家具へ掛けられた布を外した。
リナは床を掃き、メイは窓を拭いている。
「お嬢様。そちらは私がいたします」
本邸から手伝いに来た侍女が声を掛けた。
名はノーラ。
エリシアだった頃には、洗濯場で働く見習いだった。
今は一人前の侍女になっているらしい。
「もう終わります」
私は棚の前へ膝をついた。
棚の下に、埃と何かが落ちている。
人間の腕では届かない。
私は右手の人差し指を隙間へ向けた。
爪と肉の間から、透明な身体を細く伸ばす。
棚の奥へ這わせる。
埃。
糸くず。
折れた羽根ペン。
干からびた虫。
まとめて包み、床の上へ引き出した。
ノーラが小さく息を呑んだ。
逃げはしない。
けれど、私の指先を見つめている。
「このようなこともできます」
「……そのようでございますね」
「便利でしょう?」
「はい」
返事までに、少し間があった。
怖いのだろう。
当然だと思う。
かつて仕えていた侯爵令嬢が、指先から透明なスライムを伸ばして棚の下を掃除している。
普通ではない。
それでもノーラは部屋から逃げず、私が引き出したゴミを塵取りへ移した。
「昔のお嬢様も、棚の下へ何かを落とされると、ご自分で取ろうとなさいました」
「そうでしたか?」
「床へ這おうとなさって、ローレンス様に止められておりました」
記憶が戻った。
十一歳の頃。
棚の下へ転がった髪飾り。
床へ寝そべって手を伸ばそうとした私。
背後から、ローレンスに襟を掴まれた。
『侯爵令嬢が床を這うものではございません』
「覚えています」
私が笑うと、ノーラの顔が変わった。
知らない魔物を見る目ではない。
昔を思い出した顔。
「同じお顔ではないのに」
ノーラが小さく呟いた。
「何か?」
「いいえ。失礼いたしました」
彼女は頭を下げた。
私はもう一度、指先から身体を伸ばす。
今度は卓の脚へ絡んでいた糸を取った。
「お嬢様」
入口からローレンスの声がした。
「はい」
「屋敷の者しかいない場であれば、無理にお隠しになる必要はございません」
彼は私の指先から伸びる透明な身体を見ている。
以前ほど顔をしかめない。
慣れたわけではない。
諦めただけかもしれない。
「では、自由に使っても?」
「ただし、来客や屋敷外の者の前ではお慎みください」
「なぜです?」
「お嬢様が、ご自身で暖炉の煤を召し上がっているという噂が広まります」
「食べてはいません。集めているだけです」
「その違いを、皆が理解するとは限りません」
「分かりました」
「リナとメイも同様です」
「はい」
二人が返事をする。
メイの指先からは、すでに青い身体が伸びていた。
窓枠の隙間を掃除している。
ローレンスは一度だけ目を閉じた。
「せめて、私が注意している間はお戻しください」
「申し訳ございません」
メイは指先へ身体を戻した。
屋敷の人々は、私たちを完全な化け物だとは思いきれずにいる。
お嬢様は帰ってきた。
ただ、以前のままではない。
ご本人はスライムになったとおっしゃっている。
顔も身体も違う。
心臓も動いていない。
それでも、仕草や癖はお嬢様そのもの。
紅茶へ砂糖を入れない。
考え込むと右手の薬指を撫でる。
困ったとき、少しだけ首を左へ傾ける。
昔の失敗。
家族との思い出。
使用人との会話。
全部覚えている。
だから、誰も私を単純な魔物とは扱えない。
私も屋敷の者へ、自分がスライムであることを隠すつもりはなかった。
ここは私の家だ。
家の者へまで、人間のふりを続ける必要はない。
*
私の頭皮は、数日のうちにほぼ定着した。
最初は櫛を通すたび、端が少し浮いた。
眉も片方だけ引きつることがあった。
まつ毛は向きが揃わず、瞬きをするたび眼球へ触れた。
けれど、私の身体が毛根や皮膚の裏側へ広がり、栄養を運び続けるうちに馴染んできた。
金色の髪を引いても抜けない。
眉も自然に動く。
まつ毛も逆向きにならない。
眼球は、まだ少し扱いにくい。
左右で光の受け方が違う。
片方だけ瞳孔が大きくなることがある。
私は眼球を通して見ているわけではないから、自分自身は困らない。
ただ、人間から見れば不自然だ。
