第三話 外側を残せばいい
朝になっても、私の手は透明だった。
昨日より形はよくなっている。
指は五本。
親指の向きも正しい。
握ることも、開くこともできる。
けれど、人間の手には見えない。
骨もない。
爪もない。
血管もない。
皮膚もない。
どう見ても、手の形をしたスライムだった。
これでは街へ入れない。
服を着ても、袖口から透明な指が出れば、その場で魔物だと分かる。
ならば、色をつける。
そう考えた。
私は身体の中へ泥を取り込んだ。
茶色。
少し赤い。
これを手の部分へ集める。
透明な指が、濁った茶色になった。
人間の肌。
そう思いたかった。
実際には、泥水を詰めた革袋に近い。
指を曲げるたび、中の泥が偏る。
爪を作ろうと小石を薄く並べると、指先から飛び出した。
爪ではなく、石の棘になった。
私は泥を吐き出した。
色だけ真似ても駄目だった。
人間の肌は、ただ色がついているわけではない。
皮膚がある。
その下に脂がある。
筋肉がある。
血が流れている。
骨がある。
全部が重なって、人間の身体になる。
私はそれを知っている。
知っているのに、作れない。
貴族令嬢としては、自分の肌を毎日見ていた。
前世では化粧もした。
けれど、皮膚を一から作ったことなどない。
当然だった。
*
死体捨て場には、昨日の男の残りがあった。
私が食べなかった脚。
服の下に隠れた背中。
顔。
ほかのスライムたちは柔らかい腹や傷口へ集まっていた。
皮膚の外から溶かす。
肉を食べる。
骨を残す。
それが、いつもの食べ方だった。
私も同じだった。
外から包む。
皮膚を溶かす。
その下の肉を食べる。
だから、食べ終えた後には骨しか残らない。
私は男の脚へ近づいた。
革靴は片方なくなっている。
もう片方は残っていた。
ズボンも泥で汚れている。
膝から下には大きな傷がない。
皮膚も、肉も、形を保っている。
私は脚の周りを這った。
外側を見ながら、昨日の失敗を思い出す。
骨だけを使って、人間の身体を作ろうとした。
でも、骨の位置が分からない。
筋肉の付き方も分からない。
皮膚も作れない。
なら。
作らなければいい。
そこにあるものを、そのまま使えばいい。
私は男の足首から、ズボンの内側へ潜り込んだ。
皮膚の表面には触れない。
傷口もない。
入口が必要だった。
私は靴の上から足首を包み、細く身体を伸ばした。
爪の隙間。
耳。
鼻。
口。
肛門。
人間の身体には、外から中へ入れる場所がある。
けれど、この脚だけでは届かない。
私は膝裏にあった小さな裂け目を見つけた。
野犬に噛まれた傷だろうか。
そこから入り込む。
皮膚の下。
肉の中。
昨日までの私は、外側から全部溶かしていた。
今度は違う。
皮膚を残す。
皮膚の内側だけを溶かす。
私は傷口から少しずつ中へ広がった。
筋肉に触れる。
溶かす。
ただし、全部は食べない。
外側の形が崩れない程度に、少しずつ。
ふくらはぎ。
脛。
膝。
肉が消えた場所へ、私の身体を入れる。
人間の筋肉と同じ形にする必要はない。
空いたところを埋めればいい。
私は内側から脚を支えた。
男の皮膚は残っている。
毛も残っている。
爪も残っている。
外から見れば、まだ人間の脚だった。
私は足首を曲げてみた。
動いた。
不自然に。
けれど、皮膚が曲がった。
指も動かす。
五本の足指が、一緒に握られるように縮んだ。
私は止まった。
驚いた。
いま。
人間の足が動いた。
死体の足。
私が内側から動かした。
もう一度。
足首を伸ばす。
曲げる。
足指を開く。
今度は三本だけ開き、残り二本は動かなかった。
それでも。
できた。
私は外側を作らなくていい。
もうある外側を使えばいい。
*
私は夢中になった。
脚の中から、さらに上へ進む。
