一章【ウワサの転校生】第四話
週明けの朝。
わずかに窪んでいる水溜りを、自転車のタイヤがシャーッと勢いよく弾いた。雨上がりの、少し雨に濡れたアスファルトは滑りやすい。
しかしそんな事を気にも介さず、綾は駅まで続く長い坂道を下っていった。
「おはよー!」
自転車は駅の前で止まって、そのまま駐輪場に鍵を閉めて停めたあと、読んでいた小説を鞄にしまってから、がらんとした土曜日。
駅舎の待合室から呆れた様子で現れたのは、雅俊だった。
「……僕にまず、言うことがあるよな?」
「ええ?あ、これ欲しいんでしょ、シゲチューグミ!これ酸味が強くて目覚めるんだよね〜!」
「……はあ。お前ってやつは、なんで入学早々サボって俺のノートに頼ってんだ!!そしてお前の補講に付き合わされる僕の身にもなれ!」
「うわあああごめん!なんか奢るから、このあと!!」
綾はいつも、幼馴染の雅俊と駅の待合室で合流し、高校へ向かう。
電車の中は通勤服や親子連れが座っているが、土曜日というだけあって平日ほどは混んでいなかった。
綾は席に座りながら、人の声に耳を傾けている。メルカトル図法のように車両内を俯瞰すると、ほとんどの人がスマホを見ていて。
そして瞬きをすると、つり革を掴みながら外を眺めている顕人がいた。まるで何処かに、帰りたくて仕方がなくて、焦がれているかのように。
(あんなことがあったけど、今日は元気かな。ご飯、食べてるのかな)
顕人は何も答えない。何も知らない。綾は、顕人の事を何も知らないと自覚していた。それ故に、どうしても頭の片隅には、彼自身が薄倖な運命を望むように、生き場のない憎悪を抱えている顕人の姿があったのだ。
「……成瀬くんもいま、電車に乗ってるのかな」
「成瀬もくるのか?」
「うん。一緒にサボった仲だしねー!」
「…………」
「あれ、今の突っ込むところじゃない?うわあっ!」
「ほら、早く終わらせるために読んどけ。本を読め」
「マンガじゃないと気が進まないなぁ。そうだ、これ前借りてたマンガ返すね!」
「…………いつのだこれ……」
雅俊は、綾を咎めても、一緒にサボった顕人のことは責めなかった。それは彼なりの事情があるんだろうとか、綾の方が己よりもフレンドリーで、たった一人で入学式のあとに転校してきた彼が気がかりになることも、当然だと理解していた。
その上で雅俊は、読んでいる活字が頁の上を滑って、頭のなかに入ってこないまま、気づけば高校の教室に足を踏み入れていた。
「竜胆も来たのか?お前は授業も真面目に出席してるし、なんならこの前の小テストもほぼ満点だったろ」
「仕方なくですよ。こいつが不良だから」
「まーちゃん!あ、黒田先生、成瀬くんはもう来てますか?」
「あーあいつか……そういや来てないな」
流石に黒田と竜胆の目がある内は逃げられない。綾は補講を受けながら、しかし窓の外から聞こえる音に、耳を傾ける。そして黒田が大量のプリントを置いて職員室へと戻る。
「普段より、サイレンの音が多い気がしない?」
「そうか?んー、近くで火災があったんじゃないか」
「でも、今のって救急車のサイレンだよね。事故だと思うけど」
ようやく綾がプリントをなんとか片付け、職員室へ行って採点をしてもらっている時だった。
ふと職員室にあったテレビの放送を見ていると、最新のニュースに『交通事故、高校生4人が救急搬送』という見出しが映し出された。
その映像は住宅街の橋を映していて、中型トラックが橋の柵も大破して、川へと突っ込んだ様子が流れていた。
「あの橋…………」
情報が繋がる前に、綾の全身を嫌な予感が走った。
百太が縁を切りたい相手と撮っていた写真。それは確か、この色の橋で、近くに公園とか住宅街もあり。類似点がかなり多かった。
「おい、ここは教科書の57ページの公式を使えって言っただろ……っておい、花幡!」
――息も忘れて。
