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風の剣士 アルス  作者: 霧里 野蒜


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第28話 逆鱗

 「アルス!」

 王女は、練兵場の土の上を、裸足で駆けてきた。婚礼の靴は、どこかで脱ぎ捨ててきたのだろう。純白の衣装の裾は泥にまみれ、ヴェールはとうになくなっていた。

 その後ろから、息を切らしたアルマとクロエ、そして片腕を吊ったアルドが追いかけてくる。

 王女は、竜の巨大な頭の前で立ち止まった。嵐に縫い止められた竜が、金色の目で王女を見下ろした。王女の膝が、がくがくと震えていた。

 それでも、王女は一歩も退かなかった。

 「これを」

 王女は、胸に抱いていたティアラを、僕に差し出した。

 「殿下、それは、王国の」

 「宰相は、これを竜に渡せと言いました。私ごと」

 王女の声は、震えていた。けれど、はっきりしていた。

 「でも、私は、差し出されるのではなく、自分で決めて返したいのです。誰かに決められるのは、もうたくさん」

 王女は、僕の目をまっすぐに見た。

 「あきらめないって、そういうことでしょう?」

 僕は、ティアラを受け取った。


 白金の細い枝が、逆鱗をしっかりと抱え込んでいた。職人たちが、何日もかけて編み上げたものだ。

 「ギルド長」

 「ああ」

 ギルド長が、ティアラに指先を当てた。細い風の刃が、白金の枝の継ぎ目を一つずつ、丁寧に断ち切っていく。最後の一本が外れた時、逆鱗が、僕の掌の上に、ころりと転がり落ちた。

 温かかった。

 生き物の体温のように。脈を打つ光が、僕の掌の中で、静かに明滅していた。

 僕は、竜の前へ歩いた。

 嵐は、まだ竜の翼と脚を地面に縫い止めていた。けれど、竜は、もうもがいてはいなかった。ただ、近づいてくる僕を、じっと見ていた。

 竜の喉元。白く引きつれた、古い傷。

 僕は、その前に立ち、両手で逆鱗を差し出した。

 「お返しします」

 声が、少しかすれた。

 「遅くなって、すみませんでした」

 逆鱗を、傷跡にそっと当てた。

 その瞬間、逆鱗が、まばゆい光を放った。

 真珠の白と、黄金の輝きが、練兵場いっぱいに広がった。目を開けていられなかった。光の中で、逆鱗が傷跡に吸い込まれるように沈んでいくのが、手のひらの感触で分かった。引きつれた古い傷が、内側から温かく満たされていく。

 光が収まった時、竜の喉元には、他の鱗と同じ色の、一枚の鱗が戻っていた。傷跡は、もうどこにもなかった。

 竜が、長く、深く、息を吐いた。

 十五年分の息のようだった。

 「ギルド長、嵐を」

 ギルド長は、頷いた。翼を縛っていた嵐が、ゆっくりとほどけ、ただのそよ風になって、練兵場の砂を撫でていった。

 竜は、もう暴れなかった。翼を静かに畳み、首を下げ、その巨大な頭を、僕の目の高さまで降ろしてきた。


 『……人の子よ』

 頭の中に響く声は、もう、岩が軋むような音ではなかった。古い大樹の葉擦れのような、静かな声だった。

 『礼を言う』

 「いいえ。もともと、あなたのものです」

 竜の金色の瞳が、僕を見つめた。それから、ゆっくりと、僕の腰の剣へ移った。

 『十五年前の話を、聞く気はあるか』

 僕は、隣に立つギルド長を見た。ギルド長は、唇を強く結んで、竜を見上げていた。それから、小さく頷いた。

 「聞かせてください」


 『あの日、人の騎士どもが、我が眠る洞窟の奥に踏み込んだ』

 竜は、目を細めた。

 『我が宝を漁る音で、我は目覚めた。怒りのままに追い、人の群れの中へ飛び込み、目に入るものを全て薙ぎ払った。多くの人が死んだ』

 ギルド長の肩が、びくりと動いた。

 『その中で、ただ一人、何度叩き落としても飛んでくる男がいた。黒髪の男だった。風に乗り、緑に光る剣を振るい、我が喉元に辿り着いた。そして、剣を突き立て、我が逆鱗を剥ぎ取った』

