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貴族令嬢だった私は、スライムになって盗賊へ復讐する 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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第一話 私はエリシアだった

 街の外には、人間の死体が捨てられる場所がある。


 街道から少し外れた窪地だった。


 罪人。

 身元の分からない旅人。

 獣に食われた者。

 病で死んだ者。

 金を払って墓へ入れる者がいなかった死体。


 雨が降れば水が溜まり、晴れれば臭いが立つ。


 人間はそこを嫌った。


 虫と、野犬と、カラスと、スライムは嫌わなかった。


 私も、その一匹だった。


 その頃の私には、名前がなかった。


 名前というものがあることも知らなかった。


 腹が減れば這い、柔らかいものを見つければ覆いかぶさり、溶けるものを食べた。


 骨は遅い。

 革は固い。

 布はあまり美味しくない。

 肉はよく溶ける。


 動かない肉なら、もっとよかった。


 逃げない。

 暴れない。

 私を叩かない。


 だから、私は死体を食べていた。


 その日も、ほかのスライムたちに少し遅れて窪地へ着いた。


 新しい肉があった。


 若い女だった。


 上等な服を着ていたらしいが、泥と血で汚れていた。布は何か所も裂け、腹には深い傷があった。


 周りには、すでに小さなスライムが集まっていた。


 髪。

 靴。

 血を吸った服の端。


 それぞれが食べられそうなところへ張りついている。


 私は、腹の傷へ近づいた。


 そこは柔らかかった。


 血の匂いが強く、裂けた布の下から肉が見えていた。


 私は広がった。


 女の腹を覆い、腰を包み、胸の下まで這い上がる。


 いつもの死体と同じだった。


 少し温かいことを除けば。


 私は気にしなかった。


 死んだばかりの肉は温かい。


 そういうものだと思っていた。


 溶かし始めた。


 血。

 皮。

 脂。

 肉。


 私の中へ、少しずつ混ざっていく。


 そのとき。


 女の指が動いた。


 ほんの少しだった。


 泥を掻くように、爪が地面を擦った。


 私は止まらなかった。


 止まるという考えがなかった。


 女の喉から、空気が漏れた。


「……や……」


 音だった。


 意味は分からなかった。


 女の身体が震えた。


 心臓が、まだ動いていた。


 弱く。


 遅く。


 それでも、動いていた。


 私は初めて、生きている人間を食べた。


     *


 暗い。


 痛い。


 寒い。


 息ができない。


 誰か。


 助けて。


 お父様。


 お母様。


 違う。


 誰でもいい。


 お願い。


 死にたくない。


     *


 私は跳ねた。


 跳ねたつもりだった。


 実際には、女の上で身体を波打たせただけだった。


 何かが流れ込んできた。


 肉ではない。


 血でもない。


 熱でもない。


 見たことのない景色だった。


 男たちの顔。


 汚れた手。


 笑い声。


 馬車の扉が壊される音。


 護衛が倒れる音。


 腕を押さえつけられる感触。


 服を裂かれる音。


 何度も、やめてと叫んだ声。


 誰も止めなかった。


 最後に、腹へ刃が入った。


 熱かった。


 次に、冷たくなった。


 男たちは荷を奪い、指輪を抜き、私を道端へ捨てた。


 私は死んだふりをした。


 違う。


 本当に、動けなかった。


 声も出なかった。


 それでも死んではいなかった。


 遠くで男たちが笑っていた。


 赤い布を腕に巻いた男。


 片耳のない男。


 前歯の欠けた男。


 私の指輪を奪った、小柄な男。


 そして、首領。


 顔の左側に、古い火傷のある男。


 覚えている。


 知っている。


 私は、あいつらを知っている。


 どうして?


