第25話 婚礼
北の空の暗闇は、夜明けを待たずに消えた。
城の見張りが総出で空を見上げる中、巨大な影は王都の上を一度だけ大きく旋回し、そのまま雲の中へ溶けるように見えなくなった。残ったのは、遠い雷のような唸り声の記憶と、一晩中鳴き止まなかった犬たちの声だけだった。
夜が明けると、ギルド長は陛下の前に立った。僕もアルドも、その場にいた。
「陛下。婚礼を、延ばしてください。せめて、逆鱗だけでも、式から外してください」
ギルド長の声は、謁見の時とは別人のように切迫していた。
「昨夜のあれは、雲の影などではありません。エインシャントドラゴンです。十五年前、レイドを壊滅させたあの竜が、自分の鱗を探しに来たのです」
陛下は、困惑したように宰相を見た。宰相は、穏やかな声で答えた。
「シルフィ殿。昨夜の影を見た者は、皆、夜目のせいだと申しております。万が一、竜であったとしても、王都には騎士団がおり、冒険者もおる。今さら婚礼を延ばせばどうなりますか。帝国の皇太子殿下は、今朝にもご到着になる。雲の影に怯えて式を取りやめたなどと知れれば、王国は帝国の笑いものです」
「閣下、あなたは十五年前も、同じことを言ったのではないか」
ギルド長の言葉に、宰相の目が、ほんの一瞬だけ細くなった。
「何のことか、分かりかねますな」
「洞窟の奥へは立ち入るな、と」
謁見の間が、しんと静まり返った。
宰相は、表情一つ変えずに、陛下へ向き直った。
「陛下。ご決断を」
陛下は、長い間、目を閉じていた。それから、疲れたように言った。
「……婚礼は、予定通り執り行う。ただし、警備を倍にせよ。シルフィ殿、そなたも力を貸してくれ」
ギルド長は、何も言わずに頭を下げた。下げた頭の陰で、唇を強く噛んでいるのが見えた。
婚礼は、城の大聖堂で執り行われた。
色硝子の窓から差し込む光が、床に虹の模様を描いていた。両脇の長椅子には、王国の貴族と、帝国の使節たちが居並んでいる。祭壇の前には、今朝到着したばかりのガルディア帝国の皇太子が立っていた。背が高く、整った顔立ちの青年だった。けれど、その目は、どこか退屈そうに祭壇の燭台を眺めていた。
僕ら白銀の翼は、王女付きの護衛として、大聖堂の側廊に控えていた。アルドは柱の陰から会堂全体を見渡し、クロエは二階の回廊で弓を抱えている。アルマは、花嫁の裾を持つ侍女たちのすぐ後ろにいた。
ギルド長は、トーリさんたち晴天の導きと共に、城の一番高い塔の上で空を見張っていた。
パイプオルガンの音が鳴り響き、大聖堂の扉が開いた。
陛下に手を引かれて、王女が入ってきた。純白の婚礼衣装。長いヴェール。そして、その金色の髪の上で、ティアラが輝いていた。
逆鱗が、脈を打っていた。昨夜よりも、さらに強く。速く。まるで、誰かに呼ばれて返事をしているかのように。
腰の剣が、鞘の中で、ずっと低く唸り続けていた。
誓いの言葉が交わされ、指輪が交換された。
王女は、一度も笑わなかった。けれど、泣いてもいなかった。ただ、まっすぐ前を向いていた。
式が終わると、新しい夫婦は、大聖堂の正面にある大きなバルコニーへと向かった。眼下の広場には、婚礼を祝う王都の民が、何千人と詰めかけている。王女が姿を見せると、地鳴りのような歓声が上がった。
王女が、民に向かって手を振ろうとした、その時だった。
陽の光が、翳った。
歓声が、一つ、また一つと途切れていく。広場の民が、皆、空を見上げていた。
僕も、見上げた。
太陽を背にして、それはいた。
翼を広げれば、大聖堂の屋根をまるごと覆い隠すほどの大きさ。全身を覆う鱗は、真珠のような淡い光と、黄金の輝きを同時に宿していた。王女のティアラの逆鱗と、同じ色だった。
長い首の付け根、喉元の一点だけ、鱗が欠けていた。そこには、古い、引きつれた傷跡が、白く残っていた。
エインシャントドラゴン。
竜が、口を開いた。
轟音が、王都を叩いた。声というより、空そのものが割れるような音だった。色硝子の窓が、一斉に砕け散った。広場の民が、悲鳴を上げて逃げ惑い始めた。
「殿下を中へ! 早く!」