朝になると、リナとメイが鏡を見ながら調整してくれる。
「右目を少し細くしてください」
「こうですか?」
「今度は左が大き過ぎます」
「では、こちらを」
「両方とも細くなりました」
「笑っているように見えますか?」
「少し怒っているようにも見えます」
そこへノーラが着替えを持ってきた。
鏡越しに私を見る。
「右の眉を、少しだけ下げてください」
「こうですか?」
「下げ過ぎです」
「では、上げます」
「今度は驚いているようです」
「難しいですね」
「昔のお嬢様は、困ったときに右の眉だけ少し下がりました」
私は記憶を探った。
父へ無理な願いをしたとき。
兄にからかわれたとき。
舞踏会で名前を思い出せない相手から話しかけられたとき。
そのときの顔を再現する。
「このように?」
ノーラが息を止めた。
「それです」
「合っていますか?」
「はい」
ノーラの目に涙が浮かんでいた。
「どうしました?」
「何でもございません」
彼女は目元を拭った。
顔立ちは違う。
声も違う。
それでも、一瞬の表情が昔のお嬢様と同じだった。
使用人たちは、そういう瞬間を見るたびに揺れる。
私がエリシアなのか。
エリシアの記憶を得たスライムなのか。
答えは出ない。
それでも、私をお嬢様と呼ぶ者は少しずつ増えていた。
*
「傷の直し方も覚えてください」
私はリナとメイへ言った。
リナの腕には、死体捨て場へ運ばれる前についたらしい古い傷がある。
メイの脇腹にも、刃物で切られた痕が残っていた。
身体を得たばかりの頃は気にしていなかった。
けれど、侍女として人前へ出るなら、見える傷は少ない方がよい。
ノーラも見学している。
「皮膚の内側へ、自分の身体を広げます」
私は自分の手の甲へ爪を立てた。
皮膚が裂ける。
赤い血が少し流れる。
ノーラが小さな悲鳴を漏らした。
「大丈夫です」
傷の内側から透明な身体を伸ばし、傷口の両側を引き寄せる。
「まず、内側から固定します」
「縫わなくてもよいのですか?」
リナが訊く。
「小さな傷なら必要ありません。皮膚組織が生きていれば、つないだまま保てます」
透明な身体が傷の間を満たす。
出血が止まる。
表面が閉じていく。
ノーラが近づいた。
「見てもよろしいですか?」
「どうぞ」
彼女は恐る恐る私の手を取る。
傷があった場所を指でなぞった。
「本当に塞がっています」
「内側には私がいます」
ノーラがすぐに手を離した。
「そのように言われますと、少し怖うございます」
「事実です」
「存じております」
「大きな傷は?」
メイが訊いた。
「皮膚が足りなければ、生きた皮膚組織を移します」
「同じ身体の別の場所から?」
「それが安全でしょう」
「別の人からも?」
「組織を生きたまま保てれば、つなぐことは可能だと思います」
ノーラの表情が固くなった。
「勝手に人から取ってはいけないのですよね?」
「もちろんです」
私は答えた。
ノーラが安心する。
「治療として、本人が望んだ場合だけです」
「それなら、少し安心いたしました」
私は嘘をついているつもりはなかった。
治療として行うなら、その通りだ。
自分の髪や目をどこから得たかは、別の話。
屋敷の者へ説明する必要はない。
「身体を外へ出すときは、指先からにしてください」
私は二人へ教えた。
「手の甲や腕から出すと、皮膚が大きく動きます。人間には怖く見えます」
「指先なら怖くないですか?」
メイが訊く。
「少しは怖いそうです」
私はノーラを見る。
「はい」
ノーラは正直に答えた。
「ですが、腕の中を何かが這うよりは」
「では、指先から」
「それから、傷を直すときも必要な量だけ出してください」
「多過ぎると?」
「切り離される可能性があります」
「切り離されたら?」
「自分ではなくなるかもしれません」
二人は自分の指を見た。
その性質は、まだ確認していない。
実験が必要だった。
*
リナとメイの正式な教育について、私はローレンスへ相談した。
「礼儀作法を?」
「はい」
「この二人に?」
「私の侍女ですから」
ローレンスは二人を見る。
リナは背筋を伸ばしている。
