第26話 空
『……違う』
頭の中の声が、低く軋んだ。
『レインではない。あの男は死んだ。我が爪の下で、確かに死んだ』
金色の瞳が、すっと細くなった。瞳の奥の揺らぎが消え、代わりに、冷たい光が宿った。
『だが、その剣は、あの男のものだ。あの男の匂いがする。……そうか』
竜の喉の奥で、地鳴りのような唸りが膨らんでいった。
『盗人どもは、あの男の剣まで奪ったか。我が鱗を奪い、骸から剣を剥ぎ取り、今また、我が鱗を飾り立てて笑うか』
「違う! 僕は」
叫ぶより先に、竜が吠えた。
衝撃が、全身を打った。音そのものに殴られたようだった。バルコニーの床に叩きつけられ、背中の下で石が砕けた。耳鳴りがして、何も聞こえなくなった。
かすむ目で見上げると、竜はもう、僕を見ていなかった。長い首を巡らせ、城の屋根の向こう、王女とアルマが消えた方角を見ていた。
鱗の匂いを、追っている。
『返せ』
竜が、翼を広げた。
駄目だ。あっちには、シアとアルマがいる。
僕は、震える膝で立ち上がった。魔法剣を握り直す。刃が、緑色に燃えた。剣が、怒っていた。盗人と呼ばれたことにか。レインさんの名を汚されたことにか。
「こっちだ!」
足の裏から、魔力を押し出した。風の上に立つ。ギルド長に叩き込まれた感覚。一歩、二歩。僕は、空へ駆け上がった。
「ウインドカッター!」
剣を振り抜いた。緑の刃が一直線に飛び、竜の横腹を打った。
甲高い音がして、刃は弾かれた。鱗には、細い傷が一筋ついただけだった。グレイウルフを五匹まとめて両断した刃が、引っかき傷にしかならない。
それでも、竜は振り返った。
『小虫が』
「僕が相手だ。鱗の場所なんか、教えない」
竜の目が、再び僕を捉えた。それでいい。僕だけを見ていろ。
竜の翼が、空気を叩いた。巨体が、信じられない速さで迫ってきた。
空の上は、地面とはまるで違った。
足場は、自分で作った風だけだ。一瞬でも集中が途切れれば、真っ逆さまに落ちる。竜が羽ばたくたびに嵐のような風が吹き荒れ、僕の小さな風は、紙のように吹き散らされた。
牙が、すぐ脇をかすめた。爪が、頭の上を薙いだ。僕は風を蹴って逃げ回り、隙を見てはウインドカッターを放った。弾かれる。また放つ。また弾かれる。
息が上がってきた。頭が重い。ステータスを開く余裕などなかったが、魔力が底に近づいているのが分かった。
竜が、大きく息を吸い込んだ。
喉の奥が、白く光った。
『消えよ』
白い炎が、奔流になって吐き出された。
まっすぐ僕に向かってくる。避ければいい。避ければ、炎は僕の後ろの、王都の街に落ちる。逃げ遅れた人々が、まだ広場にいる。
逃げられなかった。あの夜、レオンの火の玉を前にした時と同じだった。
「ウインド、ボール!」
残っている魔力を、全部、剣に流し込んだ。巨大な風の塊を、炎の真正面ではなく、ほんの少し斜めにぶつけた。炎の奔流が、風に押されて向きを変え、王都の上を逸れて、誰もいない北の空へと流れていった。
熱で、髪の先が焦げた。頬が、ひりひりと痛んだ。
足元の風が、ふっと薄くなった。
落ちる。
そう思った瞬間、下から声が聞こえた。
「アルス! 喉だ!」
アルドの声だった。
城壁の上に、アルドが立っていた。その隣に、弓を引き絞ったクロエ。そして、息を切らしたアルマがいた。王女の姿はない。誰かに預けて、戻ってきたのだ。
「喉元の傷だ! あそこだけ、鱗がない!」
アルドが、竜の首の付け根を指差していた。
逆鱗が剥がされた跡。白く引きつれた、古い傷。
