第二話 まずは人の形を覚える
男の腕は、エリシアだった私よりも固かった。
日に晒されていたせいか、皮は乾き、肉も冷えている。
それでも食べられないほどではない。
私は袖口から入り込み、手首を包んだ。
皮。
脂。
筋。
肉。
指先から少しずつ溶かしていく。
人を食べている。
そう考えると、やはり気分が悪かった。
気分が悪いという感覚が、スライムの身体のどこにあるのかは分からない。
胃はない。
吐き気もない。
それでも、これは嫌なことだと分かる。
私は侯爵令嬢だった。
前世では会社員だった。
どちらの人生でも、人間を食べたことなどない。
けれど、いまの私はスライムだ。
肉を食べなければ、大きくなれない。
大きくならなければ、人間の形になれない。
人間の形になれなければ、盗賊を探せない。
これは必要なこと。
必要経費。
そう考えることにした。
経費で人肉を処理していい会社があるかは知らない。
たぶん、ない。
*
男の手を半分ほど溶かしたところで、私は待った。
記憶が流れ込んでくるかもしれない。
名前。
家族。
死ぬ直前に見たもの。
何か一つくらい、私の中へ入ってくると思った。
何も来なかった。
見えるのは死体捨て場だけ。
聞こえるのはカラスの声だけ。
感じるのは、冷えた肉が私の中で崩れていく感触だけだった。
私はさらに食べた。
肘まで。
肩まで。
やはり何も思い出さない。
男の人生は、私の中へ入ってこなかった。
エリシアのときとは違う。
なぜ?
食べた量の違いだろうか。
エリシアは身体の大半を取り込んだ。
この男は腕だけ。
ならば、もっと食べればいい。
私は男の胸へ広がった。
服は邪魔だった。
布は食べられなくはないが、肉よりずっと遅い。
ボタンも、留め具も、革帯も残る。
私は襟元から服の下へ入り、肌に直接触れた。
胸。
腹。
首。
時間をかけて溶かした。
それでも、何も来なかった。
この男が誰だったのか。
なぜ死んだのか。
どこで暮らしていたのか。
何一つ分からない。
そこで、ようやく違いに気づいた。
エリシアは生きていた。
この男は、最初から死んでいた。
私は、生きたままのエリシアを食べた。
彼女の心臓が止まるところまで、身体の中へ取り込んでいた。
もしかすると、あの記憶は肉に入っていたのではない。
死ぬ瞬間にだけ起こる、何かだったのかもしれない。
走馬灯。
前世のゲームや物語で知った言葉が浮かんだ。
人は死ぬ直前、自分の人生を思い出す。
私は、その走馬灯を見た?
いや。
違う。
あれは私の記憶だ。
私がエリシアだった記憶。
私は盗賊に襲われた。
腹を刺された。
そしてスライムへ転生した。
そうでなければ、父や母を思っただけで、どうしてこんなに胸が苦しくなるのか。
胸はないけれど。
ともかく。
死体を食べても、記憶は戻らない。
そこだけは分かった。
*
男の肉を食べ終えた頃には、私はかなり大きくなっていた。
もともとの私は、両手で抱えられるくらいだった。
エリシアを食べてからは、大きな桶ほどになった。
さらに男を半分ほど食べた今は、地面へ平たく広がれば、人一人を覆える。
ただし、食べた肉のすべてが身体になったわけではない。
骨。
歯。
髪。
爪。
金属。
革の一部。
溶かしにくいものは、私の中に残った。
最初は、そのまま抱えていた。
すると動きにくい。
這うたびに骨が引っかかり、身体の形が崩れる。
私は不要なものを外へ押し出した。
男の骨が、濡れた音を立てて地面へ転がった。
自分でやっておいて、ひどい光景だった。
けれど、少しだけ発見もあった。
私の身体は、取り込んだものを好きな位置へ動かせる。
骨を中で並べることもできた。
私は男の指の骨を集めた。
五本。
掌。
手首。
記憶の中にある手の形を思い浮かべながら、骨を並べる。
その周りへ自分の身体を集めた。
細く伸ばす。
丸みをつける。
指を五本に分ける。
透明な手ができた。
人間の手。
骨が透けて見えることを除けば、形だけはかなり近い。
私はそれを持ち上げた。
指を曲げようとした。
五本すべてが同時に内側へ潰れた。
違う。
一本ずつ。
親指。
人差し指。
中指。
薬指。
小指。
名前は分かる。
動かし方も知っている。
けれど、知っていることと、できることは別だった。
私は何度も試した。
骨を動かす。
身体を縮める。
指を曲げる。
伸ばす。
握る。
開く。
三度目で、親指が逆へ曲がった。
五度目で、骨が身体を突き破った。
七度目で、手首から崩れた。
十度目で、ようやく拳らしい形になった。
私は嬉しくなった。
思わず腕全体を持ち上げる。
その重みで根元が千切れた。
透明な手が地面へ落ち、すぐに本体へ溶け戻った。
失敗。
けれど、進歩はしている。
最初は一本の突起すら保てなかった。
いまは短い時間なら、指のある手を作れる。
計画を立てる。
試す。
失敗する。
原因を考える。
やり直す。
会社員だった頃、この繰り返しを改善活動と呼んでいた。
侯爵家では、刺繍も舞踏も同じだった。
最初からできたわけではない。
何度も練習した。
ならば、擬態も同じ。
できるまで繰り返せばいい。
*
問題は、見本だった。
手の形は分かる。
腕も分かる。
顔も、足も、髪も分かる。
私は十七年間、人間の身体で生きていた。
その前にも、人間として生きていた。
けれど、全身を同時に作ろうとすると、どこから手をつけていいのか分からない。
試しに、身体を縦へ伸ばしてみた。
人間の背丈。
頭。
胴。
脚。
二本の腕。
私は地面からゆっくり立ち上がった。
腰のあたりまではうまくいった。
胸を作る。
肩を広げる。
首を細くする。
頭を丸くする。
その途中で、下半身が耐えられなくなった。
ぐにゃり。
私は横へ倒れた。
水袋を落としたような音がした。
近くにいたカラスが驚いて飛び上がった。
悔しい。
人間は、どうしてあんなに細い脚二本で立てるのだろう。
骨があるから?