メイも真似しているが、少し首が長くなっていた。
私は肘で合図する。
メイが首を縮めた。
「読み書きはできますか」
「少し」
リナが答える。
「洗濯場の受取札に名前を書く程度なら」
メイも言う。
「私は宿の品書きを読めます」
「侍女として屋敷へ出入りするなら、それでは足りません」
文字。
計算。
礼法。
衣服の扱い。
客人への応対。
食事の作法。
寝室の整え方。
主人の予定管理。
ローレンスは必要な教育を次々と挙げた。
「覚えられます」
メイが答える。
「一度見れば、かなり」
「その自信が正しいか、明日から確認いたします」
教育は翌日から始まった。
二人は驚くほど早く学んだ。
一度見れば、同じ動きをかなり正確に再現する。
文字も、一度書き順を見せれば忘れない。
計算も、仕組みを理解すると急に速くなる。
礼の角度。
歩幅。
茶器を持つ指。
寝台の布を折る順序。
すべて一度か二度で覚えた。
「学習が早過ぎますね」
教師役を任された年配の侍女が言った。
「人間の脳組織が残っているからだと思います」
私は説明した。
「そこへスライムの身体が入り、神経の代わりをしています」
「神経とは?」
「身体へ命令を送る細い糸のようなものです」
前世の知識。
正確ではないかもしれない。
けれど、おおよそは合っているはず。
「人間の脳が情報を受け取る。スライムが全身へ伝える。その連携で、普通より早く覚えている可能性があります」
「悪い影響は?」
ローレンスが訊く。
「分かりません」
「分からないのですか」
「ですから観察します」
私はノートを用意した。
リナ。
メイ。
食事。
体温。
心拍。
睡眠。
記憶の混乱。
身体の変形。
傷の修復。
人間としての癖。
スライムとしての反応。
毎日記録する。
「私たちは実験対象ですか?」
リナが訊いた。
「観察対象です」
「違うのですか?」
「実験対象より丁寧な感じがします」
メイが納得したように頷いた。
ローレンスは額へ手を当てた。
「納得してよいところではありません」
「でも、嫌ではありません」
リナが答える。
「自分たちが何なのか、私も知りたいです」
ローレンスは、それ以上止めなかった。
*
食事には問題があった。
どうしても肉が多くなる。
人間の身体はパンや野菜も食べる。
スープ。
果物。
乳。
けれど、私たちの内側はスライムだ。
肉の方が早く溶ける。
身体へ取り込みやすい。
特にリナとメイは心臓を動かしている。
人間の筋肉や臓器も多く残している。
その維持には肉が必要らしい。
朝。
卵と肉。
昼。
肉のスープ。
夜。
焼いた肉。
厨房の者が不思議そうな顔をする。
「お嬢様は、以前は肉をこれほど召し上がりませんでした」
給仕の侍女が言った。
「身体が変わりましたので」
「やはり、スライムは肉を?」
「食べやすいです」
「生でなくてもよいのですか?」
「味付けした方がおいしいです」
侍女は少し安心した。
食卓へ着き、普通にナイフとフォークを使う。
肉を切る順序。
パンを小さく千切る癖。
嫌いな豆を皿の端へ寄せること。
「お嬢様は、昔からその豆を残されました」
「嫌いでしたから」
「今もなのですね」
「記憶がそう言っています」
侍女は少し寂しそうに笑った。
「では、次から少なくいたします」
屋敷の人々は、私たちの食事量が増えたことを恐れながらも、好みが変わっていないことへ安堵している。
私も屋敷では人間らしく食べる。
口へ運ぶ。
噛む。
飲み込む。
内部でスライムが包み、溶かす。
指先から直接食べれば早い。
でも、食卓ではしない。
それが人間としての作法。
*
街へ出る前に、私は父へ伝えた。
ローレンスの許可を得て、本邸の小さな応接室へ入る。
以前と同じ部屋。
ただし、椅子の距離は少し近くなっていた。
「街へ出たいと?」
「はい」
「何をする」
「調査です」
「盗賊のことか」
「それもあります」
父の表情が険しくなる。
「捜索は屋敷の者へ任せろ」
「私自身でも探します」
「許さん」
「変装はいたします」
「そういう問題ではない」
「では、どのような問題でしょう」
