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貴族令嬢だった私は、スライムになって盗賊へ復讐する 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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第二話 まずは人の形を覚える

 男の腕は、エリシアだった私よりも固かった。


 日に晒されていたせいか、皮は乾き、肉も冷えている。


 それでも食べられないほどではない。


 私は袖口から入り込み、手首を包んだ。


 皮。


 脂。


 筋。


 肉。


 指先から少しずつ溶かしていく。


 人を食べている。


 そう考えると、やはり気分が悪かった。


 気分が悪いという感覚が、スライムの身体のどこにあるのかは分からない。


 胃はない。


 吐き気もない。


 それでも、これは嫌なことだと分かる。


 私は侯爵令嬢だった。


 前世では会社員だった。


 どちらの人生でも、人間を食べたことなどない。


 けれど、いまの私はスライムだ。


 肉を食べなければ、大きくなれない。


 大きくならなければ、人間の形になれない。


 人間の形になれなければ、盗賊を探せない。


 これは必要なこと。


 必要経費。


 そう考えることにした。


 経費で人肉を処理していい会社があるかは知らない。


 たぶん、ない。


     *


 男の手を半分ほど溶かしたところで、私は待った。


 記憶が流れ込んでくるかもしれない。


 名前。


 家族。


 死ぬ直前に見たもの。


 何か一つくらい、私の中へ入ってくると思った。


 何も来なかった。


 見えるのは死体捨て場だけ。


 聞こえるのはカラスの声だけ。


 感じるのは、冷えた肉が私の中で崩れていく感触だけだった。


 私はさらに食べた。


 肘まで。


 肩まで。


 やはり何も思い出さない。


 男の人生は、私の中へ入ってこなかった。


 エリシアのときとは違う。


 なぜ?


 食べた量の違いだろうか。


 エリシアは身体の大半を取り込んだ。


 この男は腕だけ。


 ならば、もっと食べればいい。


 私は男の胸へ広がった。


 服は邪魔だった。


 布は食べられなくはないが、肉よりずっと遅い。


 ボタンも、留め具も、革帯も残る。


 私は襟元から服の下へ入り、肌に直接触れた。


 胸。


 腹。


 首。


 時間をかけて溶かした。


 それでも、何も来なかった。


 この男が誰だったのか。


 なぜ死んだのか。


 どこで暮らしていたのか。


 何一つ分からない。


 そこで、ようやく違いに気づいた。


 エリシアは生きていた。


 この男は、最初から死んでいた。


 私は、生きたままのエリシアを食べた。


 彼女の心臓が止まるところまで、身体の中へ取り込んでいた。


 もしかすると、あの記憶は肉に入っていたのではない。


 死ぬ瞬間にだけ起こる、何かだったのかもしれない。


 走馬灯。


 前世のゲームや物語で知った言葉が浮かんだ。


 人は死ぬ直前、自分の人生を思い出す。


 私は、その走馬灯を見た?