僕は叫びながら、バルコニーへ飛び出した。
王女の隣にいたはずの皇太子が、帝国の騎士たちに囲まれて、大聖堂の中へ引きずり込まれていくのが見えた。皇太子は、一度も王女を振り返らなかった。
王女だけが、バルコニーに取り残されていた。ティアラの逆鱗が、まばゆく光っていた。竜の巨大な目が、その光にまっすぐ注がれていた。
僕は王女の腕を掴んだ。
「シア、中へ!」
その時、背後で、扉の閂がかかる重い音がした。
振り返ると、大聖堂からバルコニーへ出る扉が、閉ざされていた。扉の小窓の向こうに、宰相の顔があった。
「閣下!? 開けてください!」
僕が叫ぶと、宰相は、小窓越しに静かに言った。
「竜が求めているのは、あの鱗だ。鱗を渡せば、竜は去る。王都は救われる」
「殿下ごと、差し出すつもりですか!」
「殿下の婚礼は、すでに成った。帝国との約束は果たされた」
宰相の灰色の目は、どこまでも静かだった。
「王女一人と、王都の民数万。比べるまでもない。……十五年前も、そうだった」
小窓が、閉じられた。
王女が、僕の腕の中で、震えていた。
「宰相の言う通りです」
王女は、かすれた声で言った。
「アルス、あなたは逃げて。私が、これを外して、竜に」
王女の手が、ティアラに伸びた。
その手を、横から別の手が掴んだ。
「駄目!」
アルマだった。いつの間にか、バルコニーの手すりをよじ登ってきていた。侍女の衣装の裾が、破れていた。
「そんなの、あきらめてるのと同じだよ! アルスが言ったんでしょう、あきらめなくていいって!」
「アルマさん……」
「私だって、あなたに負けたくない。でも、こんな負け方、絶対に嫌!」
竜が、翼を大きく打ち鳴らした。
風が、嵐のように吹き荒れた。バルコニーの石の欄干が、音を立てて崩れ落ちていく。僕は王女とアルマを抱え込み、魔法剣を抜いた。刃が、緑色に燃え上がった。
「ウインドボール!」
正面から叩きつけてくる風に、ありったけの風をぶつけた。二つの風が、僕らの目の前で激しくぶつかり合い、渦を巻いて弾けた。足が、石床の上を後ろに滑った。
「アルス!」
下の広場から、アルドの声がした。逃げる民を誘導しながら、アルドがこちらを見上げていた。
「クロエ、目を狙え! アルマ、殿下を連れて下りろ! アルス、少しだけ時間を稼げ!」
二階の回廊の窓から、クロエの矢が飛んだ。正確に、竜の目を狙っていた。けれど、矢は、瞼の鱗に弾かれて、乾いた音を立てて落ちた。
「くそっ、硬すぎる!」
アルマが、王女の手を引いて、崩れた欄干の端から下の屋根へと降りようとした。王女は、一瞬だけ、僕を振り返った。
「アルス、必ず、生きて」
二人の姿が、屋根の向こうへ消えた。
バルコニーには、僕一人が残った。
僕は、塔の上を見た。
一番高い塔のてっぺんに、ギルド長がいた。トーリさんたちが、弓を構え、魔法を放っている。けれど、ギルド長だけが、動いていなかった。
塔の石壁にしがみつくようにして、ギルド長は、竜を見上げていた。その細い肩が、ここからでも分かるほど、震えていた。
十五年前。岩陰に隠れて、竜が怖くて、戦いを見ることができなかった少女。
ギルド長は、今も、その岩陰の中にいる。
竜が、ゆっくりと首を巡らせた。
王女の姿が消えたことに、気づいたのだ。竜の巨大な目が、バルコニーの上を探し、そして、僕の上で止まった。
いや、僕の手の中の、緑色に光る剣の上で、止まった。
竜の動きが、止まった。
荒れ狂っていた風が、嘘のように凪いだ。広場の悲鳴も、遠くの鐘の音も、全部が遠のいていった。
金色の瞳が、すぐ目の前にあった。僕の体よりも大きな瞳だった。その奥で、何かがゆっくりと揺れていた。驚きのような。戸惑いのような。遠い昔を思い出すような。
剣が、僕の手の中で、静かに鳴っていた。怯えてはいなかった。懐かしい誰かに、呼びかけるような音だった。
頭の中に、声が響いた。
低く、重く、岩が軋むような声だった。耳で聞いたのではない。頭の奥に、直接、言葉が流れ込んできた。
『……レイン?』