綾はバックやスマホすらも教室に置いて、靴箱からローファーを履いて急いで走った。
先ほどのニュースで流れた駅名を頼りに、電車をのり続いて、道も何度も間違えて、綾はようやく汗だらけのなかで。
その橋を見つけると、救急車が複数止まっていた。
そこにはひしゃげた自転車と、橋の近くの公園のベンチに座る顕人と百太の姿があった。
「ちょっと、二人とも無事……ッ!?」
百太も怪我をしていたが、顕人の足は包帯で巻かれていた。救急隊員が応急手当をしており、ほかの擦りむいた個所も消毒されると、顕人は苦痛に顔を歪めた。
「ごごごめん!!助けてくれたんだ!……成瀬は」
「いっつ…………その、悪い予感」
トラックが来る前日。
百太はスマホの通知に驚いた。それは『謝りたいから、あの橋に来てほしい』と、かつて虐められてきた彼らからの連絡だった。旧友が百太の連絡先を教えたのだ。
百太は大層怯え、その日は眠りにつけなかった。あの縁切りの願いをしたことがバレて、報復されるんだろうか?そんな疑念に苛まれた。
そしてSMSで急ぎ顕人にメッセージを送った。場所と時間を教える。
『明日絶対来てくれよ!お前のせいだろ!』
『ちゃんと縁は切れてるはずだ。これがどんな結末を迎えるかまでは俺の知ったこっちゃない』
そう言ってスマホの電源を切り、スマホを背に横向きになった。しかし、顕人はこの前、御神体を移そうとこっそり実家に帰ったときのことを思い返す。
『何しようとしてるか知らんけどねぇ。婆はあんたん事よう信じとうから。人のために使うんよ……あきちゃん』
「んん…………」
布団のなかで頭をわしゃわしゃ掻いてから、まとまらないままスマホを再度点けて。
絆創膏を貼った親指が、文字をタップする度にチクチクと痛む。
『……園は切れるがやり方は選べねえ。お前から詳細は聞いてたし、執り行いは上手くやった。だが、願った人もまた酷い目に合う可能性はある。それは承知の筈だ、お前は崇徳院の名前も、俺の正体すらどこからか嗅ぎつけて知り得ていた』
だから俺は、断るべきだったんだ。花幡の言う通り。
でもそしたら、百太みてえな弱い奴は、虐げられる弱者は、一生そのまま惨めな人生送るんだろ。
……なあ?ご先祖様。…………父ちゃん、母ちゃん。
顕人は、せめて取るべき責任は最後まで取ることにした。
『いいか、これで最後だ。今後一切、俺と関わるな。そして、俺の正体も、誰にもバラすな』
『…………分かった』
***
――そして、トラックの交通事故、およそ三十分前。
「おお百太ァ元気そうじゃねえか!」
「なんだよお前やっぱナヨナヨしくてうぜえなあ〜!」
「や、やめろよ……!いた!」
「やめなよ〜可愛そうじゃん。今にも泣きそう、えーなんかでも分かるわ。虐めたくなるわこいつ!」
体格の良い三人組に加えて、彼女も加わっていた。
しかしその内の一人は、ほかの二人とその彼女を諌めた。
そうして彼らは、自分達の最近の自慢話をした。彼女もできて、放課後は毎日遊んで、クラスメイトや先生からは優秀な故に、大学の話さえ出ている。自分たちは待望の生徒だと、そう自慢げに話した。
しかし、途中で話を遮った一人の男がいた。
「もういい、やめよう!こんな話しにきた訳じゃないんだからさ。……ごめん。俺が無理言って百太に謝りたいって、皆誘ったんだ。今でも悩んでるって聞いてさ」
「あ、謝って済む話じゃないからな。いつまでも消えないんだ、いじめられた側はさ……」
「そうだよな。すまん……すみませんでした」
「わりー」
「あー?なんかこいつの顔見てたらダルくなってきたわ」
「なんだお前空気読めよ」
「だってさー過去の事だろ、いちいち掘り返すの女々しくね?てかお前昔から被害者面してるからだろ」
「な……!?」
「だって今俺ら別々じゃん。それに昔だってそこまではしてないのに勝手に暴走してよぉ、根に持ってるのマジでいい加減にしろよ〜」