 いや。


 違う。


 あれは私の記憶だ。


 私がエリシアだった記憶。


 私は盗賊に襲われた。


 腹を刺された。


 そしてスライムへ転生した。


 そうでなければ、父や母を思っただけで、どうしてこんなに胸が苦しくなるのか。


 胸はないけれど。


 ともかく。


 死体を食べても、記憶は戻らない。


 そこだけは分かった。


     *


 男の肉を食べ終えた頃には、私はかなり大きくなっていた。


 もともとの私は、両手で抱えられるくらいだった。


 エリシアを食べてからは、大きな桶ほどになった。


 さらに男を半分ほど食べた今は、地面へ平たく広がれば、人一人を覆える。


 ただし、食べた肉のすべてが身体になったわけではない。


 骨。


 歯。


 髪。


 爪。


 金属。


 革の一部。


 溶かしにくいものは、私の中に残った。


 最初は、そのまま抱えていた。


 すると動きにくい。


 這うたびに骨が引っかかり、身体の形が崩れる。


 私は不要なものを外へ押し出した。


 男の骨が、濡れた音を立てて地面へ転がった。


 自分でやっておいて、ひどい光景だった。


 けれど、少しだけ発見もあった。


 私の身体は、取り込んだものを好きな位置へ動かせる。


 骨を中で並べることもできた。


 私は男の指の骨を集めた。


 五本。


 掌。


 手首。


 記憶の中にある手の形を思い浮かべながら、骨を並べる。


 その周りへ自分の身体を集めた。


 細く伸ばす。


 丸みをつける。


 指を五本に分ける。


 透明な手ができた。


 人間の手。


 骨が透けて見えることを除けば、形だけはかなり近い。


 私はそれを持ち上げた。


 指を曲げようとした。


 五本すべてが同時に内側へ潰れた。


 違う。


 一本ずつ。


 親指。


 人差し指。


 中指。


 薬指。


 小指。


 名前は分かる。


 動かし方も知っている。


 けれど、知っていることと、できることは別だった。


 私は何度も試した。


 骨を動かす。


 身体を縮める。


 指を曲げる。


 伸ばす。


 握る。


 開く。


 三度目で、親指が逆へ曲がった。


 五度目で、骨が身体を突き破った。


 七度目で、手首から崩れた。


 十度目で、ようやく拳らしい形になった。


 私は嬉しくなった。


 思わず腕全体を持ち上げる。


 その重みで根元が千切れた。


 透明な手が地面へ落ち、すぐに本体へ溶け戻った。


 失敗。


 けれど、進歩はしている。


 最初は一本の突起すら保てなかった。


 いまは短い時間なら、指のある手を作れる。


 計画を立てる。


 試す。


 失敗する。


 原因を考える。


 やり直す。


 会社員だった頃、この繰り返しを改善活動と呼んでいた。


 侯爵家では、刺繍も舞踏も同じだった。


 最初からできたわけではない。


 何度も練習した。


 ならば、擬態も同じ。


 できるまで繰り返せばいい。


     *


 問題は、見本だった。


 手の形は分かる。


 腕も分かる。


 顔も、足も、髪も分かる。


 私は十七年間、人間の身体で生きていた。


 その前にも、人間として生きていた。


 けれど、全身を同時に作ろうとすると、どこから手をつけていいのか分からない。


 試しに、身体を縦へ伸ばしてみた。


 人間の背丈。


 頭。


 胴。


 脚。


 二本の腕。


 私は地面からゆっくり立ち上がった。


 腰のあたりまではうまくいった。


 胸を作る。


 肩を広げる。


 首を細くする。


 頭を丸くする。


 その途中で、下半身が耐えられなくなった。


 ぐにゃり。


 私は横へ倒れた。


 水袋を落としたような音がした。


 近くにいたカラスが驚いて飛び上がった。


 悔しい。


 人間は、どうしてあんなに細い脚二本で立てるのだろう。


 骨があるから?


 筋肉があるから?


 関節があるから?


