第8話 優勝と再会とプロローグの終わり
決勝戦。
闘技場の中央に足を踏み入れた瞬間、空気の密度がわずかに変わったのが分かった。歓声はこれまでで最大だが、その中心にあるのは単純な熱狂ではない。準決勝の余韻を抱えた観客たちが、最後の一戦を見届けようとする――そんな期待の視線が幾重にも重なっている。
審判の声が高らかに響く。対戦者の名が読み上げられた。
「ノクス」
知らない名前だった。わたしは心の中で首を傾げた。先ほどのうっすらとした記憶は思い違いだったのだろうか。少なくとも、記憶にはっきりとは残っていない名前だ。だが、完全に初見とも言い切れない。脳裏のどこかに曖昧な引っかかりが残る。周年イベントに出ていたなら、覚えているはずだった。何しろ不眠不休で周回していたのだから。もしくは別のシナリオのどこかで見たキャラクター?だとしても、やはり聞き馴染みのない名前だった。
それとも――偽名?
思考は、開始の合図に断ち切られた。
ノクスは静かに魔素を展開する。速さは突出していない。派手さもない。それでも、その盤面の流れは驚くほど滑らかだった。水が低きに流れるように魔素が自然な軌道を描きながら配置されていく。無理も無駄もない。ただ、最短距離で整っていく。
「先ほど幼馴染対決を制したアイリス選手と、まさかのこちらも初出場のノクス選手――」
司会の声が遠のいていく。静かな水面に足をつけるように、集中を深めていく。
私は盤面を広げ、まずは探る。軽く攻撃。
攻撃は通る。相手も返す。噛み合っている。
だが、その応酬の中には、わずかな違和感があった。こちらが一手進めると相手は半歩先で待っている。裏をかこうとすれば、その裏のさらに先が用意されている。読み合いのはずなのに、こちらばかりが読まれている。まるで既に書かれた筋書きをなぞらされているようだった。ノクスが重たい前髪の隙間からこちらを見ている。
(……気味が悪い)
自分の手が、自分の意志で動いているはずなのに、どこかに誘導されている。仕組まれた流れに乗せられている。
それが一番、腹が立つ。
盤面は読むものだ。そして支配するものだ。誰かの筋書きをなぞるためにあるわけじゃない。
――だが。
口元がわずかに緩む。
正直に言えば、こういう状況は嫌いじゃない。むしろ逆だ。不利な盤面、読みづらい相手、想定外の流れ。そういうときほどパズルは面白くなる。周回していた頃もそうだった。イベント最上位の盤面やランキング上位の相手ほど、頭の奥がじんと熱くなる。
逆境ほど、楽しい。
なら、やることは一つだ。
筋書きなんて壊してやる。
私は意図的に流れを崩す。王道の積み方を外し、定石を崩し、変則を混ぜる。誘導と見せかけて罠を仕掛け、あえて読みやすい手を置き、その先で裏切る。盤面はこちらが作る。読ませてたまるか。
場当たり的に並べたように見せて、その裏で攻撃の手を積んでいく。行儀の良い攻撃なんてしてやらない。変則的に攻撃を飛ばす。一手、二手。
一瞬、ノクスの流れが止まった。ほんの刹那だが、指先の動きがわずかに揺れる。視界の端で、彼の口元がわずかに歪んだように見えた。……笑った?
次の瞬間、盤面が反転する。
(しまった――罠)
防御へ切り替える。即座に魔素を重ね、崩れかけた形を立て直す。相手の連鎖が走り、魔素の衝撃が盤面を震わせる。安全制御の内側にあるはずの戦いだが、それでも圧は確かに重い。体が爆風で押される。足に力を込めた。
削られる。
だが、まだ、まだ活路はある。
ノクスの盤面は完璧に見えた。だが、完璧な盤面など存在しない。必ずどこかにほころびがある。
視線を走らせる。流れ。接続。魔素の重なり。
そして――見えた。
ほんのわずかな隙間。
私はそこへ踏み込む。魔素を繋げ、重ね、流れを束ねる。盤面が一気に組み上がる。
「――ここだ!!!!」
その瞬間、ノクスがすっと一歩退いた。
引いた。
意図的にとしか、見えなかった。
そして、私の連鎖が完成する。
魔素の光が連続的に爆ぜ、闘技場を大きく震わせた。衝撃が空気を揺らし、余韻が石床を伝って広がっていく。余韻が消えゆくのと同時に、ノクスの盤面は崩れ去っていた。
一瞬の静寂。
次の瞬間、歓声が爆発した。
「勝者――アイリス・ルミナ!」
司会が高らかに勝者を宣言する。私は息を整えながらノクスを見た。彼は倒れていない。ただ静かに立っている。今、彼が引いたのは偶然だったのか。それとも――手を、抜かれた…?