「そんな言い方ないだろ!?なあ、今回はちゃんと謝るって事前に……!」
「はあ〜お前もうざ――」
百太は、その男の胸ぐらを掴んだ。
電線で窺っていたカラスが、一斉に飛び立っていく。
それは彼が、人生で初めて、頭に沸騰した血が湧き上がる。
「許さない!俺の気持ちを踏みつけるお前らは!!」
切歯をギリギリと鳴らし、百太はそのまま胸ぐらを掴みながら橋の柵へ、そのまま落ちてしまえ。そうとさえ願った。
他人の幸せが許せない。他人のことを認めない。百太は胸ぐらをつかむ彼らと、同じ境地に至ってしまった。
「笑うお前らなんか全員死んじゃえよ!!」
荷台を積みすぎたトラックが傾き、倒れた。
そのまま塗れたアスファルトを勢いよく滑りながら、斜め先の百太らがいる橋へと突っ込んでいく。
その時だった。
「――ッ百太!!」
一人。たった一人。
救いの手を差し伸べるなら。そう、顕人は漕いでいた自転車を乗り捨てて、百太を選んだ。
なぜなら自分自身も、大人のために。誰かの為に。自分の人生を生きていたのだから。
――そうして顕人は一人飛び込んで百太の体を吹き飛ばしたが、片足がトラックに当たってしまいケガをする。
そしてその他の人間はトラックに巻き込まれて川へ落ち、救急車で緊急で搬送されたのだった。
綾はショックで言葉が出てこなかった。自分は何も知らなかったこと、助けられなかったこと。そして何より怪我をして尚、悲しそうな顔をしている顕人のことを。
「だからそ、その。俺のせいで……成瀬は……で、でもさ調整間違えたから、俺も酷い目に合いそうだったって話だろ!そうなんだろ!?」
「ちょっと落ち着いて、百太くん!」
百太はそうまくし立てた。縁切りの方法は、必ずしも穏便にいくとは限らない。寧ろ願った者に不幸が訪れ、結果として縁が切れるという叶い方もする。
「…………だから言っただろ。俺は、人間が、嫌いなんだ。だから……」
顕人はベンチに座ったまま、俯いて、言葉を零した。
包帯を巻いた足は、震えていた。
「成瀬くんは、ただ百太くんを助けようとして、自分ができることをやったんだよ。良いんだよ」
「どこがだ……結局俺は、人を不幸にする」
「そんなことないよー。でも次は、私と二人でやろ」
顕人の口から零れ出るのはただ、弱い、痩せ細った言葉だった。
綾は顕人の目の前にひざまずいてから、生き場のないその手を、ただ強く握り返した。
「成瀬くんの手は冷たいけど、とっても温かいよ。頑張った手だよ。でもね、その分、成瀬くんは独りで抱え込んじゃうの。
……だから、まだやれることがあるよ。きっと、二人で考えよう。成瀬くんが本当にやりたいこと、なりたいこと。一緒に探しに行こ!」
顔を上げた顕人の表情に、光が差した。春風が頬を撫でて、木漏れ日が揺れる。
綾の包み込むような笑顔を、顕人は瞬きもせずに、じっと見つめ返した。
「あーゲフンゲフン。お、俺が悪かったよ、まあ確かに自分は弱い、不幸な人間なんだーって。ちょっと思いすぎてたからっていうのも、あったかもな。……酷いこと言って、ごめん」
「別に謝ることねえよ。お前が無事で良かった。しかしどうすっかなぁ……このままだと、またどちらかが身の危険に晒される事もあるかもな」
「んー……じゃあさ。いっそのこと縁を切る相手を変えてみる、とか……?なーんてねウソウソ!よくわからないや!」
そうか、そう言えば。と、顕人は顎に手を当てる。
綾は霊感がほとんど皆無なのだが、その逆の顕人にとってはバッチリと始めから見えていた。
背後で昼ドラの女優っぷりの名演技をしている、キュルンとした目であざとさを見せる、モモンガの守護霊が。
「こいつよーーく見たら悪霊だな」
「ええ!?なんかいるの!?」
「……………………こいつでいいか」
「ちょっと成瀬!?僕のこと見てるけど、勘違い!?俺の何!?」