「お前が娘の姿で街を歩けば、噂になる」
「いまの私は、完全にはエリシアの姿ではありません」
「だからなおさらだ」
父は額へ手を当てた。
私は背筋を伸ばした。
「自分の仇討ちは、自分でしなければなりません」
「お前の仇ではない」
「私の仇です」
「娘の仇だ」
「同じです」
「同じではない」
父は私をエリシアと認めない。
けれど、以前ほど強く拒絶もしない。
目の前の何かが、娘と同じ姿勢で座り、娘と同じ口調で譲らない。
父も迷っている。
「これは誇りの問題です」
「誇り?」
「お父様の娘として」
父の顔が動いた。
「ラーデンベルク侯爵家の令嬢として、辱めを受け、奪われたまま、何もしないわけには参りません」
「復讐を誇りと呼ぶな」
「では、責任です」
「何の責任だ」
「自分の人生を取り戻す責任です」
父は黙った。
「お母様からいただいた指輪を取り戻します。悪漢を見つけます。私が誰であるかを、私自身で示します」
「お前が何者かは、まだ決まっていない」
「私は決めています」
私は右手の薬指を撫でていた。
指輪があった場所。
父の目がそこへ向く。
エリシアだった頃から、考え事をすると同じ指を触っていた。
「護衛をつける」
「必要ありません」
「つける」
「目立ちます」
「屋敷の者とは分からぬ格好をさせる」
「私たちも変装します」
「街の外へ出るな」
「必要なら出ます」
「エリシア」
父が私の名を呼んだ。
私へ向けて。
父自身も驚いたように口を閉じる。
「……無茶はするな」
「はい、お父様」
父は視線をそらした。
許可を得た。
そう受け取った。
*
私たちは、まず死体捨て場へ向かった。
私は地味な旅装。
リナとメイも町娘の服。
屋敷の護衛が二人、離れてついてくる。
こちらもエリシアだった頃から知る者たち。
屋敷の者なので信用する。
目的は実験。
指先から伸ばした身体で、どこまでできるか。
死体の腕へ触れる。
薬指から透明な身体を伸ばす。
皮膚へ張りつく。
少しだけ溶かす。
指先だけでも消化できる。
細い身体の中を、溶けた肉が戻ってくる。
量は少ない。
速度も遅い。
けれど可能。
「これなら、人間の姿を保ったまま食べられますね」
リナが言った。
離れていた護衛の一人が、顔を背けた。
「人前ではしないように」
私は注意する。
「護衛の方々は?」
「屋敷の者ですから、私たちがスライムであることは知っていただいて構いません」
護衛は、あまり構いたくなさそうだった。
それでも持ち場を離れない。
立派な人たちだ。
次に、身体の一部を切り離す。
私は指先から伸ばした透明な線を、一定の長さで地面へ置いた。
根元を細くする。
さらに細く。
最後に切る。
痛みはなかった。
けれど、胸の内側が空いたような感覚が生まれた。
何かを置き忘れたような。
自分の一部が、世界のどこかへ落ちたような喪失感。
「あ」
切り離された透明な塊は、地面で動いている。
小さなスライム。
私の身体だったもの。
私は手を伸ばした。
戻そうとする。
けれど、その塊は私の意志に従わない。
勝手に死体へ近づき、肉へ張りついた。
「動かせません」
メイが言う。
「遠隔操作はできないようですね」
リナも自分の身体を少し切り離す。
白い小さなスライムが生まれる。
それもリナの指示には従わない。
「私だったはずなのに」
リナが不思議そうに見る。
「切れた瞬間、自分ではなくなるようです」
「記憶は?」
「渡っていないように見えます」
「ただのスライムですね」
私はノートへ記録する。
分離。
痛みなし。
喪失感あり。
遠隔操作不可。
分離後は独立個体。
記憶継承は確認できず。
切り離したスライムへ、何をすべきか伝えようとする。
戻りなさい。
私の指へ来なさい。
強く考える。
けれど、戻らない。
遠隔操作はできない。
命令にも従わない。
そのまま死体の肉を溶かしている。
「やはり、操ることはできません」
「でも、前に新しい身体へ入るよう伝わったのですよね?」
メイが訊いた。
「そうです」
「なぜでしょう」
「分かりません」
私たちの言葉を理解しているわけではない。