筋肉があるから?
関節があるから?
私は押し出した骨を見た。
使えるかもしれない。
人間の骨格を、そのまま中へ入れる。
その周りへ肉の代わりに私の身体を集めれば、人間の形を保てる。
素晴らしい。
さすが私。
私は男の骨を集め始めた。
問題は、骨が全部揃っていないことだった。
ほかのスライムが食べた部分もある。
野犬が持っていったものもある。
そもそも、どの骨がどこへ入るのか、正確には分からない。
貴族令嬢は人体の骨格など学ばない。
OLも医学関係ではなかった。
ゲームの骸骨兵はよく見たが、あれを参考にしてよいのだろうか。
私は長い骨を二本並べた。
脚。
短い骨をつなぐ。
腕。
丸い骨。
これは膝だろうか。
肩だろうか。
分からない。
しばらく並べた結果、腕が三本あり、片脚だけ異様に長い、人間らしきものができた。
私は見なかったことにした。
骨格案は保留。
まずは骨なしで、形を保つ練習を続ける。
*
日が傾く頃、死体捨て場へ野犬が来た。
三匹。
痩せている。
肋骨が浮き、毛は泥で固まっていた。
ほかのスライムたちは、ゆっくり死体の隙間へ逃げた。
私は逃げ遅れた。
大きくなりすぎていた。
一匹の野犬が、私へ近づいた。
鼻先を寄せる。
唸る。
前脚で私を掻いた。
身体がえぐれた。
痛い。
私は反射的に縮んだ。
犬がもう一度、前脚を振る。
逃げる。
そう思ったのに、エリシアの記憶が邪魔をした。
盗賊。
押さえつけられる腕。
逃げられなかった身体。
また奪われる。
また何もできない。
嫌だ。
私は犬の前脚へ張りついた。
犬が吠えた。
脚を振る。
地面へ叩きつけられる。
身体が千切れそうになる。
それでも離さなかった。
毛の隙間から皮膚へ触れる。
溶かす。
犬がさらに暴れた。
ほかの二匹が吠えながら後退する。
私は脚から上へ這った。
腹。
胸。
首。
犬の身体は熱かった。
心臓が速く打っている。
生きている。
私は気づいた。
このまま食べれば、また記憶が流れ込むかもしれない。
犬の人生。
犬が見た景色。
犬の恐怖。
私は一瞬、止まった。
その隙に、犬が身体を地面へ擦りつけた。
私は剥がされ、泥の上へ転がった。
犬たちは逃げていった。
追えなかった。
私の身体は大きく裂け、元へ戻るまで時間がかかった。
けれど、犬の前脚から少しだけ肉を溶かしていた。
その肉は、私の中へ残っている。
記憶は来ない。
死ぬところまで食べなかったからだろうか。
それとも、人間でなければ駄目なのか。
分からない。
試すには、生き物を殺して食べる必要がある。
私は復讐のために強くなりたい。
けれど、何でも殺していいとは思えなかった。
少なくとも、いまは。
野犬に襲われて食べ返したのは仕方がない。
これは正当防衛。
たぶん。
*
夜になった。
私は窪地の端にある倒木の下へ潜り込んだ。
今日分かったことを整理する。
一つ。
死体を食べれば、大きくなれる。
二つ。
死体からは記憶を得られない。
三つ。
身体の形は変えられる。
四つ。
人間の形を保つには、まだ練習が必要。
五つ。
私は野犬より弱い。
最後の項目は認めたくない。
だが、事実を無視して計画を立ててはいけない。
いまの私が盗賊へ挑んでも勝てない。
まずは、身体を自在に動かせるようになる。
次に、素早く這う方法を覚える。
その次に、人間の形。
さらに、顔。
声。
服。
課題が多い。
前世の会社なら、工程表を作るところだった。
紙も筆もないので、頭の中だけで作る。
第一段階。
捕食による身体の拡大。
第二段階。
手足の形成。
第三段階。
全身擬態。
第四段階。
発声。
第五段階。
街への潜入。
第六段階。
盗賊の捜索。
第七段階。
復讐。
完璧。
期間は未定。
予算も未定。
担当者は私一人。
進捗は、あまりよくない。
それでも、始めなければ終わらない。
私は身体の一部を持ち上げた。
細く伸ばす。
五つに分ける。
親指。
人差し指。
中指。
薬指。
小指。
今度は骨を入れない。
自分の身体だけで形を作る。
指を一本ずつ曲げる。
開く。
また曲げる。
透明で、爪もなく、細部も歪んでいる。
それでも、人間の手だった。
私はその手を、しばらく崩さずに保つことができた。
手が作れる。
なら、腕も作れる。
腕が作れるなら、脚も作れる。
脚が作れるなら、立てる。
立てるなら、歩ける。
歩けるなら、人間へ戻れる。
私はエリシアだ。
侯爵令嬢だった。
前世では会社員だった。
そして今は、スライムだ。
けれど、ずっとスライムでいるつもりはない。
透明な手を握る。
ゆっくり開く。
もう一度、握る。
復讐のための最初の武器は、剣ではなかった。
まだ何も掴めない、柔らかな五本の指だった。