「よし。じゃあ学校戻るか」
「はーい!あ、顕人くんもこれあげる!シゲチューグミ。一緒に補講頑張ろうね!山のようなプリント全部正解しないと、なんと!帰れません!」
「……ハハ。そりゃ急いでやんねえとな。そんじゃお前も来るだろ、ほら、補講のプリント手伝ってくれ」
「だからおれの何ィ!?!」
その後、彼らは黒田と雅俊に、校舎の隣の隣のオフィスビルに聞こえるほの声量でしこたま怒られた。
補講はお昼頃まで続き、その後は黒田や雅俊、綾や顕人と百太で、近所のお好み焼き屋で夕飯を食べた。
黒田はやれやれと肩を竦め、しかし「お前らが無事で良かったよ」と全額奢るという大人ぶりを見せたのだった。
***
――数日後、搬送された彼らは中傷で意識は回復。
顕人は綾と百太で再度、旧校舎の鳳華堂神社で縁切りの儀を行った。
そしてモモンガの霊は消え、同じクラスメイトと過ごす百太の顔には、随分と笑顔が増えた。
「成瀬。ありがとな。お前だけだったよ、俺の願い、バカになんかしないでさ。ちゃんと、耳を傾けてくれたの」
「……勘違いするなよ?素性を変にバラされたら面倒くせえって話だ。いいか?何でも都合よく行くと思うな、もう聞かねえからな」
「そうだなぁ。アハハ、成瀬も花幡にもっと素直になれよ〜」
「な、なんであいつの話が出んだ!?おい!」
それ以降、また日常が訪れた。
旧校舎の鳳華堂神社はこれにて終い。そう思っていた矢先の事だった。
――生物の授業が終わると、実験室では班のグループごとに、実験結果が出たところから教室に戻っていった。
顕人の班も結果が出てレポートも記載し終わったため、先生に提出て教室を出ようと、教科書を抱えたときだった。
「ちょっといいか!」
声をかけた主は雅俊だった。
先生も教室から居なくなり、この実験室では、まだ数人ほどが駄弁ったりなどしていた。
「ん、竜胆か……お前の班、実験一番早く終わってただろ」
「そうだなぁ、ま、人が少ないほうが良いと思ってさ」
「花幡も先に行かせてか?」
「いつも一緒にいるわけじゃないんだ、僕も。それにあいつはいつも、先に行っちゃうのさ」
竜胆は実験室の紺色の机に座ると、手招きをして、顕人の実験結果が書かれたプリントをざっと読み、顕人に返す。
「この結果による考察は変えた方がいい。例えばこの文章だけど、あの頑固な先生だと減点になるかもな。多少は嘘を交えてでも、正解を書くべきだ」
そう言って片眉を上げ、顕人を見上げる雅俊の目は、綾のは見せることのない、決意を秘めた鷹のような鋭い視線だった。
学校の課題の点数というのは、ただ教科書を丸写しするだけではとれない。それだけでなく、先生の出題傾向や、採点のつけ方、そこまで熟知する必要があることを、雅俊は幼い頃から理解していた。
「嘘はダメだろ。素直に書いた。俺が思う根拠はこれだ」
「嘘はダメ、か。じゃあ今度からは、“ストク君”……って呼んだ方がいいか?」
「……………………は」
「いや、僕からは追及しないし、脅す気もない!誤解されたくないからハッキリ言っておくけどな」
しまった。顕人は油断をしていた自分に、初めて気づく。
いつもは綾の向こう側で旧知の仲で、喧嘩が絶えないほど仲がよい。しかし、相槌が“上手すぎる”し、よくできた男だとは思っていた。
――お利口で、鈍感で、気づかないふりをして。
だからこそ気づくべきだったのは、綾という存在に潜む存在を、もっとマークするべきだったと。
「崇徳院という非業の死を遂げ、世界に災いをもたらす使命を持つ君だからこそ、見込んでる。頼みがあるんだ」
壁際にじりじりと寄せられ、壁に手をつかれてしまえば逃げ道は、ない。
「僕と花幡の縁を、切ってくれ」
寿命を迎えた花弁が散り始めるように。
――顕人が抱えていたプリントが、二人だけとなっていた実験室のなかで、静かに床の上に落ちた。




