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貴族令嬢だった私は、スライムになって盗賊へ復讐する 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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第四話 お屋敷へ

 お屋敷へ帰ろう。


 そう思ったのは、人間の形で立てるようになった翌朝だった。


 盗賊への復讐は大切だ。


 必ず成し遂げる。


 私を襲い、辱め、腹を刺し、道端へ捨てた男たちを、一人残らず見つけ出す。


 けれど、その前に。


 お父様とお母様へ、無事を知らせなければならない。


 私は死んでいない。


 少し身体が変わっただけだ。


 少し、どころではない気もする。


 それでも中身はエリシアなのだから、帰れば分かってもらえるはずだった。


 お父様は厳しい方だけれど、私を愛してくださっていた。


 お母様は、私が少し熱を出しただけでも、何度も寝室へ様子を見に来た。


 兄はきっと、私の姿を見て驚くだろう。


 けれど最後には、無事でよかったと言ってくれる。


 私はそう信じた。


     *


 問題は、街へ入る方法だった。


 今の私は、遠目には人間らしい。


 死体から借りた頭。


 別の死体から借りた腕。


 左右で違う脚。


 そのすべてを、服とローブで隠している。


 顔だけは隠しきれない。


 だからフードを深くかぶった。


 死体捨て場に捨てられていたローブは、裾が破れ、泥と乾いた血で汚れていた。


 旅人に見えないこともない。


 病人。


 物乞い。


 巡礼者。


 どれに見えても構わない。


 人間だと思われれば、それでいい。


 私は街道へ出る前に、歩く練習をした。


 右足。


 左足。


 右足。


 左足。


 ただ進むだけならできる。


 けれど、人間らしく歩こうとすると難しかった。


 右腕が大きく振れ過ぎる。


 左腕はほとんど動かない。


 膝を曲げ過ぎている。


 首が揺れている。


 まっすぐ前を向こうとすると、今度は目がまったく動かなくなる。


 私は水たまりへ自分の姿を映した。


 ローブ姿の女が、無表情で立っている。


 瞬きをしていない。


 そうだった。


 人間は瞬きをする。


 私はまぶたを閉じた。


 開く。


 閉じる。


 開く。


 少し速い。


 ゆっくり。


 今度は遅過ぎる。


 何度か繰り返し、ほどよい間隔を覚える。


 次は呼吸。


 私は呼吸を必要としない。


 肺を使わなくても生きていられる。


 けれど、人間は胸を上下させる。


 私は胸の内側を膨らませた。


 縮ませる。


 膨らませる。


 縮ませる。


 大き過ぎた。


 肩まで持ち上がっている。


 前世で緊張している新人社員が、面接の前に深呼吸していた姿を思い出す。


 違う。


 人間は毎回、あんなに大きく息を吸わない。


 もっと小さく。


 自然に。


 自然。


 その自然が分からない。


 私はしばらく、その場で胸を上下させ続けた。


 瞬き。


 呼吸。


 腕を振る。


 脚を出す。


 首を動かす。


 人間は歩くだけでも大変だったのですね。


 エリシアだった頃には、何も考えずできていた。


 前世でも同じだった。


 駅まで歩きながらスマートフォンを見て、電車へ乗り、会社まで急いでいた。


 歩くことは仕事ではなかった。


 ただの移動だった。


 でも今は、一歩ごとに確認事項がある。


 右腕。


 左腕。


 瞬き。


 呼吸。


 歩幅。


 姿勢。


 前世の会社なら、チェックリストを作るところだった。


 私は頭の中で項目を並べた。


 一、右腕を振り過ぎない。


 二、左腕も少し動かす。


 三、五歩に一度くらい瞬きをする。


 四、胸を小さく上下させる。


 五、人を見過ぎない。


 六、首を不自然に固定しない。


 七、倒れない。


 最後の項目が一番大切だった。


     *


 街の門には、朝から列ができていた。


 荷馬車。


 行商人。


 農民。


 旅人。


 私は最後尾へ並んだ。


 前にいる男の背中を見ながら、呼吸するふりを続ける。


 吸う。


 吐く。


 吸う。


 吐く。


 必要がないから、つい忘れる。


 そのたびに慌てて胸を動かした。


 前の男が少しだけ振り返った。


 私は顔を伏せる。


 見られた?