膝の裏。
太腿。
尻。
皮膚を破らないように、筋肉の一部だけを食べる。
骨の周りは残す。
腱らしい硬い筋も残す。
どれが必要で、どれが不要なのか分からない。
だから、全部を消さない。
少し食べる。
空いた場所へ入る。
動かす。
崩れたら戻す。
私は男の脚の中へ成り代わっていった。
筋肉を全部真似るのではない。
筋肉があった場所を、私が埋める。
内側から縮む。
内側から伸びる。
それだけで、皮膚と骨が動く。
人間の脚が立ち上がった。
正確には、片脚だけが地面から持ち上がった。
身体の残りはまだ外にある。
巨大な透明の塊から、人間の脚だけが突き出している。
異様だった。
私自身でも、異様だと思う。
けれど、成功だった。
私は脚を地面へついた。
膝を曲げる。
伸ばす。
足裏で土を踏む。
感触がある。
皮膚の外から伝わってくる。
泥。
小石。
冷たさ。
重さ。
人間だった頃の足とは違う。
でも、近い。
私はもう片方の脚も探した。
男の身体は片脚だけ残っている。
もう片方は、ほかのスライムに食べられていた。
仕方がない。
別の死体を使う。
死体捨て場には、何人分もの身体がある。
ただし、どれでもいいわけではない。
腐りすぎているもの。
皮膚が裂けているもの。
野犬に食われたもの。
病で膨れているもの。
外側として使えるものは少ない。
私は探した。
若い男。
老人。
痩せた女。
片腕のない男。
顔の潰れた死体。
どれも一部が欠けている。
私は、膝から下だけ無傷の女の脚を見つけた。
男の脚と比べる。
長さが違う。
太さも違う。
左右も合わない。
けれど、試す価値はある。
私は女の脚にも入り込んだ。
今度は、足の裏に小さな裂傷があった。
そこから進む。
皮膚を残す。
筋肉を少しずつ食べる。
空いた場所へ私が入る。
内臓はない。
脚だから当然だった。
骨と腱と血管らしい細い管。
私はそれらをなるべく残した。
残す理由は分からない。
見た目を保つため。
関節を動かすため。
壊したら戻せないため。
会社員時代なら、既存設備を止めずに中身だけ更新する作業。
貴族令嬢時代なら、古い礼装の表布を残し、裏地だけ直す作業。
どちらの例えも少し違う。
でも、考え方は同じだった。
外側を残す。
中だけを入れ替える。
*
二本の脚ができた。
右脚は男。
左脚は女。
長さが違う。
肌の色も違う。
片方は毛深い。
片方は細い。
どう見ても一人の人間の脚ではない。
それでも、私はその二本を自分の下へ並べた。
骨盤がない。
腰がない。
だから、脚の上端を私の身体でつなぐ。
透明な塊から、左右の脚が生えている。
私は立とうとした。
右脚へ力を入れる。
左脚へ力を入れる。
身体を持ち上げる。
立った。
一瞬だけ。
次の瞬間、左右の長さの違いで傾いた。
右膝が逆へ曲がる。
左足首がねじれる。
私は倒れた。
死体の脚が地面へ打ちつけられた。
痛みは弱い。
皮膚が裂れた。
そこから私の身体が少し漏れた。
私は慌てて内側へ戻す。
傷口を塞ぐ。
皮膚をくっつけることはできない。
でも、内側から押さえれば、形は保てる。
もう一度。
右脚を少し縮める。
男の脚の中で、自分の身体を縮ませ、膝を深く曲げる。
長さを合わせる。
左脚をまっすぐにする。
立つ。
今度は、二呼吸分。
呼吸はしていないけれど。
三呼吸分。
四呼吸分。
私は立っていた。
人間の脚で。
死体の脚で。
私の脚として。
嬉しい。
気持ち悪い。
その二つが同時にあった。
これは人間に戻る方法なのだろうか。
それとも、死体を着ているだけなのだろうか。
違いが分からない。
でも、いまの私には必要だった。
*
脚だけでは歩けない。
腰が必要。
腹が必要。
背中が必要。
内臓はどうする?
