第23話 黒髪の勇者
翌朝、ギルド長は朝食の席に下りてこなかった。
部屋の扉を叩くと、中から
「入れ」
と短い声がした。ギルド長は窓辺の椅子に座り、外を見ていた。一睡もしていないような顔だった。
「毛布は、村長のところにあるのだな」
僕が何か言う前に、ギルド長が言った。
「はい。たぶん、今も」
「婚礼が終わったら、確かめに行く。それまでは、誰にも言うな。アルマにも口止めしておけ」
「ギルド長、僕は」
「まだだ」
ギルド長は、僕の言葉をまた遮った。けれど、その声は、宝物庫に入る前よりもずっと弱かった。
その時、宿の主人が慌てた様子で階段を上がってきた。
「お客さん、宰相閣下のお使いの方が、下に」
食堂には、黒い服を着た男が、背筋を伸ばして立っていた。
「白銀の翼の剣士、アルス殿。宰相グランヴィル公が、お屋敷にてお待ちです。お一人で、とのことです」
ギルド長が、僕の前に出た。
「私も行く」
「閣下は、お一人でと仰せです」
使いの男は、表情一つ変えなかった。ギルド長はしばらく男を睨んでいたが、やがて僕の方を振り返り、小声で言った。
「何を言われても、その場で返事をするな。分からないと言って、持ち帰れ。いいな」
「はい」
僕が頷くと、アルマが不安そうに僕の袖を握った。アルドは腕を組んで、黙って使いの男を見ていた。
宰相の屋敷は、城のすぐ近くにあった。白い石の門に、銀の百合の紋が刻まれていた。
通されたのは、天井まで書物に埋め尽くされた書斎だった。窓辺の大きな机に、宰相が座っていた。
「よく来た。座りたまえ」
僕は、勧められた椅子に浅く腰掛けた。
書斎の壁には、何枚かの肖像画が掛けられていた。厳めしい顔の老人たち。代々のグランヴィル家の当主なのだろう。その中に一枚だけ、白い布で覆われた額があった。
「茶でもどうかね」
「いえ、結構です」
「そうか」
宰相は、机の上で指を組んだ。
「回りくどい話は好まぬので、率直に言おう。アルス、王国の騎士にならぬか」
「……騎士、ですか」
「そうだ。そなたの風の剣は、王国にとって得がたい力だ。陛下にも、私から推挙しよう。俸禄も、屋敷も、身分も与える。辺境で魔物を追い回す冒険者暮らしより、よほど良い生活ができる」
宰相は、少し間を置いて付け加えた。
「この国には、かつて、黒髪の勇者がいた。民はまだ、その話を覚えている。そなたが騎士となれば、民は再び勇者を得たと喜ぶだろう」
黒髪の勇者。宝物庫で読んだ帳面の文字が、頭をよぎった。王国の勇者として、騎士団に編入す。半年後、出奔。
「お断りします」
ギルド長に、その場で返事をするなと言われていた。分かっていた。それでも、口が勝手に動いていた。
「僕は、白銀の翼の剣士です。仲間と一緒に、冒険者を続けたいんです。誰かに縛られるために、剣を振っているんじゃありません」
宰相は、しばらく僕を見つめていた。
それから、小さく、笑った。乾いた、疲れたような笑いだった。
「……同じことを言うのだな」
「えっ?」
「あの男も、そう言って、出ていった」
宰相は窓の外に目を向けた。
「あの男。それは、レインさんのことですか? 閣下は、レインさんを知っていたんですか」
宰相は、答えなかった。
代わりに、宰相は机の引き出しから一枚の書類を取り出し、僕の前に置いた。
「では、もう一つの話をしよう。冒険者ギルド本部への、宰相府からの要請書だ」
僕は、その書類に目を落とした。難しい言葉が並んでいたが、意味は分かった。
『白銀の翼のC級認定について、その審査の妥当性を再検討されたし。また、再検討が済むまでの間、同パーティーへの王都での依頼の斡旋を停止されたし』
「これは……」
「冒険者ギルドは、王国の許しのもとで営まれている。宰相府の要請を、無下にはできまい」
宰相の声は、どこまでも穏やかだった。
「そなたが騎士となるなら、この書類は不要になる。白銀の翼は、優秀な騎士を輩出した名誉あるパーティーとして、王都で何不自由なく活動できるだろう。そなたの仲間のためにも、よく考えることだ」
膝の上で、拳を握りしめた。
仲間のため。その言葉が、胸の一番弱いところに突き刺さった。
その時、開け放たれた窓から、風が吹き込んだ。
壁の白い布が、ふわりとめくれ上がった。
一瞬だけ、額の中が見えた。淡い色の髪をした、若い女の人の肖像だった。白い百合の花を一輪、胸に抱いていた。優しく、少し寂しそうに微笑んでいた。
宰相が立ち上がり、素早く布を押さえた。その背中が、なぜかひどく小さく見えた。
「……三日やろう。三日のうちに、返事を持ってきたまえ」
宰相は、背を向けたまま言った。
宿に戻って、皆に全部話した。騎士の誘いのこと。要請書のこと。三日の猶予のこと。
話し終えると、誰もすぐには口を開かなかった。
「汚ねえ」
最初に言ったのは、クロエだった。
「アルス一人が欲しいからって、パーティーごと人質に取るのか。貴族ってのは、そういうもんか」
アルマは、唇を噛んで俯いていた。
僕は、宿に戻る道すがら、ずっと考えていたことを口にした。
「僕が騎士になれば、皆は困らない。白銀の翼は、王都で依頼を受けられる。C級も、取り消されない。だから」
ガタン、と椅子が倒れる音がした。
アルドが立ち上がっていた。
「ふざけるな、アルス」
アルドの声は低かった。怒鳴るより、ずっと怖かった。