 怪しまれた?


 人間ではないと気づかれた?


 男は何も言わず、前へ向き直った。


 ただ列が進んだことを確認しただけらしい。


 私は一歩進む。


 右足。


 左足。


 腕。


 瞬き。


 呼吸。


 門が近づく。


 門番が荷車の荷を調べている。


 樽の蓋を開ける。


 布袋へ手を入れる。


 旅人には目的を尋ねる。


 商人には通行税を払わせる。


 私の記憶では、この街へ入る者は身分証を求められることもある。


 私は何も持っていない。


 エリシア・ラーデンベルクであることを証明する家紋も、指輪も、手紙も。


 指輪は盗賊に奪われた。


 服もない。


 顔すら違う。


 門番に止められたら、どう答えればよいのだろう。


 ラーデンベルク侯爵家の娘です。


 そう名乗る?


 この姿で?


 信じてもらえるだろうか。


 いや。


 まずは屋敷へ着くことが先だ。


 門番に説明する必要はない。


 旅人として入る。


 素知らぬふりをする。


 前世で、会社の上司に報告が遅れたときのことを思い出した。


 余計なことを言えば、質問が増える。


 必要なことだけ答える。


 簡潔に。


 結論から。


 その方がよい。


 私の前の男が通された。


 次は私。


 門番が顔を上げた。


「どこから来た?」


 声。


 答えなければならない。


 私は喉の形を整え、空気を押し出した。


「……南の街道から」


 掠れている。


 けれど言葉にはなった。


「一人か?」


「はい」


「顔色が悪いな」


 死体の顔だから当然だった。


 私は小さく咳をするふりをした。


「少し、体調を崩しておりまして」


 門番が一歩下がった。


 病気がうつると思ったのかもしれない。


 好都合だった。


「宿へ行って休め。道端で倒れるなよ」


「ありがとうございます」


 私は頭を下げた。


 深過ぎた。


 侯爵令嬢の礼になっていた。


 旅人にしては丁寧過ぎる。


 けれど門番は気にしなかった。


 私は門を通り抜けた。


 街へ入った。


     *


 石畳を踏んだ瞬間、記憶が一気に戻ってきた。


 焼きたてのパンの匂い。


 馬の汗。


 果物を売る声。


 教会の鐘。


 水路を流れる音。


 荷車の車輪が石を叩く音。


 すべて知っている。


 私はここで暮らしていた。


 街へ来るたび、馬車の窓から眺めていた。


 幼い頃には、父に手を引かれて歩いたこともある。


 最初に目へ入ったのは、角にあるパン屋だった。


 丸い看板。


 小麦の穂を刻んだ扉。


 あそこのパン屋は、お父様が私を連れて行ってくださった店だ。


 七歳の頃。


 私は焼きたての甘いパンを欲しがった。


 侯爵令嬢が店先で駄々をこねてはならないと、お父様は眉をひそめた。


 それでも、帰りの馬車には小さな包みが置かれていた。


 私は嬉しくて、兄には半分しか分けなかった。


 懐かしい。


 そう思った次の瞬間、別の記憶が重なった。


 前世のコンビニ。


 夜遅く。


 仕事帰り。


 値引きされた菓子パン。


 電子レンジの光。


 缶コーヒー。


 パン屋の香りと、コンビニの白い照明が同時に浮かぶ。


 私は足を止めた。


 どちらも私の記憶。


 どちらも、本当に生きた場所。


 なのに二つは、まったく違う世界にある。


 私はどちらなのだろう。


 侯爵令嬢。


 会社員。


 スライム。


 すべて私。


 それでいい。


 私はまた歩き始めた。


 教会が見える。


 エリシアだった私は、祭礼の日に家族と訪れた。


 母のドレスは深い青。


 父は正装。


 兄は式の途中で欠伸をし、後で叱られていた。


 その記憶へ、前世の通勤途中に見た駅前の神社が重なる。


 初詣。


 長い列。


 寒い夜。


 仕事運を願った。


 翌年も仕事は減らなかった。


 私は少し笑いそうになった。


 口元を動かすと、借り物の頬が左右で違う動きをした。


 慌てて表情を戻す。


 花屋。


 母が好んだ白い花。


 仕立屋。


 舞踏会のドレスを作った店。


 玩具屋。


 幼い兄が木剣を欲しがった。


 噴水。


 私は十歳のとき、縁へ腰掛けて侍女に叱られた。


