第29話 真実
その夜、僕は城の奥にある、陛下の私室に呼ばれた。
謁見の間ではなかった。暖炉に火が入った、小さな部屋だった。分厚い絨毯の上に、椅子がいくつか並べられていた。
陛下が、暖炉の前の椅子に座っていた。その隣に、ギルド長。少し離れて、まだ破れた婚礼衣装のままの王女が、背筋を伸ばして座っていた。
「父上が、来るなとおっしゃったのですけれど」
王女は、僕の顔を見て、小さく肩をすくめた。
「来ました。私にも、聞く権利があると思いましたので」
部屋の真ん中に、宰相が立っていた。
椅子は勧められていなかった。銀色の髪は乱れたまま、謁見の間で見た威厳は、どこにもなかった。ただの、疲れた老人に見えた。
「始めよ、グランヴィル」
陛下が、静かに言った。
宰相は、しばらく暖炉の火を見つめていた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「二十年前、王国は、異界より勇者を召喚いたしました。その儀を取り仕切ったのは、当時、宰相補佐であった私です」
宰相の声は、平らだった。
「呼び出された男は、レインと名乗りました。黒髪黒目、ステータスなる力を持ち、魔物を倒すごとに強くなる。まさに、王国が求めた勇者でした。私は、あの男を騎士団に入れ、王国の剣として鍛え上げるつもりでおりました」
「だが、レインは逃げた」
ギルド長が言った。
「半年で。道具にされるのは御免だ、と書き置きを残して」
宰相は、わずかに目を伏せた。
「……召喚には、王国の財の多くを費やしました。それを、あの男は一夜にして無にした。私は、陛下の前で面目を失い、あの男を憎みました。勇者などと崇められながら、責任も果たさず、ただ自由気ままに生きる男を」
「それから数年が経ち、私の娘、エレノアが、領地へ向かう途中で、盗賊に襲われました」
宰相の声が、初めて揺れた。
「護衛は皆殺しにされ、娘は攫われかけた。それを救ったのが、たまたま街道を通りかかった、一人の冒険者でした」
宰相は、目を閉じた。
「黒髪の男でした」
暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。
「娘は、その男に恋をしました。男も、娘を想うようになった。私の知らぬところで、二人は会い続けていた。そして、娘は、身籠もったのです」
ギルド長の手が、膝の上で強く握られたのが見えた。
「宰相の一人娘が、王国を裏切って逃げた男の子を宿した。表沙汰になれば、グランヴィル家は終わりです。私は娘を、病気療養と偽って、北の領地に閉じ込めました。子が生まれると、すぐに、どこかへやるつもりでした」
「どこかへ」
僕は、思わず声を出していた。
宰相は、僕の方を見なかった。
「娘は、泣いて縋りました。それでも、私は聞かなかった。……その時、あの男が、領地の屋敷に乗り込んできたのです。たった一人で。そして、言いました。子は、俺が引き取る。俺が、必ず守る、と」
宰相は、苦い笑みを浮かべた。
「私は、条件を出しました。二度と娘に会わぬこと。子の素性を、誰にも明かさぬこと。あの男は、それを呑みました。私は、子をくるんだ毛布から、我が家の紋を切り取りました。誰の子か、決して分からぬように」
宝物庫の木箱の中にあった、三角形の白い布。銀の百合の刺繍。
「では、あの黒い髪は」
ギルド長が聞いた。
「娘が、あの男から贈られて、肌身離さず持っていたものです。私が、取り上げました」
「名は」
僕は、膝の上で、拳を握りしめていた。
「僕の名前は、誰が付けたんですか」
宰相は、ようやく、僕を見た。灰色の目が、暖炉の火を映して揺れていた。
「エレノアだ」
宰相は、静かに言った。