ノクスが歩み寄る。近くで見ると、その佇まいはさらに異質だった。光を吸い込むような黒衣。前髪の影の奥で、視線だけが鋭くこちらを捉えている。
「強いな。君、名は?」
声は低く、落ち着いている。感情の起伏はほとんど見えない。
「……アイリス。アイリス・ルミナ」
名を告げると、彼は私の手を取った。そのまま高く掲げる。歓声が再び渦を巻いた。
歓声の波の中で、ノクスの背が人波へ溶けていく。中央に残されたのは私ひとりだった。
勝った。
それは事実だが、正直、全く勝った気がしなかった。互角には戦えていたと思う。まだ勝負は分からなかった。それなのに、どうして……。
私は呆然と、対戦相手が去った方向を見つめ続けた。
ほどなくして、観客席がさらに大きく沸き立った。大きな歓声に、先ほどの盤面を反芻していた思考が浮上する。気になることは多いが、とりあえずは勝ったのだ。私は気持ちを切り替える。歓声に背を押され、闘技場の真ん中で一人、姿勢を正した。決勝の後は、表彰式だ。
貴賓席から、ゆっくりと降りてくる姿がある。金の髪が光を受けて揺れ、赤い瞳がまっすぐにこちらを捉えている。
ロイアス・カルド・クラウン。この国の、王太子。
石床を踏む足取りは落ち着いており、その姿が中央に近づくにつれて闘技場の熱は不思議と整っていく。歓声は続いているのに、空気がぎゅっと引き締まっていくようだ。
「久しぶりだな」
よく通る声が響く。
「勝つと思っていた。見事な試合だった」
迷いのない言葉だった。
私は思わず視線を落とす。
「……あの、その。遺跡でのことは、すみませんでした」
逃げたことを思い出す。あれは完全に勢いだった。だがロイアスは小さく肩を竦めただけだった。
「謝ることなどない。仕掛けたのはこちらだ」
拍子抜けするほどあっさりしている。
彼は侍従からメダルを受け取り、それを掲げた。
「優勝の証だ」
冷たい金属が首元に触れ、胸元に重みが加わる。それほど重くないはずなのに、不思議とずしりと感じられた。
次に、ロイアスの隣に控えていた人物が一歩前へ出た。眼鏡。整った顔立ち。落ち着いた気配。無駄のない所作。
……あれ。
脳内でゲームのデフォルメ立ち絵を高速検索する。王太子の隣、冷静沈着、理論派、盤面制御型。そして、眼鏡。
まさか。
攻略対象者のセリオン・フェルマ?
レナルトに続き、今度はセリオン。ノクス……はよく分からないけども。
新キャラが怒涛すぎる。正直、気持ちが追いつかない。
そんなこちらの内心とは対照的に、セリオン・フェルマは落ち着いた声で優勝目録を読み上げ始めた。澄んだ声だった。熱狂する闘技場の中心にあっても、言葉が一つ一つ正確に届く。
優勝者アイリス・ルミナに対し、男爵位を授与すること。さらに特待生として王立学園への入学を許可すること。
感嘆のようなどよめきが広がる。
平民から一日にして貴族へ。この国ではパズル魔法の強さが階級にも影響する。レベルを上げると階級も上がっていくゲームシステムだったが、この世界でもそうらしい。数は少ないが、そうして平民から貴族へと上がっていく者もいる。しかしそれはそう簡単な道のりではなく、その重みはこの世界に生きる者なら誰でも理解しているはずだ。
セリオンは一礼し、ロイアスに視線を戻す。ロイアスが再び一歩前へ出た。
「さらに――」
赤い瞳が、真っ直ぐに私を見る。
「《星連の紡ぎ手》」
二つ名が告げられた。
その響きが闘技場を満たす。上位ランカーに与えられる称号。ゲームの画面で何度も見たシステム。それが今、現実の言葉として私に与えられている。歓声が爆発する。
ゲームをしている時には、持っている称号を格好良さ重視で散々プレイヤー名の上に付け替えて遊んだりはしていたが……。
現実で呼ばれると大変、かなり、すごくこそばゆい。
(だけど、それ以上に……)
遺跡で目を覚ましてからというもの、どこか現実味のない日々だった。森でスライムを倒し、王太子と戦い、幼馴染と真剣勝負をし、怒涛の新キャラに囲まれ、祭りの中心に立っている。寝食を忘れるほど没頭していたゲームを実際に体験できているという興奮が、ずっと身体の奥で燃えていた。
だからこそ、どこか夢の中の出来事のようにも感じていたのかもしれない。けれど。
首にかかったメダルが、ずしりと重い。
その重みは確かで、冷たく、逃げ場がない。
これは現実だ、と告げてくる。
私は歓声の中で、闘技場の石床をもう一度しっかり踏みしめた。足裏に伝わる硬さ。震える空気。視線の重さ。全部、本物だ。
全部全部、本物だった。
土砂降りのような歓声を浴びながら、私は現実に立っていた。
いまだ残るひとつの問題には、とりあえず気づかないふりをしながら――。




