第27話 双星
風が、落ちてきた。
塔の上から、一直線に。それは、僕が今まで見たどんな風とも違った。音がなかった。ただ、空そのものが、ひとつの塊になって降ってきたようだった。
竜の前脚が、横殴りに弾き飛ばされた。
振り下ろされた巨大な爪は、僕の頭のすぐ脇の屋根を叩き、瓦と梁を粉々に砕いた。竜の巨体がよろめき、中庭の石畳に後脚をついた。
『……何だ』
竜が、首を巡らせた。
僕の目の前に、細い背中が降り立っていた。
外套の裾が、風にはためいていた。長い耳。細い肩。まだ、小さく震えている。それでも、その背中は、竜と僕の間から一歩も退かなかった。
「ギルド長……」
「黙っていろ」
ギルド長は、振り返らなかった。
「十五年前、私は岩陰に隠れていた。あいつが戦っているのを、見ることもできなかった。だから、今度は」
ギルド長の声が、震えながら、強くなった。
「今度は、隠れない」
竜が、ギルド長を見下ろした。金色の瞳が、細くなった。
『エルフ。お前の風の匂いも、覚えている』
「そうだろうな。私はシルフィ。レインの相棒だ」
ギルド長は、竜をまっすぐに見上げた。
「十五年前、お前の前から逃げた女だ」
竜の喉の奥で、何かが低く鳴った。笑ったのか、唸ったのか、分からなかった。
『あの時、狂ったように風を放ち、殺すのを止めろと叫んでいた小娘か。……あの男は、お前を岩陰に隠して、ひとりで我に挑んできた』
「知っている」
『あの男は、お前を守って死んだ。お前は、また守られに来たのか』
「違う」
ギルド長は、外套を脱ぎ捨てた。
「今度は、私が守る番だ」
その時、中庭の回廊の方から、足音が駆けてきた。
「アルス!」
トーリさんだった。晴天の導きの仲間たちが、その後ろに続いていた。治癒士のイリスさんが、真っ先に僕のところへ屋根を這い上がってきた。
「動かないで。肋骨が三本、折れてる。すぐ繋ぐから」
イリスさんの掌が、僕の胸に当てられた。温かい光が、体の中にじわじわと染み込んでいく。焼けるような痛みが、少しずつ引いていった。
「アルドたちは」
かすれた声で聞くと、イリスさんは、顎で中庭の向こうを示した。
土煙の中から、三つの影が出てくるところだった。アルドが片腕を押さえ、足を引きずっている。その両脇を、アルマとクロエが支えていた。三人とも、埃まみれで、あちこちから血を流していた。でも、生きていた。
アルドが、僕に向かって、無事な方の手を上げた。歯を見せて笑っていた。
胸の奥が、熱くなった。
「トーリ、竜の気を引け。少しでいい」
ギルド長が、振り返らずに言った。
「無茶を言いますね、ギルド長」
「無茶は、お前の得意だろう」
トーリさんは、苦笑いして、剣を抜いた。
「晴天の導き、散開! 竜の足元を走り回れ! 当てなくていい、目障りになれ!」
トーリさんたちが、中庭に散った。矢が飛び、小さな魔法が竜の鼻先で弾けた。竜が、苛立たしげに首を振った。
ギルド長が、屋根の上に膝をついた。僕の隣に。
「立てるか」
「……はい。なんとか」
イリスさんの治療のおかげで、体は動くようになっていた。けれど、魔力はほとんど空っぽだった。剣の光も、弱々しく明滅したままだった。
「魔力が、もうないんです。風の上に立つこともできない」
「分かっている」
ギルド長は、僕の手を取った。魔法剣の柄を握る、僕の右手。その上に、自分の掌を重ねた。
アルマが、宿のベッドの上で、僕のお腹の魔力を溶かしてくれた時のことを思い出した。掌と掌を重ねて。
「レインはな、自分の風だけで飛んでいたのではない」
ギルド長が、静かに言った。
「あいつは、私の風に乗って飛んだ。私が風を起こし、あいつがその上を駆ける。二人で一つの風だった。だから、始まりの双星と呼ばれた」
重ねられた掌から、何かが流れ込んできた。
冷たくて、澄んでいて、遠い山の頂を吹く風のような魔力だった。それが、僕の腕を通り、胸を通り、空っぽになったお腹の奥へと満ちていく。
魔法剣が、強く光った。
緑色の光が、いつもの何倍も明るく、刃全体から溢れ出した。剣が、歓んでいた。懐かしい誰かに再会したように。
「……十五年ぶりだな」
ギルド長が、剣に向かって呟いた。その目から、一筋、涙がこぼれた。
「待たせた」
ギルド長が、立ち上がった。僕も、立ち上がった。
足の裏に、風が生まれた。僕の風ではなかった。ギルド長の風だった。その上に、僕は立っていた。自分の力で立つよりも、ずっと軽く、ずっと確かだった。
