引き金は撃たれた
重い。
抱え込んだM7のレシーバーが、汗ばんだ七海の胸元を冷たく圧迫していた。
右手の親指は、セレクトレバーの「SAFE」の突起に掛かったままだ。だが、爪先は可動域の限界まで下に押し込まれ、レバーは「AUTO」へと容易く滑り得る状態にあった。指が強張るたび、カチリと微小な金属音が硬いシアーの噛み合わせを削っている。
七海は両手で固く銃を抱えたまま、顎を下げて左手の親指の生え際を前歯で噛んだ。皮が弾け、塩分を含んだ体液が舌に滲む。
――ガサッ。
茂みが大きく揺れた。
「――七海ちゃん!?」
葉を分けて姿を現したのは、伊藤桃香だった。すぐ後ろに北条玲奈が続いている。
玲奈の腰には、支給品のサバイバルナイフが重そうに揺れていた。二人がこの島で手に入れた唯一の刃物だ。玲奈は桃香の背中に隠れるようにして、周囲を怯えた目で窺っている。
「よかった、無事だったんだね」
桃香が破顔した。その笑顔には、一切の揺らぎがない。
七海の踵が、湿った腐葉土を滑らせた。
体育祭の日も、桃香はまったく同じ顔をしていた。
クラスの輪に入れず、木陰で膝を抱えていた七海のもとへ走り寄り、「七海ちゃんも飲む?」とスポーツドリンクのペットボトルを差し出してきた。周囲から「桃香って本当に気が利くよね」と声が上がった。
七海はそのボトルを受け取った。
ぬるかった。
桃香はそのぬるさに気づかないまま、満足そうに微笑んで戻っていった。
桃香の善意は、いつだって正しい。正しくて、完璧で、受け取った側を惨めに押し潰す。
「……来ないで」
「七海ちゃん?」
桃香の右手に、小さな茶色いガラス瓶があった。
親指がプラスチックの蓋に掛けられている。
「顔、真っ青だよ。これ、あげに来たの」
桃香が踏み込んできた。
その無垢な瞳は、七海が抱えているM7の銃口など、まるで視界に入っていないかのようにまっすぐだった。七海がどれほど追い詰められ、どれほど恐ろしい怪物を抱えているかも知らず、ただ「救ってやる」という純粋な善意だけで距離を詰めてくる。
その圧倒的な正しさが、七海には何よりも恐ろしかった。
この女は、自分がどれほど七海を追い詰めているのかすら死ぬまで気づかない。
(やめろ)
呼吸が途切れた。
桃香の親指が、瓶の蓋をパチンと押し開けた。
(私を、これ以上惨めにするな――っ!)
突き出した両手の中で、滑っていた親指がレバーを「AUTO」へ叩き落とすと同時に、狂乱した指がトリガーを引き切っていた。
銃身が跳ね上がり、強烈な打撃が七海の鎖骨を殴りつける。
連続する破裂音がジャングルの湿気を引き裂いた。
熱い薬莢が連続して飛び散り、視界が激しく揺れる。
弾丸は桃香の胸元に吸い込まれ、その背後へ抜けた。
衝撃で弾き飛んだ茶色の瓶が岩に当たり、甲高い音を立てて粉々にはじけた。舞い散った白い塩分粉末が、土に広がる赤い液体のうえに静かに降り積もる。
桃香の顔から、あの完璧な笑顔が消えた。
彼女は自分の胸元を見下ろし、何かを理解できないというように首を傾げ、そのまま膝から崩れ落ちた。土の上に倒れた桃香は、二度と動かなかった。
「桃香……? 嘘でしょ、桃香ぁぁっ!」
絶叫した玲奈が腰の鞘からナイフを引っこ抜き、それを地面に投げ捨てるようにして桃香の遺体にすがりついた。血の海に膝をつき、冷たくなっていく親友の体を抱きしめる。
七海は肩で息を吐きながら、煙を吹くM7をがむしゃらに抱え直すと、後ろの暗がりへ脱兎のごとく這い進んだ。草木をなぎ倒す音を残し、闇の中へ消えていく。
数秒後。
「ひっ……!?」
反対側の茂みを押し分けて、小早川葵が駆け込んできた。
葵の視界に跳び込んできたのは、静まり返った森の空き地だった。
血の海の中で親友を抱きしめて号泣している玲奈と、その足元に転がっている、刃先まで血に染まったサバイバルナイフ。
「やだ……やだぁぁぁっ!」
葵は息を詰まらせ、両手で顔を覆うと、もつれる足で脱兎のごとく引き返していった。
二人がナイフ1本しか持っていないことを知っていた葵の脳内で、その惨劇は一つの結論として完結していた。
「玲奈が……ナイフで……桃香を殺したぁぁっ!」
遠ざかる悲鳴が、森の暗闇に溶けていく。
湿った泥の中に深く身を潜めていた七海は、ちぎれた親指の皮の痛みに耐えながら、ただ体を小さく丸めていた。
手の中のM7は、まだ熱かった。