僕は、薄くなった風をもう一度踏みしめた。かろうじて、体が止まった。
「アルマ!」
「うん!」
城壁の上で、アルマが掌を竜に向けた。僕は、残りわずかな魔力をかき集めた。
アルドが、叫んだ。
「いち!」
村の小川が、目に浮かんだ。
「にの!」
「さん!」
アルマの火の玉が放たれ、僕の風がそれを背中から押した。火は風を食べて膨れ上がり、赤い竜巻となって空を駆け上った。同時に、クロエの矢が、炎の渦の中心を貫いて飛んだ。
炎と矢が、竜の喉元の傷に、まっすぐ吸い込まれた。
竜が、絶叫した。
今までの咆哮とは違った。痛みの声だった。巨体が空中でのけぞり、翼が乱れ、城の尖塔の一本を尾で薙ぎ倒した。
「やった!」
城壁の上で、クロエが拳を突き上げた。
けれど、僕には、喜べなかった。
竜の叫びの中に、言葉が混じっていた。頭の奥に、直接響いてきた。
『……また、そこを狙うか。あの時と、同じように』
怒りだけではなかった。もっと古い、もっと深い、悲しみのようなものだった。
竜が、体勢を立て直した。
その金色の目が、城壁の上の三人を捉えた。
「逃げろ!」
僕が叫ぶより早く、竜の翼が振り下ろされた。暴風が城壁を叩いた。アルドがアルマとクロエを抱えて、城壁の内側へ飛び降りるのが見えた。三人の姿が、土煙の中に消えた。
「アルド! アルマ! クロエ!」
僕は、そちらへ飛ぼうとした。
その瞬間、横から、巨大な尾が迫ってきた。
避けられなかった。
体の真横から、壁に激突したような衝撃が来た。息が詰まった。何かが、胸の中で折れる音がした。視界がぐるぐると回り、空と街が入れ替わった。
僕は、城の中庭の屋根に叩きつけられ、瓦を何枚も砕きながら転がり、屋根の縁で、ようやく止まった。
動けなかった。
口の中に、鉄の味が広がった。胸が、焼けるように痛い。手の中に、魔法剣だけが、かろうじて残っていた。その刃の光が、弱々しく明滅していた。
意識の端で、ステータスの画面が勝手に開いた。
HP 12/130。
MP 3/145。
ああ、これは、駄目なやつだ。
ぼんやりと、そう思った。
影が、僕の上に落ちた。
竜が、中庭に降り立っていた。地面が揺れ、中庭の石畳がひび割れた。巨大な頭が、屋根の上に横たわる僕を、ゆっくりと覗き込んだ。
『小虫』
竜の声は、静かだった。
『あの男も、そうだった。何度叩き落としても、風に乗って、また飛んできた。我が喉に剣を突き立て、鱗を一枚、剥いでいった』
竜の目が、僕の手の中の剣を見た。
『そして、我が爪の下で死んだ。お前も、同じだ』
竜が、前脚を持ち上げた。
僕の体よりも大きな爪が、陽の光を遮って、ゆっくりと持ち上がっていく。
ギルド長の昔話が、頭の中によみがえった。
ドラゴンは、容赦なく足を上げ、踏みつぶそうとした。
ああ。レインさんは、こういう景色を見たのか。
僕は、首だけを動かして、空を見上げた。
城の一番高い塔。その上に、ギルド長がいた。
石壁にしがみついたまま、ギルド長は、こちらを見下ろしていた。十五年前と、同じ景色を。竜の足の下に、黒髪の剣士が倒れている景色を。
ギルド長の唇が、震えていた。何かを言おうとして、言葉にならないように見えた。
ごめんなさい、ギルド長。
また、同じものを見せてしまう。
竜の爪が、落ちてきた。
僕は、目を閉じなかった。最後まで、塔の上のギルド長を見ていた。
その時。
塔の上で、細い影が、石壁から手を離した。
「やめろ——!」
その叫びは、十五年分の重さを乗せて、王都の空を引き裂いた。