 私はスライムだ。


 スライムは馬車に乗らない。


 指輪を持たない。


 服を裂かれない。


 腹を刺されない。


 なのに、私の腹が痛かった。


 ないはずの腕が震えた。


 ないはずの喉が、叫びたがった。


 私の中で、女の心臓が止まった。


 その瞬間、景色がさらに増えた。


     *


「エリシア様」


 老いた女が私を呼ぶ。


「お嬢様」


 若い侍女が髪を梳く。


「侯爵家の娘として、恥ずかしくない振る舞いを」


 父が言う。 広い屋敷。 高い天井。


 白い壁。 庭園。 温室。


 食卓。 銀の食器。 紅茶。


 舞踏会。 礼儀作法。 読み書き。


 歴史。 家系。 領地。


 税。 使用人。


 私は、それらを知っていた。


 知っているはずがないのに、知っていた。


 私の名前はエリシア。


 エリシア・ラーデンベルク。


 侯爵家の娘。


 十七歳。


 父と母がいる。


 兄がいる。


 幼い頃から、貴族令嬢として育てられた。


 そうだ。


 私はエリシアだった。


 盗賊に襲われた。


 辱められた。


 腹を刺された。


 死体捨て場へ運ばれたのではない。


 街道脇へ捨てられ、死体を集める荷車に拾われた。


 まだ生きていたのに。


 誰も気づかなかった。


 そして、私は――


 私は。


 何に食べられた?


 最後の記憶は曖昧だった。


 冷たい何か。


 透明な何か。


 身体を覆うもの。


 息ができない。


 もう声も出ない。


 けれど、その前に腹を刺されていた。


 血が止まらなかった。


 私は盗賊に殺された。


 そう理解した。


 そうに違いなかった。


     *


 腹の中の肉は、まだ半分も溶けていなかった。


 けれど私は、もう以前の私ではなかった。


 以前の私?


 違う。


 私は、以前からエリシアだった。


 では、この透明な身体は何だ?


 私は自分を見た。


 丸い。


 柔らかい。


 地面に広がっている。


 腕がない。


 脚がない。


 顔がない。


 目も口もない。


 それなのに、見える。


 感じる。


 考えられる。


 私はスライムだった。


「……」


 声を出そうとした。


 身体の中に泡が生まれ、弾けた。


 言葉にはならなかった。


 どうしてスライムになっている?


 死んだから?


 転生した?


 転生。


 その言葉を、私は知っていた。


 すると、さらに古い記憶が開いた。


     *


 白い天井。 蛍光灯。 パソコン。


 積み上がった書類。 鳴り続ける電話。


 冷めたコーヒー。


『この数字、昨日までに出してって言ったよね』


『すみません』


『報告が遅いんだよ』


『申し訳ありません』


 満員電車。 駅。 コンビニ。


 スマートフォン。 ゲーム。 残業。


 休日出勤。 安い弁当。 狭い部屋。


 私は働いていた。


 貴族ではない。


 侯爵家など存在しない世界で、会社員をしていた。


 OL。


 そう呼ばれていた。


 名前は――


 思い出せない。


 エリシアになる前の名前。


 自分の名前だったはずなのに、霧の向こうにある。


 でも、人生は思い出せる。


 朝起きて、電車へ乗る。


 会社で働く。


 上司に叱られる。


 帰宅して、食事をしながらゲームをする。


 異世界転生。


 悪役令嬢。


 スライム育成。


 魔物進化。


 何度も読んだ。


 何度も遊んだ。


 そして、ある夜。


 仕事から帰る途中で――


 そこから先は、また暗かった。


 次に目を覚ましたとき、私は赤子だった。


 侯爵家の娘、エリシアとして。


 私は前世持ちだった。


 前世ではOL。


 今世では貴族令嬢。


 そして盗賊に殺され、今度はスライムになった。


 三度目。


 私は、そう結論づけた。


 ほかの可能性など思いつかなかった。


     *


 腹の中の肉を、私はゆっくり溶かした。


 それは私の身体だった。


 私だったものだった。


 そう考えると、気分が悪い。


 けれど吐き出し方が分からない。


 そもそも、もう溶けて混ざっている。


 肉が減るたび、記憶は死の直前から過去へ遡った。


 馬車で屋敷を出た朝。


 母との会話。


 父から任された手紙。


 兄が貸してくれた本。


 侍女が選んだ外套。


 その前の日。


 その前の週。


 誕生日。


 初めての舞踏会。


 幼い頃。


 歩けるようになった日。


 言葉を話した日。


 そして前世を思い出した瞬間。


 私はすべてを、自分の記憶として受け入れた。


 疑う理由がなかった。


 記憶の中で感じた痛みは、私の痛みだった。


 父を慕う気持ちは、私の気持ちだった。


 母の手の温かさも。


 兄への苛立ちも。


 会社へ行きたくなかった朝も。


 ゲームで夜更かしした後悔も。


 全部、私だった。


 だから。


 盗賊への憎しみも、私のものだった。


 あいつらは私を襲った。


 私を踏みにじった。


 私の荷を奪った。


 私の指輪を奪った。


 私の腹を刺した。


 私を捨てた。


 許さない。


 絶対に。


 殺す。


 一人ずつ見つける。


 私と同じように怯えさせる。


 私が受けた痛みを返す。


 そこまで考えて。


 私は、自分が地面に広がる透明な塊であることを思い出した。


「……」


 泡が一つ、身体の中を上った。


 弾けた。


 盗賊を殺す。


 その決意は固い。


 だが、どうやって?


