氷の死神、初めてのパニック
王都での建国記念パーティーからアスラン辺境伯領に戻り、数ヶ月が経った頃。
アスラン城の調香室で、いつものように新しいハーブの選別をしていた私は、ふと奇妙な違和感を覚えました。
(あれ……? いつもは大好きなはずの、ラベンダーの香りが……少し鼻につくような?)
それだけではありません。ここ数日、どうにも体がだるく、朝起きるのが少し辛かったのです。
最初は王都への長旅の疲れが今頃出たのかしら、なんてのんきに考えていたのですが、ふと思い当たる節があり、私は念のために領地の高名な医師であるロバート先生を調香室に呼びました。
診察を終えたロバート先生は、深く蓄えた白髭を撫でながら、これ以上ないほど温和な笑みを浮かべました。
「おめでとうございます、エレナ様。――ご懐妊ですぞ。すでにお腹の中に、二ヶ月になる小さなお命が宿っております」
「え……っ」
一瞬、頭の中が真っ白になりました。私の思考回路は完全に停止。
私の、お腹の中に、ギルバート様との子供が。
「本当に……本当ですか、ロバート先生!?」
「ええ、間違いございません。これからはお体第一ですぞ。特に調香室での強い香りの取り扱いや、長時間の立ち仕事は控えていただかねば――」
「――何だとっ!!!?」
バシャァァァン!!!と、まるで城に落雷でも落ちたかのような凄まじい音と共に、調香室の頑丈な木製の扉が勢いよく撥ね開けられました。ドアの耐久値、今絶対削れましたよね……?
そこに立っていたのは、仕事中のはずのギルバート様でした。執務室で書類仕事でもしていたのか、手には万年筆を握りしめたまま、その美しい顔を驚愕と戦慄で引きつらせています。完全に不法侵入の勢いで
「ギ、ギルバート様!? なぜここに……」
「エレナが医師を呼んだと聞いて、心臓が止まるかと思った……! 執務室からここまで生きた心地がしなかったぞ! それより、ロバート、今何と言った!? 懐妊だと!? エレナの体に何かが宿っているのか!? それは安全なものなのか!?」
「閣下、落ち着いてくだされ。おめでた、つまり新しい命にございます。至って健康、この上ない吉報ですぞ」
ロバート先生が苦笑しながら説明すると、ギルバート様は一瞬凝固しました。
そして、握りしめていた高級万年筆が、彼の凄まじい握力によってミシミシと音を立てて粉砕されました。万年筆さん、無念の死亡です。
「お、俺と、エレナの、子供……?」
じわじわと状況を理解したらしいギルバート様は、見たこともないほどに顔を真っ赤に染め、そのまま私の前に崩れ落ちるようにして膝を突きました。おいおい、氷の死神の威厳はどこへ行ったんですか。
「エレナ……! ありがとう、ありがとう……! ああ、だが待て、ロバート! 立ち仕事は控えると言ったな!? 今すぐ城中の床に極厚の絨毯を敷き詰めろ! 壁という壁にクッションを貼り付け、エレナが万が一にも転ばないようにするんだ!」
「ギルバート様、落ち着いてください! さすがにそれはやりすぎです!」
「やりすぎなものか! おい、誰かある! 今すぐ騎士団を招集しろ! 城の周囲に結界を三重に張り、鳥一匹、エレナの安眠を妨げる鳴き声をあげることは許さん! それから王都の最高級の果物を馬車ごと買い占めてこい!」
『氷の死神』と恐れられ、数万の魔獣の軍勢を前にしても眉一つ動かさなかった天才武官が、今や完全にパニックを起こして部屋中を右往左往しています。その様子を後ろで見ていた側近のセバスさんは、「やれやれ」と額を押さえてため息を吐いていました。安定の苦労人ポジション、本当にお疲れ様です。
「閣下、まずはエレナ様をベッドでお休めさせるのが先決かと」
「そ、そうだな! エレナ、歩いてはダメだ。俺が抱く。いや、俺が抱く衝撃すらお腹の命に障るかもしれない……いや、やはり俺が抱くのが一番安全だ!」
葛藤の末、ギルバート様は羽毛よりも優しい手つきで私をお姫様抱っこし、これ以上ないほど慎重な足取りで、まるでガラス細工を運ぶように寝室へと私を運びました。
それからのギルバート様の過保護ぶりは、まさに『限界突破』という言葉がふさわしいものでした。過保護モード全開です。
私が少しでも引き出しを開けようとすれば「重いものは俺が持つ!」とスッ飛んできて、私が「少しお水が飲みたいわ」と言えば、最高級の天然水を銀の冷酒器に入れて自ら口元まで運んでくれる始末。あの、私、介護されてるわけじゃないんですけど。
さらには、領民たちにも「エレナ様のご懐妊」が知れ渡り、領内は大お祝いムードに包まれました。
「エレナ様! 安産に効くという特産のハーブです!」
「お腹の赤ちゃんのために、一番柔らかい羊毛で作った靴下を持ってきました!」
城の門前には、領民の皆さんからの温かいお祝いの品が山のように積み上げられていきます。貢ぎ物の量が完全にチート。
ベッドの上で、たくさんのクッションに囲まれながら、私はお腹にそっと手を当てました。
かつて実家の薄暗い地下室で、誰にも省みられず、冷たい床の上で夜通し薬草をすり潰していたワンオペ社畜の私が。
今は、世界で一番愛する旦那様にこれ以上ないほど過保護に甘やかされ、領地中の人々から祝福されて、新しい命を育んでいる。
「ふふ、ギルバート様。私、本当に幸せです」
隣で私の手を包み込み、心配そうに私の顔色を窺っていたギルバート様に微笑みかけると、彼は愛おしさが爆発したような顔で、私の手を自分の頬にすり寄せました。
「俺もお前を世界一幸せにすると誓ったが……まだまだ足りないな。エレナ、生まれてくる我が子と共に、生涯をかけてお前を溺愛し続ける。覚悟しておいてくれ」
氷の死神の、どこまでも優しく、どこまでも熱い、クソデカ感情の誓い。
私を包むアスラン城の空気は、今日も私が調合したどのアロマよりも、甘く幸せな香りで満ち溢れているのでした。