心臓。
肺。
胃。
腸。
肝臓。
エリシアの記憶では、名前だけなら知っている。
前世でも保健体育で習った。
けれど、それらがどこにあり、どう動くか、正確には分からない。
そもそも、私は呼吸をしない。
食べ物は身体全体で溶かす。
血液も必要ない。
なら、内臓を全部残す必要はないのでは?
外から人間に見えればいい。
胸が上下する。
口から声が出る。
食事をするふりができる。
肌がある。
髪がある。
目がある。
それだけで、人間として街へ入れるかもしれない。
私は死体の胴体を探した。
なるべく傷の少ないもの。
皮膚が残っているもの。
腐敗が進みすぎていないもの。
男の胴体。
腹は私が食べてしまった。
女の胴体。
胸が大きく裂けている。
老人。
皮膚は残っているが、身体が小さい。
若い男。
顔はないが、胸と背中は無傷。
私はその若い男を選んだ。
服の下へ潜る。
首の切断面から中へ入る。
胸の内側。
肋骨。
肺。
心臓。
冷たい。
動かない。
私はまず、肺の一部を食べた。
柔らかい。
空気を含んでいた場所が潰れ、そこへ私が入る。
次に、心臓の外側。
全部は食べない。
形を残す。
心臓の中へ入り、空洞を満たす。
胃。
腸。
肝臓。
どれも必要か分からない。
腐り始めているものは食べる。
形を支えているものは残す。
内臓の間へ私が広がる。
私は死体の中から、死体そのものへ成り代わっていった。
外側の皮膚は溶かさない。
筋肉は一部だけ残す。
骨格は使う。
内臓は形を保つ分だけ残す。
足りないところは、私が埋める。
死体の内部が、私になる。
やがて、若い男の胸が動いた。
私が内側から持ち上げた。
下げる。
持ち上げる。
呼吸しているように見える。
肺は動いていない。
空気も必要ない。
けれど、胸だけは上下する。
次に腕。
右腕は残っている。
左腕は肘から先がない。
右肩から中へ入り、筋肉の隙間へ広がる。
肘を曲げる。
指を握る。
開く。
昨日、自分の身体だけで作った透明な手より、ずっと簡単だった。
指の形は、最初からある。
爪もある。
関節もある。
私は内側から動かすだけ。
これだ。
私が作る必要はなかった。
人間の身体そのものが、見本であり、外殻であり、道具だった。
*
問題は、組み合わせだった。
若い男の胴体。
男の右脚。
女の左脚。
右腕。
左腕はない。
首から上もない。
一人の人間には見えない。
私は死体捨て場から、使えそうな左腕を探した。
老人の腕。
細すぎる。
大柄な男の腕。
太すぎる。
若い女の腕。
長さは近い。
私はそれを選んだ。
肩の皮膚は残っていない。
つなぎ目が露出する。
そこは私の身体で内側から接続し、外側を服で隠すしかない。
首も同じ。
顔を手に入れなければならない。
私は周囲を見た。
顔。
人間の顔。
目。
鼻。
口。
髪。
エリシアの顔が欲しい。
私の顔。
侯爵令嬢だった頃の顔。
けれど、エリシアの身体はもう溶かしてしまった。
皮膚も。
髪も。
目も。
全部、私が食べた。
残っていない。
私は初めて、自分が何を失ったのか理解した。
記憶の中にはある。
鏡に映った顔。
淡い金の髪。
灰青色の目。
母に似た鼻。
笑うと少しだけ上がる口角。
でも、外側はない。
私は私の顔を食べてしまった。
知らずに。
全部。
私は動けなくなった。
しばらく、死体の胸の中で何も考えられなかった。
人間に戻る。
そう決めた。
でも、エリシアの身体には戻れない。
私の顔は、もうない。
ならば。
作るしかない。
別の人間の顔を使って、少しずつ私の顔へ変える。
皮膚の内側から押す。
鼻の形を変える。
頬を上げる。
口を整える。
目の色は変えられないかもしれない。
髪も違う。
それでも、近づける。
いまはまず、顔を動かす練習が必要。
*
私は比較的傷の少ない女の頭部を見つけた。