触れてもいない。
切り離した身体を操作できるわけでもない。
それでも、時折、意図だけが伝わる。
私はノートへ新しい項目を書いた。
スライム間意思伝達。
方法不明。
距離不明。
命令ではない。
遠隔操作とも異なる。
相手が理解できる内容に限られる可能性。
*
その日の帰り道。
街道脇へ倒れている女を見つけた。
若い。
旅装。
脇腹に深い傷がある。
衣服は血に濡れていた。
呼吸は弱い。
心臓は、まだ動いている。
「生きています」
リナが胸へ手を当てた。
「助けられますか?」
メイが訊く。
「まず、試します」
私は女の横へ膝をついた。
護衛たちも近づく。
「屋敷へ運びますか?」
「運んでいる間に死ぬかもしれません」
傷口を見る。
出血。
裂けた筋肉。
刃は腹の奥まで届いている。
私は指先から身体を伸ばした。
傷の中へ入れる。
出血している場所を探す。
裂けた組織の隙間へ広がる。
内側から押さえる。
「リナ。こちらを支えてください」
「はい」
「メイは呼吸を確認」
「分かりました」
死体捨て場からついてきたらしい小さなスライムが、女の脚へ近づいた。
血の匂いに引かれたのだろう。
皮膚へ張りつき、外側から溶かし始める。
「待ちなさい」
私は声を掛けた。
声が通じるはずはない。
私も以前は、言葉など知らないスライムだった。
それでも、強く考える。
外側から溶かしてはいけない。
皮膚を残す。
傷口から入る。
中へ。
壊れた場所を埋める。
食べるのではなく、支える。
小さなスライムが止まった。
女の脚を覆っていた身体が縮む。
そして、脇腹の傷口へ向かって這い始めた。
「伝わりました」
リナが言う。
「なぜでしょう」
メイが首を傾げる。
「分かりません」
私にも説明できない。
切り離した身体は操れない。
戻すこともできない。
それなのに、何をすべきかだけは伝わることがある。
小さなスライムは傷口から体内へ入った。
私の身体へ触れる。
完全には混ざらない。
隣へ広がる。
裂けた組織の隙間を埋める。
出血が少しずつ止まっていく。
「治療しているのでしょうか」
護衛の一人が訊いた。
「そのようです」
「お嬢様が命じたのですか」
「命令ではありません」
「では」
「こうしてほしいと考えました」
「それだけで?」
「それだけです」
護衛は理解できない顔をした。
私たちにも分からない。
女の呼吸が少し安定する。
心臓の鼓動。
弱い。
けれど、止まっていない。
「まずは助けます」
私は言った。
*
女は、その日のうちに屋敷へ運ばれた。
本邸ではなく、離れの空いている部屋。
ローレンス。
屋敷付きの治療師。
ノーラ。
父にも話が伝わった。
傷の内側には、小さなスライムが残っている。
出血を止め、裂けた場所を支えている。
外へ出そうとすると、女の状態が悪くなった。
そのため、しばらく残すことになった。
「これは何なのです」
治療師が訊いた。
「スライムです」
「それは分かります」
「治療をしています」
「スライムが?」
「私が、内側へ入るよう伝えました」
「どのように」
「分かりません」
治療師は頭を抱えた。
ローレンスが私を見る。
「お嬢様」
「はい」
「この方は、本当に偶然見つけたのですね」
「はい」
「お嬢様方が何かをなさった結果ではなく?」
「違います」
今回は本当に違う。
「同じような方が現れた場合も、連れてこられるおつもりですか」
「助けられるなら」
「離れが治療所になります」
「部屋は空いています」
「そういう問題ではございません」
「では、どのような?」
ローレンスは長く黙った。
「……まずは旦那様へご相談ください」
*
父との話し合いは、その夜に行われた。
「瀕死の女を拾ったと聞いた」
「はい」
「スライムを体内へ入れたとも」
「治療のためです」
「治療師は、理解できないと言っている」
「私にも、なぜ伝わるのかは分かりません」
「危険は」
「あります」
「あるのか」
「分からないものを、安全とは申し上げられません」
前世の会社でも、原因不明の不具合を安全だと言ってはいけなかった。