 すべて覚えている。


 街が私を覚えていなくても、私は街を覚えている。


     *


 侯爵街へ向かう近道として、裏路地へ入った。


 表通りより人が少ない。


 日陰。


 濡れた石。


 酒場の裏口。


 積み上げられた木箱。


 そこで、一人の女を見た。


 壁へ背を預けて立っている。


 胸元の開いた服。


 短い上着。


 赤い唇。


 道を通る男へ声を掛ける。


 春を売る女。


 エリシアの知識が、そう教えた。


 貴族令嬢が近づく場所ではない。


 目を向けることすら慎むべきだと、侍女から言われたことがある。


 けれど私は、目を離せなかった。


 女の身体を見た。


 左右揃った腕。


 左右揃った脚。


 自然に動く腰。


 呼吸する胸。


 健康そうな肌。


 肩から流れる髪。


 傷は見えない。


 欠けたところもない。


 一人分。


 すべてが、一人分の身体として揃っている。


 私はローブの下で、自分の腕を見た。


 右腕と左腕は、違う人間のもの。


 脚も違う。


 胴体と顔も別。


 つなぎ目はローブで隠している。


 歩けば、少しずつずれる。


 動きもぎこちない。


 私は侯爵令嬢だった。


 毎朝、侍女に髪を梳かれた。


 肌へ香油を塗られた。


 爪を整えられた。


 姿勢を教えられた。


 舞踏会へ出た。


 美しいと言われた。


 なのに。


 私の身体はもうない。


 自分で食べてしまった。


 知らなかったとはいえ、私自身が溶かした。


 髪も。


 目も。


 皮膚も。


 胸も。


 指も。


 全部。


 目の前の女は、春を売っている。


 貴族ではない。


 侍女に髪を梳かれることもない。


 舞踏会へ出ることもない。


 それなのに、私よりよい身体を持っている。


 どうして。


 どうして、あの女は全部持っているの。


 どうして私は、こんな身体なの。


 胸の奥に、黒いものが広がった。


 盗賊への憎しみとは違う。


 もっと小さく。


 もっと卑しく。


 でも、強い。


 羨ましい。


 欲しい。


 あの身体が欲しい。


 私は立ち止まったまま、女を見続けた。


 女がこちらへ気づいた。


「お姉さん。誰か待ってるの?」


 私は顔を伏せた。


「……いいえ」


「具合が悪そうだね」


「少しだけ」


「それなら、こんなところにいない方がいいよ」


 女は笑った。


 私を気遣った。


 それが、なぜか腹立たしかった。


 私は侯爵令嬢だ。


 憐れまれる側ではない。


 施しを受ける側でもない。


 あの女より、私の方が上だった。


 家も。


 教育も。


 血筋も。


 なのに、いまは。


 私はその場を離れた。


     *


 しばらく表通りを歩いた。


 けれど、女の身体が頭から離れない。


 一式揃った身体。


 自然な歩き方。


 呼吸。


 瞬き。


 声。


 あれなら屋敷の門前に立っても、不審な魔物には見えない。


 あの身体なら、お父様とお母様の前へ出られる。


 私は足を止めた。


 必要なものを整理する。


 人間らしい外見。


 自然な動作。


 揃った身体。


 街で目立たない服。


 女の身体は、それをすべて持っている。


 これは復讐とは関係ない。


 でも、屋敷へ帰るために必要だ。


 必要な準備。


 必要経費。


 また、その言葉が浮かんだ。


 私は裏路地へ戻った。


     *


 日が傾き始めていた。


 女はまだいた。


 客を探しながら、時折あくびをしている。


 私は離れた場所から様子を見た。


 人がいる。


 酒場の裏口。


 荷を運ぶ男。


 窓から顔を出す女。


 今は駄目。


 私は待った。


 人が減る。


 酒場の裏口が閉まる。


 荷運びの男が去る。


 女が路地の奥へ歩き始める。


 私は後を追った。


 足音を立てない。


 歩き方を人間らしくする必要はない。


 見られていないなら、スライムの身体を使えばいい。


 脚の内側で自分を伸ばし、滑るように進む。


 女は振り返らなかった。


 路地の奥。


 壊れた木箱。


 使われていない物置。