 竜は、取り戻したばかりの喉元の鱗を、そっと震わせた。

 『逆鱗を剥がされた竜は、力を失う。我は地に落ちた。もう、戦えなかった。あの男は、我の目の前に降り立ち、剣を構えた。今のお前と同じように』

 竜の目が、僕を見た。

 『我は、殺されると思った。だが、あの男は、剣を下ろした』

 「もう戦えない相手を、斬る必要はない」

 僕が呟くと、竜は、ゆっくりと瞬いた。

 『そうだ。あの男は、そう言った』

 竜の声が、少しだけ沈んだ。

 『あの男が背を向けた時、我は、怒りに任せて、尾で薙いだ。……情けをかけられたことが、許せなかったのだ。あの男は、岩壁に叩きつけられた』

 ギルド長が、息を呑んだ。

 『我は、あの男の傍へ行った。あの男は、もう助からぬ傷を負っていた。それでも、我を見て、笑った。そして、手の中の逆鱗を握りしめて、言った』

 竜は、目を閉じた。まるで、その声を、十五年ぶりに思い出そうとしているかのように。

 『この鱗は、必ず返す。俺が返せなくても、俺の血を引く者が、必ず返しに来る。だから、それまで、人の街へは出てこないでくれ、と』

 「……俺の、血を引く者」

 ギルド長が、かすれた声で繰り返した。


 竜の目が、再び開いた。そして、まっすぐに、僕を見た。

 『あの男は、言った。生まれたばかりの子がいる、と』

 練兵場の風が、止まった気がした。

 『その子が大きくなる頃には、竜と人が、殺し合わずに済む世であってほしい。だから、俺は、お前を殺さない、と』

 僕は、何も言えなかった。

 竜が、首をさらに低くした。巨大な鼻先が、僕の目の前に来た。竜が、ゆっくりと息を吸い込んだ。僕の匂いを確かめるように。

 『お前からは、あの男と、同じ血の匂いがする。初めて見た時から、分かっていた。だから、レインかと呼んだ』

 竜の金色の瞳に、僕の顔が映っていた。黒い髪。黒い目。

 『人の子よ。名は、何という』

 「……アルス、です」

 竜は、しばらく黙っていた。それから、静かに言った。

 『あの男が、死ぬ間際に呼んだ名だ』

 膝から、力が抜けた。

 僕は、練兵場の土の上に、座り込んでいた。

 レインさんが、最後に呼んだ名前。それが、僕の名前だった。村の人が付けてくれたのだと、ずっと思っていた。籠の中に、名前を書いた紙でも入っていたのだろうか。それとも、誰かが、その名で僕を呼んで、村に置いていったのだろうか。

 どちらでもよかった。

 僕には、父さんがいた。

 黒髪で、風に乗って空を駆けて、竜の喉元に辿り着いて、それでも竜を殺さなかった人。最後の最後に、僕の名前を呼んでくれた人。

 腰の剣が、静かに鳴っていた。

 泣いているような音だった。それとも、笑っているのか。

 気がつくと、僕の頬を、涙が伝っていた。ギルド長に、泣き虫だと言われた。人は死ぬものだ、泣いても生き返らない、と。それでも、止められなかった。


 『エルフ』

 竜が、ギルド長の方へ首を巡らせた。

 ギルド長は、立ち尽くしていた。両手を、胸の前で強く握りしめていた。

 『あの男は、お前にも、言葉を残した』

 ギルド長の目が、大きく見開かれた。

 『シルフィに伝えてくれ、と。帰ってから話すと約束したのに、話せなくて、すまなかった。子のことを、まだ言えていない。きっと、怒るだろうな、と』

 竜は、少しだけ、目を細めた。

 『そう言って、あの男は、笑って、死んだ』

 ギルド長の膝が、崩れた。

 練兵場の土の上に、ギルド長はうずくまった。細い肩が、激しく震えていた。声は、出ていなかった。ただ、十五年分の何かが、その背中からあふれ出していた。

 「……馬鹿者」

 やっと、かすれた声が漏れた。

 「怒るに、決まっているだろう。そんな大事なことを、黙っているなど」

 ギルド長は、両手で顔を覆った。

 「帰ってきて、話せば、よかったのだ。怒鳴りつけて、それから……それから、一緒に、育ててやったのに」

 僕は、ギルド長の隣に膝をついた。どうしていいか分からなくて、ただ、その震える背中に、そっと手を置いた。

 ギルド長は、顔を上げなかった。けれど、僕の手を、払いのけもしなかった。

 しばらくして、ギルド長の手が、僕の袖を、ぎゅっと握った。


 アルマが、少し離れたところで、両手で口を押さえて泣いていた。クロエが、その肩を抱いていた。アルドは、片腕を吊ったまま、空を見上げて、鼻をすすっていた。

 王女は、胸の前で手を組んで、黙って僕らを見ていた。その青い目も、濡れていた。


 『人の子、アルスよ』

 竜が、翼を広げた。

 『約束は、果たされた。我は巣へ帰る。人の街へは、二度と来ぬ』

 竜の巨体が、ゆっくりと浮き上がった。翼が起こす風は、もう嵐ではなかった。ただ、温かく、力強い風だった。

 『いつか、我が巣へ来い。あの男の話を、もっと聞かせてやろう。あの男が、我と戦いながら、どんな馬鹿げたことを叫んでいたかをな』

 竜が、笑った気がした。

 『そこのエルフも連れて来い。十五年前、我に向かって、殺すのを止めろと叫んだ小娘だ。……あれも、なかなか面白かった』

 ギルド長が、顔を上げた。泣き腫らした目で、竜を睨みつけた。

 「小娘ではない。二百歳だ」

 竜は、喉の奥で、低く笑った。

 そして、高く、高く、空へと昇っていった。真珠の白と黄金の輝きが、青空の中で小さくなり、やがて、北の山並みの向こうへ消えていった。


 練兵場に、静けさが戻った。

 遠くで、王都の鐘が鳴り始めた。竜が去ったことを知らせる鐘だった。城壁の上で、誰かが歓声を上げた。その声が、波のように広がっていった。

 僕は、まだ、ギルド長の隣に座り込んでいた。

 練兵場の入口に、人影が見えた。

 陛下だった。近衛の騎士たちに囲まれ、杖をついて立っていた。その顔は、青ざめていた。今の話を、どこから聞いていたのだろう。

 陛下のすぐ後ろに、もう一人、立っていた。

 宰相、グランヴィル公だった。

 銀色の髪が、乱れていた。灰色の目が、まっすぐに僕を見ていた。その唇が、かすかに動いた。声は聞こえなかった。けれど、何と言ったのか、分かった気がした。

 レインの、子。

 陛下が、ゆっくりと振り返った。そして、宰相に向かって、静かに言った。

 「グランヴィル。話を、聞かせてもらおうか。十五年前のことを、全てだ」

 宰相は、何も答えなかった。ただ、その場に立ち尽くしていた。

 その姿は、謁見の間で見た時よりも、ずっと、ずっと、小さく見えた。

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