 私はスライムだ。


 前世のゲーム知識によれば、スライムは最弱の魔物だった。


 最初の町を出たばかりの冒険者に倒される。


 木の棒で叩かれる。


 子供でも追い払える。


 貴族令嬢エリシアの知識でも、だいたい同じだった。


 屋敷にスライムが入り込めば、下男が灰を撒き、棒ですくって捨てる。


 畑に出れば、農夫が鍬で潰す。


 街の門を通ることなどできない。


 見つかれば魔物として処分される。


 弱い。


 あまりにも弱い。


 今のまま盗賊の前へ出れば、復讐するより先に踏み潰される。


 なら、準備が必要だった。


 復讐は感情で始めてもいい。


 けれど、実行は計画的に。


 それはOLだった頃の知識だった。


 目標を決める。


 必要なものを洗い出す。


 順番をつける。


 進捗を確認する。


 問題が起きたら修正する。


 侯爵令嬢としても、復讐には身分と証拠と協力者が必要だと分かる。


 けれど、今の私には身分も、証拠も、協力者もない。


 あるのは身体だけ。


 ならば、まず身体を作る。


 ゲームでは、スライムは食べて成長する。


 小さなスライムが、肉を取り込み、魔力を蓄え、やがて上位種へ進化する。


 キングスライム。


 ポイズンスライム。


 メタルスライム。


 変身するスライムもいた。


 人間へ擬態する魔物もいた。


 この世界でも同じとは限らない。


 そう考える程度の慎重さは、私にもあった。


 だが、ほかに方法はない。


 少なくとも、肉を食べれば身体が増えることは分かっている。


 実際、エリシアの肉を取り込んだ私は、以前より大きくなっていた。


 そして、さっきから身体の形を少し変えられる。


 私は地面から一部を持ち上げた。


 細長く伸ばす。


 震えながら、透明な突起が立った。


 腕。


 そう思った瞬間、突起は横へ曲がり、崩れた。


 失敗。


 だが、動かせた。


 もう一度。


 今度は二本。


 右腕。


 左腕。


 片方は途中で千切れ、すぐ本体へ戻った。


 それでもいい。


 擬態の第一歩だ。


 肉を食べる。


 大きくなる。


 形を覚える。


 人間に擬態する。


 人間の言葉を話す。


 街へ入る。


 盗賊を探す。


 殺す。


 手順は決まった。


 まずは食料。


 この死体捨て場には、まだ肉がある。


 だが、ほかのスライムたちもいる。


 私より大きな個体もいた。


 争えば負けるかもしれない。


 なら、残っているものから確保する。


 エリシアの記憶と、OLの記憶と、名もなかったスライムとしての感覚。


 三つの知識が、頭の中で噛み合わずに並んでいた。


 死体を食べることはおぞましい。


 食べなければ私は大きくなれない。


 貴族令嬢は人肉を食べない。


 スライムは肉を食べる。


 人間へ戻るためには、スライムとして強くならなければならない。


 気持ちが悪い。


 でも、やる。


 私はエリシアだ。


 侯爵家の娘。


 前世では会社員。


 盗賊に殺され、スライムへ転生した。


 そう信じた。


 腹の中で、最後の肉が溶けた。


 細い指。


 指輪を奪われた指。


 それが消える直前、私はもう一度、小柄な盗賊の顔を思い出した。


 男は笑っていた。


 私の指輪を光へかざし、自分の首へ紐で吊るしていた。


 見つける。


 必ず。


 私は死体捨て場を見渡した。


 街の壁は遠い。


 盗賊たちは、そのさらに向こうにいる。


 今の私は、名前のない小さな魔物にしか見えない。


 それでいい。


 誰にも警戒されない。


 誰も、死体の間を這うスライムが復讐を考えているとは思わない。


 私は近くに転がる男の死体へ向かった。


 まずは食べる。


 次に、大きくなる。


 それから、人間の形を作る。


 人間に戻ったら。


 私を殺した盗賊を、一人ずつ殺す。


 私は男の腕へ身体を広げた。


 肉が溶け始めた。


 今度は、何も思い出さなかった。

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