 人の気配がない。


 私は必要のない部品を捨てた。


 ローブの下で、借り物の左腕が外れる。


 片脚。


 胴体の一部。


 地面へ落ちる前に、私の身体で包み込む。


 音を立てないよう、脇へ置く。


 軽くなった。


 人の形を保つ必要もない。


 私はローブの内側から這い出した。


 女が物音に気づき、振り返る。


「誰?」


 私は答えなかった。


 女が一歩下がる。


 その瞬間、私は距離を詰めた。


 女の背後へ回り込む。


 透明な腕を伸ばす。


 首へ巻きつく。


 女が声を上げようとした。


 私は強く締めた。


 爪が腕へ食い込む。


 身体が暴れる。


 壁を蹴る。


 肘が私へ当たる。


 痛い。


 それでも離さなかった。


 記憶が流れ込んでくる前に。


 私は、この女の人生など欲しくなかった。


 名前も。


 家族も。


 この路地へ立つまでに何があったのかも。


 知りたくない。


 私はエリシアだ。


 これ以上、別の誰かになりたくない。


 女の身体から力が抜ける。


 完全に動かなくなるまで、私は待った。


 何も流れ込んでこない。


 記憶は来ない。


 間に合った。


 私は女が死んだことを確かめてから、身体の中へ入った。


     *


 今度は、以前より簡単だった。


 入口は口。


 喉。


 鼻。


 皮膚は溶かさない。


 髪も残す。


 顔も。


 目も。


 爪も。


 筋肉の一部だけを食べる。


 空いた場所へ私が入る。


 腕。


 脚。


 背中。


 腹。


 胸。


 必要なところは残す。


 必要でない内臓は、少しずつ溶かす。


 形が崩れないように。


 外側が傷つかないように。


 女の身体は、最初からすべて揃っていた。


 右腕と左腕。


 右脚と左脚。


 同じ長さ。


 同じ年齢。


 同じ一人の身体として、関節も筋肉もつながっている。


 私は内側から腕を動かした。


 曲げる。


 伸ばす。


 手を握る。


 開く。


 簡単だった。


 脚を動かす。


 膝を曲げる。


 足首を伸ばす。


 立ち上がる。


 身体が傾かない。


 肩もずれない。


 腰も自然に動く。


「ああ」


 声が出た。


 喉も一人分揃っている。


 掠れは少ない。


 私は物置の壁へ手をつき、何度か歩いた。


 右足。


 左足。


 右腕。


 左腕。


 無理に意識しなくても、身体のつながりが動きを助けてくれる。


「やはり、一式揃っていると動きやすいですね」


 思わず声に出した。


 前より、ずっと人間に近い。


 いや。


 外から見れば、人間そのものだ。


 私は胸へ目を落とした。


「……少し大きいですね」


 エリシアだった頃より大きい。


 前世の私よりも大きい気がする。


 服の胸元も開いている。


 このままでは侯爵街を歩くには目立ち過ぎる。


 私は女の上着を締め、ローブを羽織った。


 髪を触る。


 暗い栗色。


「金髪ではありません」


 鏡はない。


 けれど、髪の色が違うことくらいは分かる。


「あとで直しましょう」


 直せるかどうかは分からない。


 でも、いずれエリシアの姿へ戻る。


 これは仮の身体。


 屋敷へ帰るための服のようなもの。


 私は路地に残った古い身体を見た。


 継ぎ接ぎの腕。


 違う長さの脚。


 男の胴。


 女の顔。


 もう必要ない。


 必要なものは、新しい身体の中へ移した。


 残ったものは、死体捨て場で集めた部品に過ぎない。


 私はローブで包み、物置の奥へ押し込んだ。


 誰かに見つかっても、死体が捨てられていると思うだけだろう。


 この街には、そういう場所がいくつもある。


     *


 私はもう一度、街へ戻った。


 歩きやすい。


 驚くほど歩きやすい。


 腕の長さが同じ。


 脚の長さも同じ。


 頭と首と胴体が、最初からつながっている。


 人間の身体は合理的にできている。


 前世の会社なら、一つの部署の担当者を寄せ集めるより、最初から同じチームで仕事をしていた人間を使う方が連携しやすい。


 それと同じなのだろうか。


 少し違う気もする。


