第16話 師匠
ハルンの街の門を出たところで、商隊の真ん中を走る豪華な馬車の扉が開いた。降りてきたのはギルド長だった。旅装束に身を包み、腰には細身の剣を差している。ボーンの冒険者ギルドでいつもお茶を飲んでいた姿とは、まるで別人だった。
「今日から私も歩く。馬車の中は退屈でかなわん」
晴天の導きの面々が一斉に背筋を伸ばした。伝説のS級冒険者、シルフィが目の前にいるのだ。無理もない。トーリさんでさえ、どこか落ち着かない様子で咳払いをしていた。
そんな中、アルドだけはいつも通りだった。
「婆さん、歩けるのか? 無理すんなよ。腰でも痛めたら、アルスにおぶってもらうことになるぞ」
一瞬で空気が凍った。ギルド長はゆっくりとアルドの方を向いた。
「……お前、少しは反省したのではなかったのか?」
「いや、だって、正体が分かったら、余計に婆さんだって分かったじゃないか。二百歳なんだろう?」
「懲罰ものだ」
ギルド長は表情一つ変えずにそう言うと、アルドが背負っているリュックに自分の荷物を括り付けた。
「王都まで頼むぞ、リーダー殿」
「えっ、重っ。何が入ってるんだよ、これ」
「乙女の秘密だ」
クロエが吹き出し、アルマが
「お兄ちゃん、自業自得だよ」
と笑った。トーリさんは額に手を当てて天を仰いでいた。
僕はそのやり取りを見ながら、初めてギルド長に会った日のことを思い出していた。あの日、僕は『あきらめろ』と言われた。その人と、今、同じ道を歩いている。不思議な気持ちだった。
昼の休憩になると、ギルド長が僕を呼んだ。
「アルス、来い。食事は後だ」
「えっ、今からですか?」
「お前、空を飛んだそうだな。見せてみろ」
馬車から少し離れた草地に連れ出された。後ろからアルマとクロエがついて来ようとしたが、ギルド長がひと睨みすると、二人は渋々焚き火の方へ戻っていった。
「ウインドムーブだ。やってみろ」
「はい」
僕は魔法剣を抜き、魔力を流した。刃先が薄い緑に光る。あの夜の感覚を思い出しながら唱えた。
「ウインドムーブ」
足元で風が渦を巻き、体がふわりと浮いた。浮いた、と思った瞬間、風がほどけるように消えて、僕は草の上に尻もちをついた。
「……あれ?」
もう一度。今度は膝の高さまで浮いたが、やはりすぐに落ちた。三度目は浮きもしなかった。
「おかしいな。あの時は、もっと自然に飛べたんです。剣が導いてくれて」
僕が言うと、ギルド長は腕を組んだまま言った。
「それだ。お前は剣に頼りすぎている」
「頼りすぎ?」
「あの時お前を飛ばせたのは剣だ。お前ではない。剣はお前の杖ではないぞ、相棒だ。相棒に全部やらせて、自分は乗っかっているだけでは、いずれ見放される」
その言葉が胸に刺さった。剣が拗ねているのかもしれないと言われた日のことを思い出した。
「では、どうすれば」
「剣を鞘に納めろ。剣なしでやれ」
「剣なしで?」
「風魔法に、本来剣など要らん。見ていろ」
そう言うと、ギルド長は呪文も唱えずに宙に浮いた。見えない階段を上るように、一歩、二歩と空を歩き、僕の頭の上で止まった。
「風を起こして体を持ち上げようとするから落ちるのだ。足の裏から魔力を地面に押し出せ。そして、押し出した風の上に立つ。持ち上げるのではない。立つのだ」
「風の上に、立つ……」
ギルド長は音もなく降りてくると、僕の足を軽く蹴った。
「日が暮れるまでに、三歩歩けるようになれ」
午後の移動の間、僕は歩きながら、足の裏に魔力を流す練習を続けた。一歩ごとに魔力を地面へ押し出す。最初は靴の中が熱くなるだけだったが、そのうち、踏み出した足の下で小さく草が揺れるようになった。
「アルス、さっきから歩き方が変だよ。足、痛いの?」
アルマが心配そうに覗き込んできた。
「違うよ。修行中なんだ」
「歩くのが?」
「うん、歩くのが」
アルマは首を傾げていたが、それ以上は聞かなかった。