「生まれた子を抱いて、一晩だけ許された夜に、娘はその子をアルスと呼んだ。古い言葉で、夜明けという意味だ。あの男は、その名を守ったのだろう」
夜明け。
僕は、何も言えなかった。
レインさんが、最後に呼んだ名前。それは、母さんが、一晩だけ抱いて付けてくれた名前だった。
「そして、十五年前のレイドだな」
陛下が言った。その声には、怒りがにじんでいた。
「グランヴィル。宝物庫には、騎士ヴァルロアの隊が、王命によって竜の宝を回収したと記されていた。だが、余は、そのような命を下した覚えはない」
宰相は、深く頭を垂れた。
「……その王命は、私が、陛下の御名を騙って下したものです」
陛下の顔が、強張った。
「当時、召喚の儀で傾いた王国の財は、まだ戻っておりませんでした。古い記録に、火竜の巣の奥に、さらに古い竜の宝が眠っていると記されていた。火竜を討つレイドの陰で、それを持ち帰れば、国庫は潤う。私は、冒険者たちには洞窟の奥へ入るなと命じ、ヴァルロアに、密かに奥へ入るよう命じました」
ギルド長が、立ち上がりかけた。陛下が、手で制した。
「そのレイドに、レインが加わると知っていたか」
ギルド長の声は、低く震えていた。
宰相は、長い間、黙っていた。
それから、絞り出すように言った。
「……知っておりました。冒険者の名簿に、あの男の名を見た時、私は、思いました。この男が、竜の巣で命を落とせば、娘はもう二度と、この男を想って泣かずに済む、と」
部屋の空気が、凍りついた。
「私は、あの男を、止めませんでした」
宰相は、目を閉じた。
「止めなかったのです」
誰も、何も言わなかった。
暖炉の火の音だけが、部屋に響いていた。
「竜が目覚め、レイドが壊滅した後、私は、自分の罪を隠すために、全てをヴァルロアに押し付けました。王命などなかった、ヴァルロアが功を焦って勝手に奥へ入ったのだ、と。記録の頁を切り取り、我が家の封で綴じた。ヴァルロアの一族は、王宮を追われた」
宰相の声は、もうほとんど聞き取れないほど小さかった。
「そして今日、私はまた、同じことをしました。竜が鱗を求めて来た時、王女殿下ごと差し出せば、全て丸く収まると思った。十五年前と、同じように」
宰相は、王女の方へ向き直り、深く、深く、頭を下げた。
「殿下。お詫びの言葉も、ございません」
王女は、何も答えなかった。ただ、膝の上で、破れた婚礼衣装の裾を握りしめていた。
陛下が、長い息を吐いた。
「グランヴィル。そなたの宰相の職を解く。沙汰が下るまで、屋敷にて謹慎せよ」
「御意」
「騎士ヴァルロアの名誉は、回復させる。王命を受けて竜の巣に入り、その命を果たした忠臣として、記録を改めよ。その一族も、王宮へ呼び戻す」
陛下は、僕の方を見た。
「ヴァルロアの息子が、冒険者をしていると聞いた。そなたらの知り合いか」
「はい。レオンさん……レオナールさんです。今は、青葉の戦陣というパーティーのリーダーをしています」
「では、余からの書状を、その者に届けてはもらえぬか」
「必ず」
レオンさんの顔が、目に浮かんだ。父の亡骸の前で泣き崩れていた、あの顔が。
父上は、卑怯者ではなかった。それを知ったら、レオンさんは、何と言うだろう。
「それから、婚礼のことだ」
陛下は、王女の方を見た。王女の肩が、びくりと動いた。
「先ほど、帝国の使節長が、余のもとへ参った」
陛下の口元に、苦い笑みが浮かんだ。
「白髭の老将でな。床に額をこすりつけんばかりに、詫びておった。帝国の騎士道において、花嫁を置いて逃げた者は、婚姻の誓いを自ら破ったに等しい。皇太子殿下の振る舞いは、帝国の恥である。ついては、此度の婚姻は、なかったことにしていただきたい、と」
王女が、目を見開いた。