 でも、たぶん似ている。


 私は歩きながら、瞬きをした。


 自然にできる。


 呼吸するふりも、胸全体が動くから以前より簡単だ。


 顔の表情も作りやすい。


 口角を上げる。


 微笑む。


 少し怖い。


 もう一度。


 今度は自然。


 これなら、お母様の前へ出ても大丈夫。


     *


 侯爵街へ近づくにつれ、街の景色が変わる。


 店が減る。


 道が広くなる。


 塀が高くなる。


 馬車の装飾が豪華になる。


 見覚えのある家紋が増える。


 子どもたちが道の端で遊んでいた。


 木の輪を棒で転がしている。


 幼い頃、兄もああして遊んでいた。


 私は混ぜてもらえなかった。


 侯爵令嬢は裾を汚してはならないと、侍女に止められた。


 それでも兄がいないとき、こっそり棒を借りた。


 輪はすぐ倒れた。


 兄は簡単そうにやっていたのに。


 あの頃の私は、歩くことに苦労していなかった。


 そのことが不思議だった。


 向こうから侍女が歩いてくる。


 買い物籠。


 見覚えのある制服。


 ラーデンベルク侯爵家のものではない。


 別の家。


 私は安堵する。


 まだ、知っている者とは会いたくない。


 先に屋敷へ着きたい。


 お父様とお母様へ直接説明する。


 それから、ほかの者へ無事を知らせる。


 順番が大切だ。


 会社でも報告順序を間違えれば叱られた。


 まず上司。


 次に関係部署。


 家族なら、まず父と母。


 次に兄。


 その後で使用人。


 完璧。


 角を曲がる。


 見覚えのある馬車が通り過ぎた。


 側面に刻まれた家紋。


 ラーデンベルク家。


 私は足を止めた。


 家の馬車。


 私が何度も乗った馬車。


 御者台の男も知っている。


 屋敷で働いていた御者だ。


 声を掛けようとした。


 エリシアです。


 ここにいます。


 そう叫ぼうとした。


 けれど、言葉が出なかった。


 御者は私を見ても、何も反応しなかった。


 当然だった。


 顔が違う。


 髪も違う。


 身体も違う。


 いまの私は、見知らぬ女。


 でも中身はエリシアなのに。


 胸の奥が痛んだ。


 心臓は動いていない。


 それでも痛い。


 屋敷へ行けば分かる。


 お父様なら。


 お母様なら。


 私だけが知っていることを話せば、きっと信じてくれる。


 幼い頃の思い出。


 家族しか知らない会話。


 父の書斎の隠し棚。


 母が眠れない夜に飲むお茶。


 兄が庭の彫像を壊したこと。


 全部知っている。


 私はエリシアだ。


     *


 屋敷が見えた。


 高い鉄柵。


 石の門柱。


 その向こうに広がる庭。


 白い壁。


 二階の窓。


 温室。


 全部、記憶のまま。


 私は立ち止まった。


 あそこが私の家。


 私が生まれた場所。


 育った場所。


 家族がいる場所。


 盗賊に襲われる前、私はあそこから馬車で出た。


 戻るつもりだった。


 夕方には帰る予定だった。


 それが、少し遅くなっただけ。


 身体が少し変わっただけ。


 私はローブの前を整えた。


 髪を指で梳く。


 栗色。


 エリシアではない色。


 それでも構わない。


 今は仮の身体。


 中身は変わっていない。


 私は門へ近づいた。


 門番がこちらを見る。


 見覚えのある男だった。


 屋敷の門を長く守っている。


 私が幼い頃から知っている。


 あの男も、私を知っている。


 けれど今は、気づかない。


 私は胸へ手を置いた。


 心臓はない。


 それでも、深呼吸するふりをする。


 瞬きをする。


 微笑む。


「お父様」


 小さく呟く。


「お母様」


 声は、人間の女のもの。


 エリシアの声ではない。


 でも、言葉は私のもの。


 記憶も。


 思いも。


 帰りたいという気持ちも。


 全部、私のもの。


「エリシアは、帰ってまいりました」


 少し姿は変わってしまいましたが。


 私はそう心の中で付け足した。


 そして、門番へ向かって歩き出した。

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