野営地に着くと、夕食の支度を皆に任せて、僕は再びギルド長の前に立った。
何度も浮いては落ちた。尻もちをつき、膝をすりむき、草の汁で服が緑色に染まった。MPが減って頭が重くなる。それでも、ギルド長は「まだだ」としか言わなかった。
日が傾き、空が赤く染まり始めた頃だった。
僕は目を閉じ、魔力の塊を探った。別腹の奥。そこから魔力をちぎるように切り出し、ゆっくりと足へ下ろしていく。
足の裏から風が押し出された。
今度は、ほどけなかった。
目を開けると、地面が膝の下にあった。僕は風の上に立っていた。
一歩。
足の下に、新しい風が生まれた。
二歩。
三歩。
「できた……ギルド長、できました!」
振り返ると、ギルド長は僕の顔を見ていなかった。僕の左手を見ていた。夕日に照らされたその顔から、すっと血の気が引いていくのが分かった。
「ギルド長?」
途端に集中が切れ、僕は風から落ちて、また尻もちをついた。
ギルド長ははっとしたように瞬きをすると、背を向けた。
「……今日はここまでだ」
「えっ、でも、今、三歩」
「ここまでだと言った」
それだけ言うと、ギルド長は足早に馬車の方へ去っていった。褒めてもらえると思っていた僕は、草の上に座り込んだまま、その背中を見送るしかなかった。
夕食のスープはすっかり冷めていた。
「元気ないね、アルス」
アルマが隣に座って、温め直したスープを僕の手に持たせてくれた。
「三歩、歩けたんだ。空を」
「すごいじゃない!」
「でも、ギルド長は何も言ってくれなかった。何か、怒らせるようなことをしたのかな」
「そんなことないよ。きっと、びっくりしたんだよ。アルスが天才だから」
アルマはまた、根拠のないことを自信満々に言った。それでも、その言葉に少しだけ救われた。
向かいで白湯をすすっていたクロエが、にやりと笑った。
「伝説のエルフ様に弟子入りとは、ずいぶん出世したもんだな、アルス。そのうち、私たちなんか相手にしてくれなくなるんじゃないか?」
「そんなことないよ」
「どうだかな。二人きりで夕暮れまで修行なんて、色っぽい話じゃないか。なあ、アルド」
話を振られたアルドは、荷物の重みで赤くなった肩をさすりながら、焚き火を見つめていた。
「……ああ、そうだな」
いつものアルドなら、ここで大声で茶化すはずだった。けれど、その返事はどこか上の空だった。
「どうした、アルド。婆さんの荷物が重すぎて、口まで重くなったか?」
クロエが肘でつつくと、アルドは「うるせえ」と言って、そっぽを向いた。その横顔を、クロエがほんの一瞬、寂しそうに見つめた気がした。気のせいかもしれない。
その夜、見張りの交代を終えた僕は、なかなか寝付けなかった。空を歩いた感覚が、まだ足の裏に残っていた。
水を飲もうと焚き火から離れた時、野営地の外れの岩の上に、細い人影が見えた。月明かりに長い耳の影が浮かんでいる。ギルド長だった。
声をかけようとして、やめた。ギルド長は膝を抱えて、空を見上げていた。昼間の人を食ったような態度は、どこにもなかった。
「……他人の空似だ」
小さな声が、夜風に乗って聞こえてきた。
「黒髪の人間など、どこにでもいる。ひたむきな若造も、どこにでもいる。そうだろう」
誰かに言い聞かせるような口ぶりだった。
「だが、あの癖は……あれは、誰かに教わるものではないはずだ」
ギルド長は自分の左手を見つめ、親指で、何もない空を二度叩いた。とん、とん、と。
僕は息を止めた。
それは、僕が魔力を練る時、いつも剣の柄頭にしている仕草だった。誰に教わった覚えもない。物心ついた時から、ずっとそうしていた。
「レイン……」
ギルド長の声が震えていた。
「お前は、私に何を隠していた?」
その問いに答える者はいなかった。腰の剣が、鞘の中でかすかに鳴った気がした。
僕は音を立てないように、その場を離れた。毛布にくるまっても、ギルド長の震える声が耳から離れなかった。