 私は押し出した骨を見た。


 使えるかもしれない。


 人間の骨格を、そのまま中へ入れる。


 その周りへ肉の代わりに私の身体を集めれば、人間の形を保てる。


 素晴らしい。


 さすが私。


 私は男の骨を集め始めた。


 問題は、骨が全部揃っていないことだった。


 ほかのスライムが食べた部分もある。


 野犬が持っていったものもある。


 そもそも、どの骨がどこへ入るのか、正確には分からない。


 貴族令嬢は人体の骨格など学ばない。


 OLも医学関係ではなかった。


 ゲームの骸骨兵はよく見たが、あれを参考にしてよいのだろうか。


 私は長い骨を二本並べた。


 脚。


 短い骨をつなぐ。


 腕。


 丸い骨。


 これは膝だろうか。


 肩だろうか。


 分からない。


 しばらく並べた結果、腕が三本あり、片脚だけ異様に長い、人間らしきものができた。


 私は見なかったことにした。


 骨格案は保留。


 まずは骨なしで、形を保つ練習を続ける。


     *


 日が傾く頃、死体捨て場へ野犬が来た。


 三匹。


 痩せている。


 肋骨が浮き、毛は泥で固まっていた。


 ほかのスライムたちは、ゆっくり死体の隙間へ逃げた。


 私は逃げ遅れた。


 大きくなりすぎていた。


 一匹の野犬が、私へ近づいた。


 鼻先を寄せる。


 唸る。


 前脚で私を掻いた。


 身体がえぐれた。


 痛い。


 私は反射的に縮んだ。


 犬がもう一度、前脚を振る。


 逃げる。


 そう思ったのに、エリシアの記憶が邪魔をした。


 盗賊。


 押さえつけられる腕。


 逃げられなかった身体。


 また奪われる。


 また何もできない。


 嫌だ。


 私は犬の前脚へ張りついた。


 犬が吠えた。


 脚を振る。


 地面へ叩きつけられる。


 身体が千切れそうになる。


 それでも離さなかった。


 毛の隙間から皮膚へ触れる。


 溶かす。


 犬がさらに暴れた。


 ほかの二匹が吠えながら後退する。


 私は脚から上へ這った。


 腹。


 胸。


 首。


 犬の身体は熱かった。


 心臓が速く打っている。


 生きている。


 私は気づいた。


 このまま食べれば、また記憶が流れ込むかもしれない。


 犬の人生。


 犬が見た景色。


 犬の恐怖。


 私は一瞬、止まった。


 その隙に、犬が身体を地面へ擦りつけた。


 私は剥がされ、泥の上へ転がった。


 犬たちは逃げていった。


 追えなかった。


 私の身体は大きく裂け、元へ戻るまで時間がかかった。


 けれど、犬の前脚から少しだけ肉を溶かしていた。


 その肉は、私の中へ残っている。


 記憶は来ない。


 死ぬところまで食べなかったからだろうか。


 それとも、人間でなければ駄目なのか。


 分からない。


 試すには、生き物を殺して食べる必要がある。


 私は復讐のために強くなりたい。


 けれど、何でも殺していいとは思えなかった。


 少なくとも、いまは。


 野犬に襲われて食べ返したのは仕方がない。


 これは正当防衛。


 たぶん。


     *


 夜になった。


 私は窪地の端にある倒木の下へ潜り込んだ。


 今日分かったことを整理する。


 一つ。


 死体を食べれば、大きくなれる。


 二つ。


 死体からは記憶を得られない。


 三つ。


 身体の形は変えられる。


 四つ。


 人間の形を保つには、まだ練習が必要。


 五つ。


 私は野犬より弱い。


 最後の項目は認めたくない。


 だが、事実を無視して計画を立ててはいけない。


 いまの私が盗賊へ挑んでも勝てない。


 まずは、身体を自在に動かせるようになる。


 次に、素早く這う方法を覚える。


 その次に、人間の形。


 さらに、顔。


 声。


 服。


 課題が多い。


 前世の会社なら、工程表を作るところだった。


 紙も筆もないので、頭の中だけで作る。


 第一段階。


 捕食による身体の拡大。


 第二段階。


 手足の形成。


 第三段階。


 全身擬態。


 第四段階。


 発声。


 第五段階。


 街への潜入。


 第六段階。


 盗賊の捜索。


 第七段階。


 復讐。


 完璧。


 期間は未定。


 予算も未定。


 担当者は私一人。


 進捗は、あまりよくない。


 それでも、始めなければ終わらない。


 私は身体の一部を持ち上げた。


 細く伸ばす。


 五つに分ける。


 親指。


 人差し指。


 中指。


 薬指。


 小指。


 今度は骨を入れない。


 自分の身体だけで形を作る。


 指を一本ずつ曲げる。


 開く。


 また曲げる。


 透明で、爪もなく、細部も歪んでいる。


 それでも、人間の手だった。


 私はその手を、しばらく崩さずに保つことができた。


 手が作れる。


 なら、腕も作れる。


 腕が作れるなら、脚も作れる。


 脚が作れるなら、立てる。


 立てるなら、歩ける。


 歩けるなら、人間へ戻れる。


 私はエリシアだ。


 侯爵令嬢だった。


 前世では会社員だった。


 そして今は、スライムだ。


 けれど、ずっとスライムでいるつもりはない。


 透明な手を握る。


 ゆっくり開く。


 もう一度、握る。


 復讐のための最初の武器は、剣ではなかった。


 まだ何も掴めない、柔らかな五本の指だった。

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