「ですが、あのままなら死んでいました」
「今は?」
「心臓は安定しています。出血も止まりました」
「中のスライムは」
「傷を支えています」
「食ってはいないのか」
「今のところは」
父の目が鋭くなる。
「今のところ?」
「人間の身体への影響は観察が必要です」
「お前は、何人同じものを増やすつもりだ」
増やす。
その言葉は正しい。
けれど、屋敷の者へはそう説明しない。
「増やすのではありません」
「では何だ」
「同じ目に遭った者を保護します」
「同じ目?」
「街の外へ捨てられ、息絶えそうになった女性です」
リナ。
メイ。
そして、今日の女。
「まず治療します。助かるなら、人間のまま助けます」
「助からなければ?」
「その近くにいたスライムが、記憶を引き継ぐことがあるかもしれません」
「お前のように」
「はい」
「その場合は」
「人を襲わぬように教えます」
私は背筋を伸ばした。
「名前を持たせます。読み書きと礼儀を教えます。仕事を与え、人として生きられるようにします」
「人ではないのに?」
「人の記憶があります」
「それだけで人になるのか」
「少なくとも、放置して人を襲う魔物になるよりはよいでしょう」
父は黙った。
「助けられるものは助けます」
私は続ける。
「人間として助けられるなら、人間として。スライムが記憶を引き継いだなら、その者も人として生きられるように」
「屋敷へ住まわせるつもりか」
「すべてではありません」
「では、どこへ」
「仕事を持たせます」
侍女。
商人。
狩人。
街で暮らす女。
人間社会に役割があれば、人を襲う必要も減る。
「何人現れるか分かりません」
「私にも分かりません」
「離れだけで管理できなくなれば?」
「そのとき考えます」
父は額へ手を当てた。
前世の上司も、私の提案書を読んだときに同じ顔をしたことがある。
「許可は出せん」
「では、見殺しにしますか?」
「そうは言っていない」
「助けてよいのですね」
「勝手に結論を変えるな」
「まず治療することには、反対なさらないでしょう?」
父は黙った。
私は許可と受け取った。
*
翌日。
女の意識が戻った。
名はセリア。
街道沿いの村から来たらしい。
賊に襲われた。
荷を奪われ、傷を負い、道端へ捨てられた。
リナやメイと似ている。
ただし、今回は生きている。
人間として。
「助けていただいたのですか」
セリアが弱い声で訊いた。
「はい」
私は答えた。
「傷の内側には、スライムがいます」
セリアの顔が青ざめる。
「食べられているのですか」
「いいえ。傷を塞いでいます」
「スライムが?」
「私がそうするように伝えました」
「どうやって」
「分かりません」
セリアは、さらに不安そうな顔をした。
「外へ出すことはできますか」
「今すぐ出すと、また出血する可能性があります」
「このまま?」
「傷がつながるまでです」
「私は、どうなるのですか」
「まずは治します」
私は言った。
「その後は、帰る場所があるなら帰れます」
「なければ?」
「ここで働くこともできます」
ノーラが横から私を見た。
また勝手に人を増やすと思っているのだろう。
「人間として働いていただきます」
私は付け足した。
セリアは胸へ手を当てる。
心臓。
動いている。
彼女はまだ人間。
スライムの記憶を持っていない。
「助けられるものは助けます」
私はセリアへ、そして部屋にいる全員へ言った。
「それが私たちの方針です」
リナ。
メイ。
ノーラ。
ローレンス。
治療師。
全員が聞いている。
「もし今後、私たちと同じように、人の記憶を得たスライムが現れたなら、その者も保護します」
「お嬢様」
ローレンスが口を開く。
「はい」
「それが偶然現れた場合、ですね」
「もちろんです」
私は微笑んだ。
必要な部分だけを答えた。
*
数日後、セリアの傷は安定した。
体内にいた小さなスライムは、自ら傷口から出てきた。
理由は分からない。
私が、もう出てもよいと考えたからかもしれない。
セリアの身体が治ったと理解したのかもしれない。
ただ飽きただけかもしれない。