年齢はエリシアより上。
黒い髪。
目は閉じている。
口元に血がついている。
首は途中で裂けていた。
そこから入れる。
私は首の断面から、頭の中へ進んだ。
筋肉。
舌。
喉。
目の裏。
頭蓋骨。
脳。
脳に触れたとき、私は止まった。
記憶があるかもしれない。
この女の人生が残っているかもしれない。
でも、何も来なかった。
冷たい肉。
ただの死体。
私は脳の一部を食べた。
何も思い出さない。
空いた場所へ自分を入れる。
目の裏へ回る。
まぶたを持ち上げる。
片目が開いた。
濁った茶色の目。
焦点は合わない。
私は内側から眼球を動かした。
右。
左。
上。
下。
動く。
見えている景色は、いつものスライムの感覚と変わらない。
眼球を通して見ているわけではない。
でも、人間から見れば、目が動いているように見える。
口。
唇。
頬。
顎。
私は筋肉を少しずつ食べ、その場所へ入る。
口を開ける。
閉じる。
唇を横へ引く。
笑顔。
そう思った。
できたのは、死体が歯を剥き出したような表情だった。
怖い。
私でも怖い。
もう一度。
口角だけ上げる。
頬を少し押す。
目を細める。
今度は少しましだった。
顔が動く。
人間の顔が。
私の意思で。
私は喉へ身体を伸ばした。
声。
次は声だ。
喉の中には、薄いひだがある。
声帯。
前世の知識が名前を教えた。
そこへ空気を通せば音が出る。
私は肺を使えない。
けれど、自分の身体で空気を押し出すことはできるかもしれない。
口から空気を取り込む。
喉の奥へ溜める。
身体を縮め、押し出す。
「……ぁ」
音が出た。
小さい。
掠れている。
でも、声だった。
私はもう一度、空気を押した。
「……あ」
人間の声。
女の声。
死体の喉を使った、私の声。
嬉しさで顔が崩れた。
片方のまぶたが裏返り、口が大きく歪んだ。
まだ練習が必要。
けれど。
私は外側を手に入れる方法を知った。
*
夕方。
死体捨て場の窪地に、一人の人間らしきものが立っていた。
胴体は若い男。
右脚も男。
左脚は女。
右腕は男。
左腕は別の女。
顔は黒髪の女。
首と肩のつなぎ目は服で隠した。
左右の脚の違いも、長いズボンと靴で隠す。
服は死体から集めた。
泥と血で汚れている。
大きさも合わない。
それでも、裸よりはいい。
私は一歩進んだ。
右脚。
左脚。
身体が傾く。
腕を広げて支える。
二歩目。
三歩目。
倒れそうになる。
踏みとどまる。
歩ける。
遅い。
不自然。
けれど歩ける。
私は窪地に溜まった雨水を覗いた。
水面に、人間の顔が映る。
知らない女。
濁った目。
黒い髪。
血の消えない口元。
首から下は大柄な男。
とてもエリシアには見えない。
人間に見えるかどうかも怪しい。
それでも、透明なスライムではない。
遠目なら。
暗がりなら。
服を整えれば。
人間だと誤認させられるかもしれない。
私は水面の顔へ向かって、口を動かした。
「わ……たし」
声が掠れる。
もう一度。
「私は」
言えた。
次。
「エ……リ、シア」
水面の女が、ぎこちなく口を動かす。
「私は、エリシア」
違う顔。
違う身体。
死体をつなぎ合わせた外側。
その内側に、私がいる。
私はエリシア。
そう言えば、私はエリシアだ。
いまはまだ、借り物の身体。
外側だけの人間。
でも、これで街へ近づける。
服を探す。
歩く練習をする。
声を整える。
顔を変える。
そして盗賊を探す。
私は水面へ微笑みかけた。
今度は、少しだけ人間らしい笑顔になった。
死体の中身を食べれば、外側を手に入れられる。
筋肉の一部を食べ、その場所へ成り代わる。
内臓を食べ、その空洞を私が埋める。
皮膚を溶かさなければ、人間の見た目は残る。
私はようやく、人間へ戻る方法を見つけた。
それが本当に「戻る」ことなのかは、まだ考えなかった。