「行くぞ、アルス」
「はい」
僕らは、同時に空へ駆け上がった。
竜が、僕らを見上げた。
『二匹に増えたところで、小虫は小虫』
巨大な翼が、空気を叩いた。嵐が、僕らに向かって吹きつけてきた。
ギルド長が、片手をかざした。それだけで、嵐が二つに裂けた。僕らはその裂け目を、まっすぐに駆け抜けた。
竜の爪が迫る。ギルド長の風が僕の足元を押し上げ、僕は爪の上を跳び越えた。牙が迫る。僕の風がギルド長を横へ運び、ギルド長は牙の脇をすり抜けた。
言葉は要らなかった。ギルド長がどこへ動こうとしているのか、なぜか分かった。剣が、教えてくれているのかもしれなかった。
けれど、竜が白い炎を吸い込んだ時、ギルド長の動きが一瞬止まった。
喉の奥の白い光を見つめて、ギルド長の肩が、また震え始めた。十五年前の記憶が、足を掴んでいるのだ。
「ギルド長」
僕は、ギルド長の隣に並んだ。
「僕がいます」
そして、僕は、左手の親指で、剣の柄頭を叩いた。
とん、とん。
魔力を練る時の、いつもの癖だった。
ギルド長が、僕を見た。目を見開いて。それから、泣き笑いのような顔になった。
「その癖、やめろ」
ギルド長は、乱暴に目元を拭った。
「……いや、やめるな。ずっと、そうしていろ」
ギルド長の肩の震えが、止まった。
竜が、白い炎を吐いた。
「アルス、合わせろ!」
ギルド長が、右手を竜に向けた。僕は、剣を竜に向けた。
ギルド長の風が、右から渦を巻いて伸びていく。僕の風が、左から渦を巻いて伸びていく。二つの渦は、白い炎の奔流の両脇をかすめ、竜の目の前で絡み合った。
互いに互いを巻き込み、速さを増し、太さを増していく。二本の竜巻が、一本の嵐になっていく。
頭の奥で、何かが、かちりと噛み合う音がした。
ステータスの画面が、勝手に開いた。
ウインド(ボール、ランス、カッター、ウエーブ、ムーブ、???)
最後の「???」の文字が、ゆっくりと書き換わっていった。
テンペスト。
僕とギルド長は、同時に叫んでいた。
「ウインド+テンペスト!」
嵐が、竜を飲み込んだ。
白い炎が、渦に巻き込まれて四方に散り、空の高みで消えていった。嵐は竜の巨大な翼に絡みつき、締め上げ、押さえ込んだ。竜が吠え、もがいた。けれど、二つの風が編み上げた嵐は、ほどけなかった。
竜の巨体が、ゆっくりと、空から引きずり下ろされていく。
城の北にある、誰もいない練兵場へ向かって。
轟音とともに、竜は練兵場の真ん中に落ちた。土煙が、城壁の高さまで舞い上がった。嵐はなお竜の翼と脚を地に縫い止め、竜は首だけを持ち上げて、低く唸っていた。
僕とギルド長は、竜の目の前に降り立った。
魔力は、また底を尽きかけていた。ギルド長も、肩で息をしていた。それでも、嵐はまだ、竜を押さえ込んでいた。
ギルド長が、震える手を持ち上げた。その掌に、鋭い風の刃が集まり始めた。竜の喉元、白く引きつれた古い傷に向けて。
「……今なら、届く」
ギルド長の声は、かすれていた。
「レインの、仇だ」
僕は、その腕を、そっと押さえた。
ギルド長が、僕を見た。
「ギルド長。あの時、レインさんを止めようとしたんですよね。殺すのを止めろって、叫んでいたんですよね」
ギルド長の掌の上で、風の刃が揺れた。
「それに、この竜は、自分の鱗を取り返しに来ただけです。盗まれたものを、取り返しに」
長い沈黙があった。
やがて、ギルド長の掌から、風の刃がふっと消えた。ギルド長は、腕を下ろした。そして、小さく、笑った。
「……お前は、本当に、あいつに似ている」
竜の金色の目が、僕を見ていた。
『なぜ、止めを刺さぬ』
頭の中に、声が響いた。怒りの色は、薄れていた。代わりに、深い困惑があった。
『我は、お前を殺そうとした。お前の仲間を傷つけた。今なら、我が喉を裂ける。なぜ、そうせぬ』
「もう戦えない相手を、斬る必要はないからです」
僕は答えた。ヴァルロアさんの最期に、言ったのと同じ言葉だった。
竜の目が、大きく見開かれた。
『……その言葉』
竜の声が、かすかに震えた。
『十五年前、あの男も、同じことを言った』
その時、練兵場の入口の方から、駆けてくる足音がした。
振り返ると、破れた婚礼衣装の裾を両手で持ち上げて、一人の少女が走ってくるところだった。淡い金色の髪が、風になびいていた。
その胸に、ティアラを抱きしめていた。
逆鱗が、真昼の太陽よりも眩しく、光っていた。




