お姫様抱っこと、崩壊の始まり
「――え……? 辺境伯家の、正妃、ですか……?」
あまりに想定外なプロポーズ(ガチ)に、私の思考回路は完全にフリーズしました。
王国の最北端をワンオペで統治し、数々の魔獣をミンチにしてきたというギルバート・フォン・アスラン辺境伯。その圧倒的なラスボス級の覇気と異次元の美貌に気圧され、私はただの置物と化すしかありません。
そんな私を見て、ギルバート様はふっと表情を和らげました。
冷酷無比と噂される『氷の死神』の顔に、信じられないほど尊い、優しい笑みが浮かびます。
「驚かせてすまない。だが、俺は本気だ。お前の調香術は、我が領民を、そして俺の命をも救う奇跡の力だ。……まずは、その冷えた体を温めるのが先だな」
「あ、あの、ギルバート様……っ!?」
次の瞬間、私の視界がふわりと浮き上がりました。浮遊感キターーー……って、え?
気がつけば、私はギルバート様の逞しい腕の中に――いわゆる『お姫様抱っこ』の体勢で綺麗に収まっていたのです。体幹強すぎでは?
「な、何をおっしゃるのですか! 私など地下室の社畜あがりで薄汚れておりますし、二足歩行できますっ!」
「ダメだ。足元を見てみろ。そんなボロボロの靴で歩けば怪我をする。それに――俺が抱いていきたいだけだ」
「な……っ」
恥ずかしさで顔面が爆発四散しそうです。地下室で泥をすするような限界生活をしていた私に、こんな風に触れてくれる人がこの世に存在するなんて、完全に世界線のバグ。
彼の胸からは、ほんのりと上質な雪解け水のような清涼な香りがして、私の限界メンタルを不思議と落ち着かせてくれました。
そのまま私は、夜会の敷地外に待機していた、豪華な黒塗りの馬車(超高級・防弾仕様っぽいやつ)へと運び込まれたのでした。
◇◇◇
一方その頃、きらびやかな王宮の夜会会場(笑)では。
エレナを追い出したボルドー伯爵と、妹のリリア、そして元婚約者のセドリックが、極上のワインを片手に大はしゃぎで祝杯をあげていました。
「ふはは! やっとあの目障りな陰キャ無能を処分できた。これで我が公爵家とボルドー伯爵家の結びつきは完璧だな、セドリック殿!」
「ええ、お義父様。あのような陰気な女、我が家の家具調度品以下ですよ。これからはリリアの『聖なる香水』を我が派閥で独占し、さらなる権力を握りましょう」
セドリックはリリアの肩を引き寄せ、満足げにドヤ顔をキメます。
リリアもまた、猫のようになつきながら、内心で激しい優越感に浸っていました。
(ふふん、お姉様、ざまぁ見ろ。お父様もセドリック様も、みーんな私のもの。お姉様は一生、どこかのドブ川の路地裏で野垂れ死んでいればいいのよ、乙!)
しかし、そんな彼らの傲慢極まる脳死パーティーは、一人の男の登場によってあっけなく遮られることになります。
「――ほう。ボルドー伯爵、ずいぶんと景気が良さそうだな」
低く、地を這うような威厳に満ちた声。
振り返った伯爵たちの顔から、一瞬で血の気が引きました。
そこに立っていたのは、現国王陛下の実弟であり、国内の全魔術師を統括する最高峰の権力者――ヴィンセント公爵でした。完全に詰みイベントのボスです。
「び、ヴィンセント様! これはご挨拶が遅れ、大変申し訳ございません!」
ボルドー伯爵は慌ててヘコヘコと頭を下げます。
「挨拶などどうでもいい。それより、我が公爵家に定期納品される予定の『聖なる香水』の最高級品は、まだ届かないのか? 最近、妻の体調が優れなくてな。リリア嬢の香水でしか癒やせぬ呪いなのだ」
ヴィンセント公爵の言葉に、リリアは「私の時代キタ!」とばかりに胸を張って答えました。
「お任せください、ヴィンセント様! 私にかかれば、あのようなパフューム、明日にはいくらでも調合してみせますわ!」
「そうか。ならば期待しているぞ。もし遅れるようなことがあれば……我が家との取引だけでなく、魔術ギルドからの全支援を打ち切らねばならんからな」
笑顔でえげつない釘を刺し、ヴィンセント公爵はその場を去っていきました。
ボルドー伯爵は「もちろんでございます!」と調子よく答え、リリアを振り返ります。
「聞いたか、リリア! さっそく明日、屋敷の調香室で最高級品を量産するのだ。いいな?」
「ええ、お父様。そんなのイージーすぎて草。いつも通り、調香室にある『ベースの液体』に、私の魔力をちょちょいと混ぜて、可愛い小瓶に移すだけでしょ?」
リリアは深く考えもせず、ケラケラと笑いました。
彼女はまだ、何も分かっていなかったのです。
その『ベースの液体』を作っていたのが、たった今、自分たちがゴミのように追い出した姉・エレナの、血と汗とにじむワンオペ努力の結晶であったということを。
そして、エレナが部屋を出た瞬間から、調香室の環境を維持していた魔法のバフ(触媒)が完全に消失したという事実に。
ボルドー伯爵家の破滅へのカウントダウンは、この時、確実に始まっていたのでした。
◇◇◇
その頃、アスラン辺境伯家の高級馬車の中。
「……信じられない。これ、本当に私の手ですか……?」
私は、自分の手を見つめて呆然としていました。
馬車に乗った直後、ギルバート様が取り出した特製の薬湯で手を洗うと、長年の過酷な労働でひび割れ、タコだらけだった私の両手が、まるでチート魔法を使ったかのように白く、つるつる滑らかな美肌へと生まれ変わったのです。何この神ライフハック。
「アスラン領の温泉成分と、お前が作った香水の成分を少し混ぜた特効薬だ。お前のその手は、奇跡を生み出す至高の手。傷一つ残すわけにはいかない」
ギルバート様は私の手をそっと取り、その手の甲に、誓いを立てるように優しく唇を落としました。
……え、ちょっと待って、手の甲にキスって、それガチなやつじゃん!
「あぅ……っ」
あまりの糖度過多な待遇に、私の心臓はまたしても激しく脈打ちます。キャパオーバーです。
実家では、食事は犬の餌レベルの残り物、部屋は冷たい地下室、声をかけられる時はいつも罵倒されるか、調香の催促(タダ働き)だけでした。
「エレナ。これからは誰も、お前を虐げさせない。お前を傷つける者は、俺がこの剣にかけて文字通りすべてを滅ぼす(物理)。お前はただ、俺の隣で、お前の好きな香りを自由に作っていればいい」
氷の死神と恐れられる男性の、嘘偽りのない、底なしの執着と重めな溺愛。最高か?
「はい……。私、ギルバート様のために、最高の香りを調合いたします」
私が柄にもなく微笑んでみると、ギルバート様は耳の裏まで真っ赤にして、スッと視線を逸らしました(まさかのツンデレ・照れ属性持ちだったようです。ギャップ萌えか?)。
こうして、私はブラック実家をあとにし、最高のホワイト転職(辺境伯夫人)へと一歩を踏み出したのです。
数日後、実家から「香水が作れない! 詰んだ! 助けてくれ!」という血相を変えた速達手紙が届くことなど、今の私はまだ知る由もありませんでした。
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