「両国の和平の約定は、婚姻とは別に結び直す。老将は、そう約束した。……竜を前にして一歩も退かなかった王女殿下に、我が国の皇太子は、ふさわしくない、とも言っておったぞ」
王女は、しばらく、何も言えないようだった。
それから、両手で顔を覆った。肩が、小さく震えていた。泣いているのか、笑っているのか、分からなかった。
「母は」
僕は、宰相に向かって言った。
「母は、生きているんですか」
部屋を出ようとしていた宰相が、足を止めた。
しばらくして、宰相は、振り返らずに答えた。
「生きている。北の領地の、山あいの修道院にいる」
宰相の背中が、少し丸くなった。
「十五年間、毎朝、窓辺に白い百合を一輪、置いているそうだ。私は、一度も、会いに行っておらぬ。あれは、私を、決して許さぬだろう」
宰相は、懐から、小さな木箱を取り出した。宝物庫で見た、銀の百合の封蝋が押された箱だった。それを、僕の手に押し付けた。
「そなたが持っていけ。そなたが行けば、あれは、喜ぶ」
僕は、箱を握りしめた。
宰相が、一瞬だけ、僕の顔を見た。灰色の目が、何かを探すように、僕の顔の上をさまよった。
「……目は、あの男だ」
宰相は、かすれた声で言った。
「だが、泣きそうな時の顔は、エレノアに、よく似ている」
何か言わなければ、と思った。でも、何と呼べばいいのか、分からなかった。おじいさん、とは、まだ、呼べなかった。
「いつか」
やっと、それだけ言えた。
「いつか、母さんと一緒に、会いに行くかもしれません」
宰相は、何も答えなかった。ただ、小さく頷いて、近衛の騎士に付き添われ、部屋を出ていった。
扉が閉まると、ギルド長が、深く息を吐いた。
「……そうか。あいつは、ちゃんと、人を好きになれたのだな」
ギルド長は、暖炉の火を見つめていた。その横顔は、寂しそうで、それでいて、どこかほっとしたようにも見えた。
「一人で異界から呼び出されて、一人で逃げて、一人で生きていると思っていた。私が、一番近くにいるつもりだった」
ギルド長は、小さく笑った。
「だが、あいつにも、命を懸けて守りたい人がいたのだな。それが、分かってよかった」
「ギルド長」
「何だ」
「……ありがとうございます。父さんの、相棒でいてくれて」
ギルド長は、僕を見た。それから、ぷいと顔を背けた。耳の先が、少しだけ赤くなっていた。
「生意気を言うな。泣き虫のくせに」
部屋を出ると、廊下で、アルドとアルマとクロエが待っていた。三人とも、包帯だらけだった。
「アルス!」
アルマが駆け寄ってきた。僕の顔を見て、何も聞かずに、ぎゅっと抱きついてきた。
「大丈夫? ねえ、大丈夫?」
「うん。大丈夫」
本当に、大丈夫だった。不思議なくらいに。
その時、背後で扉が開いて、王女が出てきた。泣き腫らした目で、それでも、晴れやかな顔をしていた。
王女は、僕とアルマの前に立った。
「アルス。婚礼は、なくなりました」
「はい。よかったです、本当に」
「ええ。だから」
王女は、すうっと息を吸い込んだ。そして、アルマの目の前で、僕の手を取った。
「私も、あきらめないことにしました。いろいろなことを。……あなたのことも」
アルマが、僕から体を離した。そして、王女と僕の間に、ぐいと割り込んだ。
「負けないって、言ったでしょ」
「ええ。私も、負けません」
二人は、睨み合った。それから、どちらからともなく、吹き出した。
クロエが、僕の肩に腕を回して、耳元で囁いた。
「おい、アルス。王女様だぞ。本当に、身が持たないぞ、お前」
アルドは、吊った腕を抱えて、天井を仰いでいた。
「妹の恋敵が、王女様か。……俺、どっちを応援すりゃいいんだ」
廊下の窓の外で、王都の夜空に、大きな月が昇っていた。
夜明けまでは、まだ遠かった。けれど、もう、怖くはなかった。