「お前、本気で言ってるのか。お前を宰相に差し出して、俺たちだけ楽をしろって言うのか。それで俺たちが喜ぶと思ってるのか」
「でも、アルド」
「でもじゃない」
アルドは、僕の胸ぐらを掴んだ。
「お前は、昔からそうだ。自分が我慢すれば丸く収まるって、すぐそう考える。魔法が使えるようになった時もそうだった。俺に迷惑をかけたくないって、黙ってた。今度もそれか」
アルドの手が、少し震えていた。
「俺はリーダーだ。メンバーを守るのが、リーダーの仕事だ。お前一人に背負わせて、何がリーダーだ」
アルドは僕の胸ぐらを放した。そして、外套を掴んだ。
「ギルド本部に行く。本部長に、直接話をつけてくる。アルス、お前も来い」
ギルド本部の本部長室で、ドルガン本部長は、髭をしごきながら僕らの話を聞いていた。
「確かに、宰相府から要請書は来とる。今朝方な」
本部長は、机の上の書類を指先で叩いた。
「正直に言うと、ギルドとしても、宰相府と事を構えるのは避けたい。お前さんたちが大人しく引き下がってくれれば、それが一番楽だ」
「引き下がりません」
アルドが、きっぱりと言った。
「白銀の翼は、四人で白銀の翼です。一人を差し出して守ってもらう名前なら、そんなもの要りません。C級が取り消されるなら、またD級からやり直します。王都で依頼が受けられないなら、ボーンに帰って受けます。でも、アルスは渡しません」
本部長は、じっとアルドを見つめた。それから、大きな声で笑い出した。
「がっはっは! シルフィの奴が、なんでお前らなんぞと旅に出ると言い出したのか、少し分かった気がするわい」
本部長は、要請書を指でつまみ上げ、ひらひらと振った。
「よし、分かった。この書類は、しばらくわしの机の引き出しで寝かせておこう。シルフィの退任届の隣でな。ギルドの審査ってのは、何かと時間がかかるもんだ」
「本部長……」
「ただし、長くはもたんぞ。宰相が本気になれば、わしでも庇いきれん。その前に、何か手を考えておけ」
アルドは、深々と頭を下げた。僕も慌てて、それに倣った。
本部の広間に下りると、入口のあたりが妙にざわついていた。
冒険者たちが、皆、一斉に道を開けている。その真ん中を、衛兵を二人従えて、一人の少女がまっすぐ歩いてきた。淡い金色の髪。澄んだ青い目。今日はフードもヴェールもかぶっていない。
セシリア王女だった。
王女は、僕の前でぴたりと足を止めた。そして、侍従から受け取った書状を、両手で広げてみせた。
「白銀の翼の剣士、アルス。国王陛下の名において、婚礼の日まで、あなたを王女セシリア付きの護衛に任じます」
広間が、どよめいた。
王女は、僕にだけ聞こえるように、声を落とした。
「宰相の動きは、聞きました。私の護衛になれば、あなたは陛下と私の預かりです。宰相でも、簡単には手出しできません」
それから、ほんの少しだけ、頬を赤くした。
「……それに、私が、そうしたかったのです」
僕が何か答えるより先に、広間の入口から、駆け込んでくる足音がした。
「アルス!」
アルマだった。後ろから、クロエが息を切らしてついてくる。宿で待っていられなくて、追いかけてきたのだろう。
アルマは、王女と僕の間に立った。そして、王女をまっすぐに見上げた。
「アルスは、白銀の翼の剣士です」
「存じています」
王女は、にこやかに答えた。
「ですから、婚礼の日まで、少しだけお借りするのです」
「お借りって、アルスは物じゃありません」
「ええ、もちろん。とても大切な方ですもの」
二人の間で、見えない火花が散った気がした。アルマの髪で、赤い石の髪飾りが揺れていた。王女の目が、その髪飾りに一瞬だけ止まった。
「素敵な髪飾りですね」
「アルスに、もらったんです」
アルマが胸を張った。王女の笑顔が、ほんの少しだけ固まった。
クロエが、僕の耳元で囁いた。
「おい、アルス。お前、本当に身が持たないぞ」
僕は、何も言えなかった。
割って入ったのは、アルドだった。
「殿下。お申し出は、ありがたく受けさせていただきます」
アルドは、王女の前で膝をついた。
「ただし、一つだけ、お願いがあります。護衛のご依頼は、アルス一人ではなく、白銀の翼にお出しいただけませんか。俺たちは、四人で一つのパーティーです。アルスが護衛に立つなら、俺たちもその背中を守ります」
王女は、目を瞬かせた。それから、アルマを見た。クロエを見た。最後に、僕を見た。
やがて、小さく、ため息をついた。
「……分かりました。皆さん、まとめて、お雇いします」
そう言ってから、王女は、アルマにだけ聞こえるような声で付け加えた。
「でも、負けませんから」
アルマも、負けずに言い返した。
「私だって」
アルドが、立ち上がりながら、僕の背中を叩いた。
「よし。これで、宰相も手が出せない。王女様の護衛だ。白銀の翼、初の王宮仕事だぞ」
その顔は、誇らしそうだった。
王女が去り際に、僕の袖をそっと引いた。
「アルス。宰相の屋敷の古い侍女から、聞きました」
王女は、声をひそめた。
「宰相には、一人娘がいたそうです。名前は、エレノア。白い百合が好きで、いつも胸に一輪、挿していたと」
白い百合を胸に抱いた、優しく、寂しそうな微笑み。
宰相の書斎で、風にめくれた布の下に見た肖像画が、目の前に浮かんだ。
腰の剣が、静かに、長く、震えていた。