外へ出たスライムは、床の上で丸くなる。
私は戻りなさいと考えた。
反応はない。
死体捨て場へ帰りなさいと考えた。
小さなスライムが動き始めた。
窓の隙間へ向かう。
「今のは伝わったのですか?」
リナが訊いた。
「そのように見えます」
「でも、戻れという命令には従いませんでした」
「自分で理解できることだけなのかもしれません」
「帰ることは理解できる?」
「死体捨て場が、餌のある場所だからでしょう」
小さなスライムは窓から外へ出ていった。
遠隔操作はできない。
呼び戻すこともできない。
しかし、治療の意図は伝わった。
終了の意図も、ある程度は伝わったらしい。
謎は増えた。
私はノートへ記録する。
治療指示への反応あり。
退出の意図にも反応した可能性。
接触なし。
声による命令ではない。
同種間の感覚共有か。
魔力か。
記憶か。
不明。
「分からないことばかりですね」
リナが言う。
「だから記録します」
「全部分かるようになりますか?」
メイが訊く。
「分からないままかもしれません」
「それでも?」
「記録があれば、次の者が考えられます」
前世の会社でも、私が全部解決するわけではなかった。
引継ぎ。
記録。
報告。
次の担当者。
そうして仕事は続く。
*
セリアは日に日に回復した。
最初は寝台から起き上がるだけで息を切らしていた。
三日目には部屋の中を歩けた。
五日目には、リナに支えられながら庭へ出た。
傷口は塞がっている。
内側には、私がつないだ組織が残っている。
体温。
脈。
食事。
排泄。
どれも人間のまま。
スライムの身体が残っている気配もない。
治療は成功した。
屋敷の者たちも安心した。
「お嬢様のお力で、人が助かったのですね」
ノーラが言った。
「私だけではありません」
「スライムも?」
「はい」
「不思議なものでございますね」
「便利でもあります」
「便利という言葉だけで済ませるのは、少し怖うございます」
「ローレンスにも言われました」
ノーラは小さく笑った。
屋敷の中で、私を見る目がまた少し変わった。
人を食べたスライム。
娘の記憶を持つ化け物。
それだけではない。
瀕死の人間を救えるもの。
理解できないが、役に立つもの。
そして、昔のお嬢様と同じ癖を持つもの。
そのすべてが、私だった。
*
セリアが離れを出る日が来た。
「本当に、よろしいのですか」
私は訊いた。
「はい」
セリアは旅装へ着替えている。
襲われたときの服ではない。
屋敷から、新しい服と少しの金を与えられた。
「故郷へ戻りますか?」
「いいえ」
セリアは首を振った。
「村には戻れません」
「なぜです?」
「賊に荷を奪われました。借りた金も返せません。戻っても迷惑を掛けるだけです」
「では、街で仕事を?」
「探します」
「ここに残ってもよいのですよ」
「ありがとうございます」
セリアは頭を下げた。
「ですが、十分助けていただきました」
人間として助かった。
自分の足で歩ける。
自分の意思で行き先を決める。
それは、とてもよいことだと思う。
前世の私なら、そう考えただろう。
エリシアだった私も、同じように考えたはず。
けれど、スライムの私には別の考えがあった。
セリアは一度、私たちの手で治療した。
身体の内側へスライムを入れた。
人間とスライムをつなぐ可能性を示した。
そして。
街で動ける女が必要だった。
商人。
調査役。
屋敷へ自然に出入りできる者。
セリアは、私たちと同じ目に遭っている。
男の盗賊に襲われ、捨てられた。
私たちの価値観を理解できる可能性が高い。
今の彼女は、まだ人間。
けれど。
人間のままでは、私たちが何者かを本当には理解できない。
「お世話になりました」
セリアが言った。
「こちらこそ」
私は微笑んだ。
ノーラ。
ローレンス。
治療師。
皆が見送る。
門まで馬車を出すという話もあったが、セリアは歩けるからと断った。
屋敷の正門を出る。
一度振り返る。
頭を下げる。
そして街へ続く道を歩いていった。
屋敷の者たちは、治療した女性が無事に旅立ったと思っている。
それでよい。
*




